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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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343 2nd_War(9)

 ■第二次世界大戦(2)


 日支戦争が終わって以後、日本は日本なりに連合軍寄りの姿勢を強めた。

 イギリスに武器の輸出(バーター取引)や援助も、積極的に実施するようになった。

 

 ソ連との関係悪化と極東の僻地での対立状態も、当時ドイツとソ連が不可侵条約を結んでいる事から、少なくともヨーロッパの連合軍からは好意的に見られていた。

 特に日支戦争で作った大量の武器弾薬は、当時窮地に立っていたイギリスに大量に日本の船で運び込まれた。

 

 イギリスの各地に入港する日の丸を掲げた船に、イギリス国民は強く勇気づけられた。

 しかも1941年に入る頃からは、日本海軍の艦艇が護衛するようにすらなった。

 これはドイツのUボート潜水艦が、ドイツに対して中立国である日本の船(商船)も無制限通商破壊の戦略に従って沈めたからだ。


 そうした状態の頃、ドイツが突如ソ連に全面侵攻を開始する。

 日本にとって、ソ連の脅威が一時的であれ消滅し、自らの孤立した状況を打破する千載一遇の機会の到来だった。

 

 世界が転換して後の日本にとっての最初の大きな外交舞台は、イギリスの誘いに乗る形での1941年7月に開催された「大西洋憲章」への参加だった。

 既に6月22日に、ドイツが突如ソ連へ攻め込んで自国近隣での軍事的脅威が消滅したので、実際に会議場について以後の日本の動きはかなり積極的だった。

 

 その後、ソ連との間の援助交渉は、ソ連側の我が儘により難航した。

 だが、日本軍の動員解除に対応したソ連極東軍の移動に関する協定は早く結ばれ、日本軍が満州から消えるよりも早くソ連軍は極東から急速に姿を消していった。

 

 そして7月、日本帝国首相は国産の新型大型機を用いて足早に渡米。

 アメリカとの間にソ連へのレンドリース航路の解放、北太平洋上での軍備削減など安全保障を話し合うのが目的だった。

 加えて、イギリスに対しては1年以内の参戦を約束した。

 

 だが「大西洋会談」に参加するため、日米そしてイギリス政府が調整した末の外遊であり、首相はそのまま米英日首脳会談を行った。

 先にアメリカとの話し合いをしたのも、「大西洋会談」を円滑にするためだった。

 

 その間、日本本土からは、インド洋経由で就役したばかりの最新鋭戦艦《大和》が、アメリカへと巡航速度無視の高速で向かった。

 あまりの巨体に、ニューポートへの入港の際にアメリカ国民の度肝を抜いた。


 そしてイギリス、アメリカに加えて日本の三首脳が洋上で会し、8月12日に「大西洋憲章」が発表される。だが日本側の意見をくみ入れる形で、地域や人種に関しては敢えて触れずに発表された。

 

 このため国際連盟でも議論された、白人と有色人種に関する問題はあえて表面化されていなかった。

 各国首脳も、この件に関しては大戦が終わるまで明確な発言を避けている。

 

 ちなみに、日本がアメリカ、イギリスにこの条件を呑ませるため、ドイツが行っている人種差別問題を取り上げたと言われている。

 

 ナチスドイツが人種差別を行っているのに、対向する自分たちの陣営が同じように人種差別を当然としているようでは、後世の批判を受けると考えられた末の結果だった。

 そし人種差別の件は、その後会議を主導した英米にとっても大きな利益となっている。

 

 なおこの頃アメリカは、既にルーズベルト大統領が三選を果たし、アメリカはレンド・リース法案の可決や、大西洋各地での実質的な軍事活動によって、自らを連合軍の側に置いているも同然だった。

 連合軍(U.N.)という言葉も、「大西洋憲章」で登場した新たな言葉だった。

 

 日本帝国は、「大西洋憲章」への参加によって満州事変から日支戦争にかけての泥沼から何とか抜け出したが、だがこれは一歩にすぎなかった。

 しかし、次の一歩が大きすぎた。

 次の一歩とは連合軍としての参戦、ドイツに対する宣戦布告だからだ。

 

 一方、大西洋憲章に参加した日本は、この頃まだ日支戦争の後始末に追われ、停戦に対する国民への報償として一時的な戦時体制の緩和を実施していた。

 

 また、1年以内に連合軍として参戦して再び戦時動員を強化しなければならないが、他の列強に比べてまだ近代国家として遅れた所の多い日本としては、少し休まなければ次の動きが出来ないと言う物理的な理由もあった。

 何しろ次の主戦場は、日本から遙か彼方のヨーロッパだ。

 

 しかし、大西洋憲章への参加と参戦表明によって、何もしないわけも行かなくなった。

 そこで東南アジア、インド洋での、「治安維持活動」のため海軍の派遣が決まった。

 日支戦争で重慶爆撃以外にあまり活躍の場がなかった海軍は、勇躍して彼らにとっての本当の戦争準備を行った。

 

 1941年末くらいからは、インド洋での実質的な海上護衛戦も開始するようになる。

 正式参戦はまだ先だったが、もう参戦したも同然だった。

 既に日本の軍艦が、商船を護衛して英本土に頻繁に赴くようになっていた。

 

 海軍内では、「遣欧艦隊」の通称が大っぴらに言われていた程だ。

 そしてブリテン本島や北アフリカ、中東には、観戦武官、連絡武官の派遣が積極的に行われ、イギリス、アメリカに駐在する外交員の数も大幅に増やされた。

 

 逆に、日本に着たイギリス、アメリカの武官、外交官も多数になり、日本と英米との間の交渉も、世界各地で頻繁に行われるようになった。

 日本の参戦は目前に思われた。


 だが日本の参戦に思わぬ障害が立ちはだかった。

 日本国民の民意だ。


 日本人一般からすれば、ヨーロッパでの戦争は遠い世界の出来事に過ぎないし、ようやく支那(中華民国)との不毛な戦争が終わったのに、という気持ちが非常に強かった。

 そのためのガス抜きとして限定的な動員解除を実施したのだが、かえって国民の非戦心理を強める結果になっていた。

 

 また、政府は共産主義の脅威を言い立てていたのに、何故ソ連を支援、さらには同盟するのかという点でも、政府は民意をなかなか得られなかった。

 政府が説明したナチス・ドイツ、ファシズムの脅威も、実害がない日本ではあまり脅威とは認識されなかった。

 

 支那問題での反ドイツ感情はあるが、若者の血を流させるほどではないと考えられていた。

 日本政府も民意がないので、簡単にヨーロッパの戦争に参戦するわけにもいかず、お茶を濁すかのようにイギリスなどへの支援を増やすことになる。

 

 これには日支戦争で大量に作った兵器が充てられ、軍艦から各種航空機、戦車に銃砲、各種弾薬、さらには一般工業製品に至るまで、多くのものが対象となった。

 

 またイギリスが必要とする船舶、鋼材などの一般品も多数がヨーロッパへと向かう。

 しかしアメリカほど裕福ではない日本は、支援ではなくバーター貿易が主軸で、日本が必要とする原料資源と交換された。

 

 ソ連との間にも、少し遅れてだがイギリスと同様の関係が結ばれた。

 1942年に入る頃から、シベリア鉄道はモスクワ方面に行くときは日本の兵器や工業製品を乗せて、ウラジオストクや大連、釜山を目指す時は日本向けの原料資源を満載した。

 また、太平洋を押し渡ってきたアメリカの船も、日本の領域を通過してシベリア鉄道ルートの支援を行うようになった。


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