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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
第一章「始まり」

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013 ゲットピース トゥ リーヴ、ND WAR 2nd(1)

 ヨーロッパ世界で、イングランドのエドワード3世がフランスにおいて百年戦争をたしなんでいた頃、日本と大東でも大規模な戦乱の準備が整っていた。

 


■中世の日本・大東両国の政治体制について


 日本人社会、つまり広義には「日本」という曖昧な地域に帰属意識を持ち、さらに日本語を話す民族集団は、日本列島と大東島を自らの「天下」つまり「世界」と認識していた。

 

 しかし、「天下」は一つではなく、また統治者はかつての「天皇」や「公家」ではなくなっていた。

 武士が中心となり、2つ目の武家政権があった。


 大東では、大東に渡った天皇を中心とした中央集権制が確立して親政が行われた。

 もともとは王権=天皇家だったが、やがて武家政権=幕府との二重政権に陥り、互いに利用し合う事でなんとなく共存するに至った日本の天皇制は、世界でも珍しい政治体制だった。

 

 鎌倉幕府以降、武家政権が自己の統治体制の正統性を主張したいと望んだ時に、天皇の権威に依存するという体質がいつの間にか醸成されてきた。

 ただただ長く生きのびてきた超越的裁定者機関、それが天皇制度だったとも言えるだろう。


 日本人はおくゆかしいため、ヨーロッパにおける絶対王制やアジアの王朝に見られる専制主義のような専横的な振舞いを躊躇するため、そのような第三者的価値判定システムが必要になったとの見方もある。

 

 一方、大東国では律令時代から引き継いだ一重権力天皇制度が存続し、「天皇=大東皇帝」と考えればよい。

 単純さを好む大東人らしい統治システムと言える。

 

 国家の成り立ちからして、短時間で異民族である蝦夷アイヌや茶茂呂、異文化の古大東人を吸収してきたため、誰の目にも単純明快な権力・正義・道徳が求められたのは自然な流れといえよう。


 簡明さを追い求めた結果、元の爵位制度(国公・郡公・郡伯の三等に分かれていた)に倣い、大東歴大安8年(西暦1295年)、新たな爵位制度が発足した。

 階位などは以下のようになる。

 


・皇族: 以仁天皇の血族とされるが、大東平氏なども含まれている。

 

・公爵: 

 小さな国ほどの広大な地域を領有する貴族か皇族の血縁者。

 大領主に高埜公爵、田村公爵がいる。

 皇族の公爵は数も相応におり、領地はそれほど大きくはない。

 

・伯爵: 地方官級貴族。

 日本列島の守護(守護大名)に相当するが、規模は日本のものよりも大きい場合がほとんど。

 

・勲爵: 辺境貴族。

 領主再編成が遅れた新大東島に多い。

 位は伯爵より格下だが、広い領域を治める場合もある。

 

・地爵: ごく小規模な地頭貴族。欧州でのバロンに当たる。

 

・武士: 村落規模の在郷領主。

 日本の武士よりもヨーロッパの騎士に近い役割を持つ。

 


 創爵の理由は、爵位(官職)と血脈の分離のためだったと言われる。

 本来、日本に存在した官位制は、官位が示す政府における業務内容に直結しており、個人に与えられる資格・権限であった。

 しかし、時代が下るにつれ官職と位階は身分や家格を示す基準となってゆき、血脈的な尊卑をも表現する道具となった。

 

 そのような制度は官僚組織の肥大化と共にどうでもいい枝葉末節にまで分裂する非効率の温床になると、当時の大東天皇は判断した。

 また、爵位制度には蝦夷系領主の反乱を未然に防ぐ効果もあったと考えられている。

 実際、多くの古大東・蝦夷系領主が任じられていた。

 

 そして古代中華王朝がそうだったように、任官に際しては爵位に応じた金属製の「爵」つまり盃が下賜された。

 


 大東国の爵位は家系・血脈そのものに対して与えられているのではなく、爵位(官職)が示す行政区域(公爵領、伯爵領、勲爵領など)に対して与えられた。

 

 もし、爵位が示す領域の実効支配ができていないなら、その爵位は剥奪されるし、実力を以って他者が奪うこともある。

 近世日本の封建領主制度における”大名”ほどの自由度はないが、”戦国大名”以上の強固な領国支配権限を持った存在と言えよう。

 

 ”大名”に相当する爵位は、”伯爵”位になる。

 一つの州を支配する程の実力者は”公爵”と呼ばれる。

 当初は「国」ごとにおかれたが、時代の流れの中で統廃合が進んでいく。

 それぞれの地方統治を任された高埜家、田村家は「旧州公」、「新州公」とも呼ばれる。

 また”公爵”の中には、都に住まう皇族の名誉階級としての”公爵”も存在していた。

 


挿絵(By みてみん)


fig.1 1380年頃の東西日本列島

 


■建国後の大東国


 日本列島での「源平合戦」の最中に自存自立を決意し、その後日本の政治からは完全に切り離された国家として「大東国」は歩んでいた。

 

 日本列島の支配層からしたら許されざる行為だったが、最短でも100里(400キロメートル)も荒い海で隔てられた大地に対して、当時の技術力、日本の国力では安易に「討伐」する事は出来なかった。

 しかもそこには日本列島を上回る数の「蛮族」が住んでいるとなれば尚更だった。

 そして大東国は、建国当初から侮れない国力と武力を有していた。

 

 なお、日本列島の朝廷、鎌倉幕府共に、当時の大東国を独立国とは認めていなかった。

 彼らの中では、あくまで「反徒」であり「逆賊」であり「反乱勢力」でしかなかった。

 その証拠に、大東の地名を冠する官位が朝廷内には存在し続けていた。

 

 しかし大東国は、日本の朝廷、鎌倉幕府の双方から完全に独立していた。そればかりか日本列島の倍近い面積を持つ大東島全土を支配し、領域内の総人口は日本列島を完全に上回っていた。

 つまり日本よりも大きな国土と国力を有する、東アジア有数の国家だった。


 だが、東アジアというより北太平洋上にある国家だった。

 そして本格的に人の手による文明化が始まったのが遅かった為、その大地の多くが手付かずのままだった。

 新大東州を中心にして広大な原生林が広がり、人の手が比較的入った旧大東州でも黒々としたブナの原生林は一般的な情景だった。

 一般的な景観としては、となりの日本列島よりは同時期のヨーロッパの方が近いだろう。

 

 そして建国から100年も経過すると、国内の開発も一定段階を過ぎて国力も充実し、海外にも目を向けるようになる。

 だが周囲を外洋と言える海にかこまれた大東国にとって、一番の「外国」とは常に日本列島だった。

 何しろ、他に国も大きな島もなかった。


 だが日本は明確な敵で、密貿易や密航を除いて平和的に交流を行う相手ではなかった。

 このため大東の視線は、自然と日本の先にある中華大陸を指向した。

 13世紀後半日本を襲った「元寇」の原因の一つも、大東国の外交と貿易姿勢が影響している。

 

 14世紀に入ると、元帝国は北東アジアにおいては戦争よりも貿易の実利を重視した。

 その中で大東もついに大陸との直接貿易を実現した。

 この流れは元帝国が滅びて明帝国が勃興そして繁栄しても続いた。


 大東国は自らの大地に鉱産資源(=金銀銅)がない為、銅銭が必要だし、文明的、文化的にもまだまだ遅れていたので、大陸の優れた文物が必要だったからだ。

 輸出品としては、相変わらず剣歯猫、アルキナマコ(の乾物)、動物の毛皮などしかなかったが、それでも主に大陸との円滑な貿易は拡大していった。

 

 だが、中華大陸の貿易において、大東と日本は競い合う関係だった。

 これが次への戦乱の道しるべとなった。

 

 実際1307年 には、「大仁日寇」と呼ばれる日本側の大東への侵略行為が実施された。

 これは基本的に大東西岸に対する海賊的掠奪ばかりだったのだが、大東と日本にとっては決別以来初の戦争となった。

 そしてこの時は日本側がまともに侵略する気はなく、大東側には場当たり的に対処する以外の力がなかったため、これ以上拡大する事はなかった。

 

 しかし大東と日本が互いへの認識を深めるのには大きな役割を果たした。

 


 

■戦争への道


 西暦1372年、既に明帝国との公式な貿易チャンネルを有していた大東国の大明貿易を、日本が実力で阻止しようとした事件が起きた。

 大東の交易船を軍船を用いて襲撃したり、大東が中継点に使っている琉球などの泊地を襲ったりしたのだ。

 この時期はまだ「前期和冦」が猛威を振るい同じ者達が大東の船も襲撃した事から、これを「大東和冦」と呼ぶこともある。

 

 ようやく安定を見た日本の室町幕府が、自らの貿易拡大を図る為と、大東に対する軍事的行動で権威と権力を見せるために行った政策の結果だった。

 この政策は、室町幕府の若き三代将軍足利義満の行った、若さの覇気が悪い方向で出た政策の一つとされる。

 

 室町幕府は、襲撃する船を武士が率いる軍船に限らず、全ての者に免状を出す形で襲撃を助長した。

 この免状がいわゆる「私掠免状」である。

 そしてこの日本の海賊行為の為に、北東アジアの海では、それぞれの船が自らの旗幟を明らかにする事が一般的となり、これが北東アジアでの「国旗」の第一歩となっていった。

 


 日本の海賊行為によって、大東国の海上貿易は大きな損失を被った。

 大東側も軍船を出したり商船を武装するなどの対応に出たが、大東側の距離における不利と数の違いの結果、大東の不利は免れなかった。

 

 そして更に日本が海賊行為を奨励するようになると、大東は明に助けを求める。

 明帝国へは、大東国からの朝貢貿易の途絶を”日本による戦争行為の結果”であると伝えた。

 その後、明帝国の洪武帝は日本への海禁政策を採るようになった。

 

 結果、日本の貿易商はひどい打撃を被った。

 室町幕府が狙っていた、大東を退けることによる交易拡大は最悪の結果を迎えた形になる。

 

 さらに朝鮮は既に長く倭寇の被害を受けており、明帝国へは朝鮮からも対日制裁の要請があった。

 対馬・隠岐・松浦・五島列島出身者を中心とする倭寇は、それらの地域の貧しさと人口過剰に起因していた。

 大東を襲撃させたのも、こうした理由が重なっていた。

 

 そして室町幕府は、貿易拡大による商業発展とその先にある国力増大、そして民心安定ができない以上、別の政策を取るしかなくなる。

 歴史上、古今東西どこでも見られた情景ではあったが、戦争によるガス抜き、侵略による掠奪、そして人減らしの意味も込めて外征を決定したのだ。

 

 日本にとって外征先は、一つしかなかった。

 日本にとっては未だに”未回収の東国”である大東国だ。

 

 大陸国家と戦争する事は、当時の日本人には想像の外にある事柄だった。

 近隣の朝鮮半島も基本的には大陸国家の属国であるため、大陸国家と戦争することを意味するので行われる筈がなかった。


 これにたいして大東国は、海の距離は朝鮮半島よりも遠いが、彼らの観点の中では日本人の住む土地であり、一度は侵略し支配した土地だった。

 そして日本人の支配層の一部にとっては、自分たちが持っていて当然の土地でもある。

 侵略するに際して、精神的な重荷は皆無だった。

 

 だが大東は巨大な島であり、「反乱勢力」も強大だった。

 大東島近辺に対する海賊行為では、何度も苦渋を舐めていた。

 だからこそ相応の準備を進め、そして一気になだれ込んでいった。

 

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