338 2nd_War(4)
■日支戦争(2)
日本政府公称で「日支戦争」とされた戦争は、なし崩しに日支全面戦争に発展・拡大した。
しかし両者共に短期戦を想定していた為、貿易面で大きな支障を来すようになる。
国家間の戦争状態となったため、中華民国には武器と支援が、日本には資源の輸入と製品の輸出に問題が出たからだ。
そして日本の中華での大規模な軍事行動は、上海での行動だけで無くなったため、列強間で結ばれた中華地域での軍事活動を禁じた「九カ国条約」に違反する。
まずはこの点において、日本は国際的に非難された。
加えて日本は、他国に攻め込んだので完全な侵略者となった。
事が上海周辺だけで短期間に収まっていれば問題も少なかったが、もはや全てが言い訳に過ぎなかった。
こうなっては、日本としては中華民国を降伏させるより他無かった。
もっとも、貿易を制限したのは当面アメリカだけで、他国は戦争特需にあやかるべく貿易をむしろ活発化させた。
中華民国への支援も、戦争を長期化させてより多く儲けるために積極的になった。
アメリカのルーズベルト政権は日本が侵略者だと非難していたが、この頃は非難以上ではなかった。
そうした戦争に際して日本は、短期間で大軍を動員して一気に勝敗を決しようと本格的に動き始める。
全面戦争となって以後、日本軍は短期終結を目標として続々と軍を編成して、多くを中華民国領内に送り込んだ。
軍需工場は戦時生産に移行して、大量の武器弾薬を生産した。
結果として日本国内から失業者がいなくなり、都市部を中心として戦争特需に沸く事となる。
1937年が終わる頃、日本軍は常備軍内での限界とほぼ同じ数の24個師団90万人もの戦力を中華民国内に投入していた。
さらに満州国軍が約15万人あった。
加えて、さらに60万の部隊が日本本土および満州国内で準備中で、三カ月以内に投入可能だった。
その上日本陸軍は、戦争を短期決戦で終わらせるため、手持ちの戦力の八割以上を投入する覚悟すら持ち、実際準備を進めていた。
つまり日本陸軍は、50個師団、200万の兵力を対中華民国戦に投入する意志を持っていた事になる。
この数字は、事実上の準戦時動員が進んでいた日本帝国陸軍240万人の8割以上に相当する。
他に、約2倍に増員された海軍将兵と海兵隊員合わせて20万人があったが、世界中でも列強と呼ばれる国での100万人以上の兵力出現は、ソ連を除けば世界大戦以来の出来事だった。
諸外国が警戒するのも当然だった。
この頃は、再軍備を宣言したドイツも、それほど多くの軍人はいなかった。
しかも日本は人口大国で国力も相応に有しているため、その気になれば1000万人以上の陸軍を編成することも可能だった。
日支戦争が本格化して、世界は初めて日本の本当の姿を知って警戒感を強めた。
これに対して中華民国軍は、上海事変の前で自称300万の軍隊を有していることになっていた。
しかし実際頼りになるのは、全体の約6分の1程度しかいない蒋介石の私兵集団といえる国民党軍(国民革命軍)だけで、その国民党軍の精鋭部隊を中心とした軍主力は既に上海の戦いで主力が包囲殲滅されていた。
約50万の兵士が戦死するか捕虜となり、中華民国軍は戦争開始当初から実質的に壊滅状態と言えた。
(※捕虜の方が圧倒的に多かった。)
このため中華民国は、大陸奥地への後退戦術、遅滞防御戦術を徹底する方針を固めていた。
だがこの時は、日本側の機械力を動員した戦闘の方が、雑多な軍閥の集合体でしかなかった中華民国軍の動きより大きく勝っていた。
その様子は、まさに騎馬民族に蹂躙される時の漢民族といった様相を呈したと言われる。
だが日本は外交的解決を期待し、1937年内は上海付近以外では可能な限り軍事的行動は控えた。
張作霖軍閥である満州国軍が北平(北京)を占領して大掠奪を行ったが、現地日本軍は補給以外で何も活動しなかった。
一方、日本本土では、軍の大幅な動員と派兵準備が急ピッチで進められた。また、満州国内に駐留する日本軍の約半数も、戦時編制への動員が進められた。
そして1938年1月には、さらなる大軍を揚子江方面と華北方面の双方に展開し、機械化部隊を全面に押し立てて一気に進軍した。
南北どちらも方面軍規模に拡大され、合わせて20個師団以上が投入された。
しかも機械化、自動車化された部隊を可能な限り先鋒部隊に据え、さらに空軍(主に陸軍航空隊)も準備した。
上海での戦いを早くも反映させたものだが、野戦で敵主力を包囲殲滅するために準備を行ったからだ。
そして日本軍は、軍閥中心の中華民国なので軍隊を潰せば勝てる戦争だと考えていた。
そうして1938年内に行われた一連の戦闘、「南京進撃」、「徐州作戦」、「武漢作戦」での包囲作戦、電撃戦によって、中華民国軍の数の上での主力部隊の包囲殲滅に成功する。
「人馬は進む」と日本国内では歌われたが、実際は大量のトラックと自動車、そして戦車など各種装甲車両が投じられ、中華民国軍は空襲を受け機械化部隊に後ろから追い立てられるだけだった。
そして日本軍は、上海での戦いを合わせると1年足らずの戦闘で、200万以上の敵兵力を殲滅もしくは降伏に追いやった。
またこの段階で、沿岸部を中心にまだ生き残っていた地方軍閥のかなりが、日本軍との友好関係を作るか中立状態に入った。
南京から逃亡した国民党政府は四川盆地に逼塞したので、陸上での正面からの戦いはほぼ終息した。
中華地域の広大な沿岸部の平原地帯は、日本軍の占領下となった。
1938年末には予定通り200万の兵力が投入され、日本は予定通り戦争に決着が付いたと考えた。
戦術的には、希に見るほどの完全勝利だったからだ。
日本帝国陸軍は、歴史的大勝利と宣言したほどだ。
だが、重慶に逃げ込んだ国民党政府、と言うよりも蒋介石は降伏しなかった。
まだ鉄道が通じていない大陸奥地の四川盆地にある重慶から、徹底抗戦を唱えていた。
加えて、俄に元気を取り戻した共産党軍が、北部奥地を中心にして日本軍に対してゲリラ戦を繰り広げるようになった。
そして「戦争に勝った」と考えた日本は、政治家達が少しばかり心理的余裕を取り戻す。
軍人達が計画した重慶への爆撃は一時延期され、中立国を経由した中華民国との停戦に向けた話し合いのための接触を図るようになる。
しかし、蒋介石のあまりにも頑なな姿勢の為、日本側の努力は無に帰して、虚しく時間だけが経過した。
また日本国内では、国粋主義者や報道機関などに扇動された国民が、中華民国との安易な停戦に反対した。
日本政府としては、そもそも中華民国との全面戦争はいらぬ出費でしかなかった。
無駄な出費を少しでも早く終わらせるため、中華民国が満州国を正式承認すれば戦前の状態まで復帰してもよいとすら考えていた。
だが、すでに数万の死傷者を出している状況から、勝者として何か有力なものを賠償で得なければ、日本国内でも国民が納得しない状態だった。
結局、この時点での停戦は流れ、日本は体制を整えた上での新たな攻勢の準備に取りかかるしかなかった。




