335 2nd_War(1)
■アクシス
「アクシス(枢軸)」という言葉は、1935年頃に「ベルリン=ローマ枢軸」という形で歴史上に登場した。
そしてそれ以後、ドイツを中心とする全体主義陣営を現す言葉の一つとなった。
アクシスに加わる国は、基本的にドイツ、イタリアと、その二つの国に征服もしくは影響下に置かれた国になる。
それ以外だと、全体主義の独裁国家だった。
内乱後のスペインなどが好例となるだろう。
そして東アジアにも、アクシスに与する国があった。
1933年にドイツでアドルフ・ヒトラーが総統の座に就いた頃、ドイツ外交は中華民国へのアプローチをさらに強めていた。
もともと第一次世界大戦後のドイツは、外貨獲得のために混乱が続く中華地域への武器輸出に熱心で、各中華勢力も信頼性の高いドイツ製武器を重宝していた。
国民党の蒋介石らは、ドイツからかなりの数の軍事顧問すら雇い、精鋭部隊用に軍服やヘルメットまでドイツから直輸入していたほどだった。
故に、当時の国民党軍の記録映像を見ると、一見ドイツ軍に見えるほどだった。
この流れは、ドイツでナチスが政権を取ることで強まり、中華民国側の言い方で「独華合作」と呼ばれる借款や小銃、被服などの軍需工場建設にまで話しが発展していた。
ドイツとしては外貨獲得の為であると同時に、ソ連の反対側にある北東アジアに、ソ連を牽制できる友好国を得ておこうという考えもあった。
中華民国としては、自らの軍備を増強してまずは国内の共産党を殲滅し、さらには諸外国、特に日本を「国内」から追い出すことを目論んでいた。
一方、ドイツの一部が日本と接触を図る。
日本もソ連と国境を接する国で、大きな国力と軍事力を有しているから、ドイツとしては一定の価値があると考えられた。
さらに言えば、日本はアメリカを押さえるだけの強大な海軍も有しているので、中華民国以上の価値だと考えた者達が、ドイツの一部に居た。
そして満州を牛耳ったことでソ連との対立がいっそう深まった日本帝国に対して、ヒトラーのお気に入りだったヨアヒム・フォン・リッベントロップ(後の外相)とドイツ外務省のごく一部と、当面の理で物事を見る一部の軍人達が接近した。
日本でも、ヒトラーとナチスの派手な政策に感化された者や、ソ連に強い脅威を感じる軍人などが、ドイツへの接近を画策する。
また日本としては、ドイツと接近することで中華民国への武器輸出による軍備増強を阻止するという目論見もあった。
もっとも当時の日本は、日華両者の国力差もあって中華民国を大きな脅威とは認識していなかった。
満州事変での中華民国の不甲斐なさが、日本人の心理面での直接的な原因もあったが、国力、軍事力共に日本帝国が圧倒しているという現実があったからだ。
いざとなれば実力でねじ伏せられる、というのが中華民国に対する日本の一般認識だった。
自分たちが望まない限り、中華民国との本格的な戦争はあり得ないとすら考えていた。
故に心理的に余裕があり、日本にとって脅威である共産主義を叩くべく、中華民国に支援や援助をしていたくらいだった。
大国的思考と言えばそれまでだが、日本の中華民国に対する認識はその程度だった。
このため、ドイツと中華民国を離反させるために、日本がドイツと関係を深めるという外交的な方向性はかなり弱かった。
また、日本にとってドイツの価値は、ロシア人の国の西側に面しているという事だ。
この点で、ロシア人を封じる為の協力関係が結べないかと考えられた。
一方のドイツも、ロシア人の背後を抑える存在としての日本には強い興味があったので、この点では利害一致していた。
だが1930年代前半では、日本、ドイツ双方ともお互いへの関心が高いとは言えず、両者が接近する要素としては十分では無かった。
しかも日本としては、ソ連、共産主義を牽制するためにドイツとの関係を深めよりも、イギリスなど西洋列強諸国と連携を深める方が理に適っているという意見の方が、国内で圧倒的に強かった。
それに当時の日本は、満州事変以後国際的孤立が深まったので、信用回復にかなりの努力を割いていた。
にも関わらず、国際的信用が高いとは言えないドイツ(ナチス政権)との関係強化は、日本にとって逆効果だという意見が非常に強かった。
実際問題、当時の日本は共産主義に立ち向かうという方向で、イギリス、フランスなどとの関係改善を本気で模索し、一部実現すらしていた。
ドイツとの関係を強引に進めようとした外務大臣や駐独大使が、事実上のパージをされたほどだった。
ただ一方で、英仏との関係を改善するために、ドイツが英仏に接近しているのを利用しようと言う考えも存在していた。
しかし大筋としては、ナチスが牛耳ったドイツとの必要以上の関係強化は理より害が大きいと考えられていた。
当時イギリスとドイツが接近を図っていたが、日本人の多くは戦争に怯えるイギリスの弱腰外交だと見ていた。
また日本の外交担当者の多くが、予備を含めて交渉したナチス政権、とりわけ全権を握っていると言うリッベントロップとその取り巻きの一部を信頼できないと考えた。
特に秀才集団である高級官僚達のリッベントロップに対する見立ては、外交官ではなく法螺吹き、山師の類だった。
そして、総人口2億を抱える中央官僚制の近代国家を運営する日本中枢部の人達から見て、ドイツのナチス政権は余りにも「素人」に映った。
その後判明するように、実際多くが事実もしくは正しい判断だったのだが、日本側の不審からついに日本とナチスドイツの関係が必要以上に深まることは無かった。
ドイツとの不仲が続いた結果、日本は1940年開催予定のオリンピック招致に失敗したと言われるが(※1940年はイタリアで開催予定となった)、日本がドイツとの外交で後悔したことと言えば、ほとんどそれだけだった。
そして何より、ドイツの東アジア外交の主流派は、日本よりも中華民国をはるかに重視していた。
だからリッベントロップのスタンドプレーが片思いのまま失敗に終わると、後は日本に見向きもしなくなる。
以後ドイツは中華民国への投資と関係強化を深め、一定程度の軍事力と生産体制の構築は、蒋介石に不要な自信を与えることになる。
1936年に中華民国の言うところの「華独合作」、世界史上での「ドイツ・チャイナ防共協定」の締結に至り、以後数年間は中華民国に大量のドイツ製武器弾薬が渡り、ドイツ製の兵器製造用の工作機械が売却される事が決まる。
その間中華民国からは、タングステンなど鉱産資源が主に輸出され、その蜜月関係が世界に喧伝される事となる。
なお、対日外交で失敗したドイツのリッベントロップだったが、その後「英独海軍協定」の締結で一気に頭角を現してドイツ外相に就任し、その後世界を混乱させる外交を第二次世界大戦が勃発するまで展開していく事になる。




