339 2nd_War(5)
■日支戦争(3)
1939年5月、日本軍は世界初の戦略爆撃と言われる「重慶爆撃」を開始する。
重慶のある四川盆地は冬の間は霧で空が閉ざされるため、5月から10月の半年間程度しかまともな爆撃が出来ない気象条件にあった。
そして日本側からの講和のアプローチが失敗したことを受けて、この時期から中華民国を交渉のテーブルに引きずり出すための攻撃として、「重慶爆撃」が開始された。
爆撃は約半年間実施され、日本軍は陸海軍併せて約150機の中華民国空軍機を撃墜もしくは破壊し、都合5000トンの爆弾を投下した。
爆弾の中心は焼夷弾のため重慶全市はほぼ焼失し、防空壕などの準備が整っていなかった中華民国政府関係者にも多くの死傷者が出た。
だがこの爆撃は、軍事的にも政治的にも失敗だった。
からくも爆撃を逃れた蒋介石は、さらに奥地の成都に後退して徹底抗戦を唱え続けた。
そして都市無差別爆撃によって国際的な日本への批判が一気に高まり、前年からの停戦に向けた日本の動きは、空爆準備のための時間稼ぎとすらとられた。
もっとも、ドイツと関係の深い中華民国を表だって支援する西欧諸国は現れなかった。
何しろ1938年秋頃から、英仏にとってドイツは仮想敵であり、ドイツが中心となった枢軸陣営は敵と言えた。
そしてその一角に中華民国にあるのだから、支援するのはお門違いも甚だしかった。
英仏などは、むしろ日本との貿易を増額させて、自らの戦争前に少しでも稼ごうと動いていた程だ。
そして兵器の自給ができない中華民国は、日本を少しでも弱体化させたいソ連だけからの支援を頼りとして戦うも、もはやじり貧状態だった。
そして息も絶え絶えとなった蒋介石達だったが、世界はさらに急速に動き始めていた。
当時の中華民国は、「華独合作」という協定によってドイツと親密な関係にあり、世界的に見て中華民国は準枢軸陣営と見られていた。
防共協定の対象のソ連が中華民国に兵器を供与しているという不思議な構図になっていたが、ソ連も英仏にとって敵のようなものなので、あまり関係もなかった。
特にドイツの膨張に歯止めがかからないと見られたズデーデン問題以後、つまり1938年10月以後は中華民国の行いに肯定的な見方は減っていった。
日本としては、1938年秋から翌年春までが日支戦争を終息させる大きなチャンスだった。
だが日本は、中華民国が白旗を振ってくると楽観して高圧的な停戦外交に出たのだが、蒋介石の頑なな姿勢のため停戦や講和に失敗してしまう。
その年の5月からは日本の重慶爆撃が大規模化し、日本の国際的な非難と孤立は進んだ。
欧米諸国ばかりか、ドイツからすら強い非難の言葉を受けていた。
しかしドイツの対日批判は、中華民国とドイツの関係を世界が思い出す切っ掛けともなった。
しかも、戦争中に出くわした兵器の多くやドイツの軍装に身を包んだ中華民国軍兵士、さらに重慶の空を守る戦闘機の一部がドイツのメッサーシュミット社の機体とあっては、中華情勢に注目する人々としてはドイツと中華民国の関係を無視することは出来なかった。
日本もドイツへの敵意を募らせていた。
そしてさらに1939年8月、ドイツとソ連が不可侵条約を結ぶと、中華民国の行動は枢軸陣営の行動の一環ではないかと主に日本では見られた。
要するに、日本軍を中華民国に引きつけてソ連に利する行為を行ったと見られたのだ。
日本軍が中華民国内で身動き出来なければ、ドイツとの関係を結んだソ連は日本との関係で優位に立てるだけでなく、東欧などでも好き勝手出来るからだ。
そこにきての第二次世界大戦勃発により、侵略している側の日本がむしろ枢軸陣営の壮大な謀略に陥れられた被害者なのではという論調が、特に枢軸及び共産主義に怯えるヨーロッパで起きた。
そして大戦勃発後は、ドイツと戦端を開いたイギリス、フランスが日本への接触を増やした。
もっとも、日本は中華地域での戦火を拡大するばかりで、あまつさえ都市への大規模な無差別爆撃に踏み切っていた。
この点、アメリカなどが非難するように弁解の余地は無かった。
しかし当時の東アジア情勢は、世界の傍流でしかなかった。
1939年9月1日にナチス政権下のドイツが突如ポーランドに侵攻し、これに対してイギリス、フランスがドイツに宣戦布告を実施。
第二次世界大戦が勃発した。
中華地域では、日支戦争勃発の時点で第二次世界大戦が起きたと声高く言うが、日支戦争はあくまで局地戦争に過ぎなかった。
そして、第二次世界大戦の勃発で、中華民国の国際的な立場は一気に悪化した。
準枢軸陣営である中華民国も、欧州諸国からほとんど見限られる事になるからだ。
英仏は中華民国との通常の貿易も事実上停止し、ほとんど交戦国一歩手前状態になった。
英仏はアメリカからの支援ルートの維持すら謝絶し、支援に使う援助ルートの起点となる場所を他国に提供しなくなった。
英仏にとって、中華民国は明確に「敵」になったからだ。
だからと言って日本を味方として扱ったわけではないが、中華民国にとって外交環境が極度に悪化した事は間違いなかった。
しかも、戦争を始めたドイツからの支援や援助、貿易は完全に途絶した。
ドイツから中華民国に運ぶルートが途絶した上に、ドイツは自らの戦争のために武器弾薬が必要だからだ。
英仏寄りの姿勢を示すアメリカは、ルーズベルト政権がいかに親中的といっても、ドイツと関係の深い中華民国を今までのように支持するわけにもいかなくなった。
何しろ中華民国は、間接的に英仏の敵となったからだ。
そしてその後に中華民国を支援したのが、主にソ連とアメリカになる。
両国は、日本を軍国主義の侵略者と断じて中華民国を支援したが、この取り合わせは少し異色だった。
しかも規模の点でソ連が対華支援の主力を占めており、世界的にも準枢軸陣営として非難されている中華民国を支援する事は、アメリカ政府としても声高には出来なかった。
ルーズベルト政権に対して、野党の共和党などは中華民国への支援を停止するように求めたりもしている。
だがアメリカには中立法があるので、当時のアメリカの支援は国債の購入、反日ロビー活動、第三国を経由しての一般物品の貿易に限られていて、中華民国にとっての本当の命綱はソ連だった。
一方、中華民国だが、ドイツのポーランド侵攻から半月ほどして慌てるように英仏と接触を持ったが、殆ど門前払いを喰らった。
ドイツとの協定の破棄もしくは空文化、日本との戦争終結、可能ならばソ連との関係断絶、これをしてようやく交渉に値すると言われたからだ。
中華民国にとって、現状ではどれも出来る事では無かった。
中華民国としては、戦争で物理的関係がほぼ途切れたドイツよりも、西欧諸国の援助や支援を期待したいところだったが、全てが甘い考えだった事を痛感させられただけだった。
そして蒋介石にとっては、日本との現時点での和解は問題外だった。
故にソ連の武器は必要で、当面の兵器や義勇兵の供給者であるソ連とドイツとの関係を思えば、ドイツとの外交関係は現状維持しなければならなかった。
また、ここで仮にドイツとの関係を絶つと言っても、英仏の冷たいあしらいを見る限り、国際的な信頼が得られるとは流石に考えなかった。
第二次世界大戦の勃発によって情勢の大きな変化はあったが、日本にとって中華民国との戦いの泥沼化には当面変化はなかった。
とにかく、日本にとって鉄道のない四川盆地にすぐに攻め込むのが極めて難しいので、平原地帯での占領統治を安定化させつつ、北部の奥地にある西安の攻略と西安を起点とした四川盆地侵攻に力を入れた。
そしてその上で、日本本国では大量の航空機と爆弾の生産が進められる。
占領地での治安維持と徐々に勢力を増しつつある北部の共産党軍殲滅のために、軍の動員もさらに進められた。
1941年夏には、全てを押しつぶす為に必要な150個師団、600万人の動員が実施される予定だった。
平行して航空戦力の充実も進み、1940年春には陸海軍共に多数の新型機を含む1000機以上の実戦機を奥地の前線に揃え、5月からの四川爆撃に対して万全の体制を敷いた。
蒋介石を完全に吹き飛ばし、汪兆銘(汪精衛)を次の為政者として立てて戦争を強引に終わらせようと計画したのだ。
事ここに至って、日本は本当の総力戦を決意したと言えるだろう。
このまま座して失血死するよりも、大胆な治療を選択したのだ。
平行して日本国内では、国民に対する戦時統制と総力戦に向けた体制が徐々に強化されていった。
1939年4月に「賃金統制令」が出され、同年秋には「国民徴用令」が出された。
さらに戦争が長引く場合に備えて、「価格統制令」、「小作料統制令」が準備された。
多くが戦争と戦争特需から、国民の生活を守る為だった。
また戦費調達のために、国民に対して貯蓄が奨励された。
銀行などに貯まった膨大な資金で国債を購入し、さらには国民に消費させない事でインフレを抑制するという政策も推進された。
さらに政府は、戦争が続いた場合は一部物資の配給もこの時点で検討していた。
もっとも、日本帝国政府の対策と懸念は、結果として杞憂で終わることになる。
日本国内での戦闘特需も、日支戦争が泥沼の停滞期を迎えるまでに終息に向かうことができた。
だが、日本軍による攻撃が功を奏した訳ではない。
世界情勢と各国間の関係、そして日本の国力と軍事力が複雑に錯綜した結果だった。
確かに日本軍は、1940年5月から2度目の重慶爆撃を今までにない規模で計画、そして実行に移した。
その攻撃規模は、同年7月から9月に行われたヨーロッパの「バトル・オブ・ブリテン」にすら比肩される事があるほどだ。
しかし、1940年4月から9月にかけてのヨーロッパでの戦況の変化こそが、日本に最も影響を及ぼすことになる。




