329 イデオロギー・エイジ(3)
■日本経済の発展と停滞
「グレート・ウォー」による戦争特需で大きく発展した日本経済は、ようやく「東西格差」とも呼ばれていた大東島と西日本列島の経済、産業の格差が大きく狭まった。
日本の近代的な経済発展は、先に産業革命を開始して基本的な「国力」に勝る大東が先駆けていた。
さらに大東島には世界有数の有望な炭田地帯があり、20世紀前半では十分な埋蔵量を持つ良質な鉄鉱石鉱山もあった。
銅など他の金属資源は日本列島にあったが、銅以外は量が限られていたので、20世紀が四半世紀を過ぎる頃には輸入が中心となっていた。
そうしたアンバランスの中にあっても、西日本列島の方が進出先となる大陸に近いという立地条件から、開発には力が入れられていた。
軍事拠点も西日本列島の方が多かった。
それでも大東との基本的な差は埋めがたかったのだが、未曾有と表現できる戦争特需によって大きく是正された。
この事は、日本国内での東西対立回避に大きく貢献していると言われることが多い。
もし西日本列島と大東で格差が開いたままだった場合、最悪内戦や分裂したという予測があったほどだ。
そして1923年9月に起きた関東大震災以後、江戸時代終焉以後低迷が続いていた江戸を中心とする関東一帯は、政府による積極的な財政投資と極めて大規模な再開発の結果、わずか10年ほどで見違えるほどの発展を遂げ、その後は東西日本の中継点としても大いに発展する事になる。
しかしグレート・ウォーが終わってしまうと、日本経済は一転して大きな不況へと突入する。
日本帝国政府は、国内開発を促進する積極財政と公共投資の増大によって事態打開を図るも、初期の頃は事態を甘く見ていたため徹底さに欠けていた。
徹底化が図られるのは関東大震災以後と大恐慌以後の二段階あったが、1920年代半ば以後からの国家資本主義的な政策は、結果として「財閥」と呼ばれる一部の大企業集団に資本が集中していった。
また、関東大震災の被災地となった江戸の大規模復興計画と極東各地への進出によって、尚更財閥に多くが集中する形が形成されることとなった。
なお、日本帝国内の財閥として代表的なのは、西日本の三井、住友、安田、大東の五芒、中川、剣菱、神羅、倉峰の合計8つで、合わせて「八大財閥」と呼ばれた。
しかし1930年代頃には新興財閥と呼ばれる新たな大財閥も西日本、大東の双方で出現した。
日産、鳳などがその代表で、「十財閥」やさらに幾つか加えた「十二財閥」という呼び方もされるようになった。
そしてトップ集団は、それだけ強大な力を有した。
そして政府による公共投資重視政策と財閥への資本集中などから、1920年代、30年代の日本は経済面で全体主義の温床となる国家社会主義もしくは国家資本主義に急速に傾いたと言われる事が多い。
だが、当時の日本経済は、まだ先進国には少しばかり及んでいなかった。
人口が適度に多いため国としての総生産量、国家予算は大きくなったが、技術や概念で足りないものも非常に多かった。
だからこそ、長期の不況を乗り切るためにも一極集中の流れも必要だったと言えるだろう。
なお、経済政策の一つとして金本位制に基づく「金解禁」が取り上げられることが多いが、近代国家建設以前から日本は世界有数の産金国だった。
20世紀に入るまでは北米大陸西端の荒須加の金鉱があり、日露戦争以後ロシアから獲得した領域にも有望な金鉱が見つかって、1910年代から大規模な機械力を導入して本格的な操業が開始されていた。
どちらも極寒の地にあるので開発コストはかかったが、コストに似合うだけの金を日本帝国銀行の国庫に溜め込む一助となっていた。
だからと言うわけではないが、日本の金解禁は列強に並ぶ1927年に実施されている。
アメリカの好景気が極大に達しつつあった頃だ。
金解禁で他国と同調できたのは、日本帝国内の経済規模が比較的大きく、多少なりとも余裕があったからだった。
そして再び金を禁輸したのも大恐慌が起きた1929年11月と早く、国際的な金融感覚は十分持っていたと言えるだろう。
■極東共和国
極東共和国は、1920年に成立し1922年に独立した。
当初はソビエト連邦ロシア(ソ連)の属国もしくは共和国の一つのような状態だったが、当時の日ソの国力差と日本の執拗な干渉が、ソ連に極東地域を手放させる事となる。
独立したばかりのポーランドに大敗した事、建国後の経済が全くうまくいかない事など、ソ連が手放す理由が多々あったからだ。
ソ連が後押しした首相のA・M・クラスノシチョコフも、すぐにも現実主義路線を取って日本を自らの新たな宗主国と認めた。
共産党は合法とされたが、その後乱立した政党の中に埋もれてしまい、すぐにも野党へと転落した。
ロシア帝国時代を支持する亡命者が多いため、共産主義、社会主義が支持されなかった影響だった。
その後、日本を事実上の宗主国として、日本からの大量の投資が実施され、ロシア帝国時代よりも開発が促進される事になる。
1924年には、早くも日本からの農業移民が開始され、1926年には日極互恵条約も結ばれた。
世界各地に亡命したロシア人の一部も、共産主義ではないロシア人の国ということで移住してくる者が徐々に増えた。
世界中に亡命した資産を持つロシア人からの投資も年々増えた。
ロシア正教会、コサックなどロシア伝統の勢力も多くが流れ着き、そして国内から共産主義を排除する大きな力となった。
極東共和国が日本の勢力圏になって、日本が受けた一番の変化は軍事面だった。
オホーツク海は完全に日本の勢力圏で囲まれ、ロシア人は太平洋から完全に閉め出されることになった。
日本がロシア人(ソ連)から受ける脅威は、シベリア鉄道の向こう側だけにほぼ限定されるようになった。
東シベリア各地で国境を接しているが、近代的な戦争が出来る自然環境ではないので、ユーラシア大陸北東部に対する日本の国防はほぼ安定したと言える。
逆のことはソ連にも言えて、ソ連も日本に対する防衛負担を大きく軽減出来ることができた。
だからこそ、極東共和国が日本の勢力圏になったと言えるだろう。
そして、日本海軍は仮想敵を一つ失ったため、ますますアメリカを仮想敵とする傾向を強める事にもなる。
また一方では、政治戦略的にも満州を半包囲する形になったため、日本の満州進出はますます拍車がかかることになる。
巨大な国内の人口飽和問題を抱える日本帝国にとって、移民先と自分たち専用の食料供給地の確保は、もはや急務だった。
北満州のロシア帝国利権だった鉄道などの権益も、ソ連政府は日本へと次々に売却していった。
この結果、1920年代半ばまでに満州の鉄道のほぼ全てが満鉄の支配下となり、極東共和国、朝鮮半島の鉄道と合わせて極東主要部を路線下に収めることとなる。
そうして極東地域は日本の完全な勢力圏となっていったが、独占は反発を産みやすく東アジア市場進出をもくろむアメリカとの対立は、日本の勢力拡大に比例して悪化していく事になる。




