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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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327 イデオロギー・エイジ(1)

 グレート・ウォー(第一次世界大戦)が終わってすぐの世界は、平和に向けての努力を行った。

 

 グレート・ウォーが、それだけ平和を決意させるほど衝撃的で悲惨な戦争だったからだ。

 だが、グレート・ウォーでは、実際のところ何も解決していなかったし、別の問題も数多く吹き出していく事になる。

 それは時代が求めた変化でもあった。

 

 いっぽう、少し後の1930年には、新たな日本帝国皇帝が大東島旧大東州中央部にある帝都東京の広大な宮殿で即位した。

 称号を「大幸」とし、新たな元号も同じ名とされた。

 そして人々は元号のように「幸」ある時代が到来したと思おうとしたが、動乱の時代の幕開けだった。

 

 なお、祭祀の王である日本(西日本列島)の裕仁天皇から帝位を承認された大幸皇帝は、まだ20代の若さだった。

 これは先の大明天皇同様に、彼の父に当たる皇太子が皇帝を継ぐ前に先に逝去してしまっていたからだ。


 しかも、彼よりも継承順位の高い兄も既に病没していたため、非常に若い年齢での即位となった。

 そして若さ故に覇気が溢れ、しかも才能を持ち合わせていた事もあり、その後の日本の歴史に大きな影響を与えていく事になる。

 



 ■海軍軍縮会議(1)


 「グレート・ウォー」の後、パリ講和会議に連動して二度と同じ過ちを繰り返さない事を主な目的として、数々の国際会議が開催された。

 この最大のものが「国際連盟(LN)」の設立で、日本は常任理事国に選ばれ、ついに名実共に世界の主要国となった。

 

 しかしその後、主に日本とアメリカとの間に新たな争いの火種になりかねない事態が進む。

 グレート・ウォーの引き金の一つともなった、いわゆる「建艦競争」だ。

 

 1920年当時、日本はイギリスに次ぐ世界第二位の海軍大国となっていた。

 しかも日本帝国海軍は、グレート・ウォーでの活躍を国民と政府にも認められ、「気分」が大きくなっていた。

 国内にも「世界一の海軍」への熱望が高まりを見せ、海軍予算は戦争の終わった1918年以後も年々増額していた。

 

 そして19世紀末頃からの日本海軍の伝統的な軍備拡張計画の基本が、「八八艦隊」だった。

 これは新型戦艦8隻、旧式戦艦8隻を中心にした艦隊整備計画で、新型戦艦は就役から8年以内を目指すというものだった。

 

 また艦隊整備計画には、装甲巡洋艦もしくは巡洋戦艦を8隻整備する目標もあった。

 このため、8×4の意味を込めて、「八四艦隊」もしくは「四八艦隊」と呼ぶこともある。

 

 なお「8」という数字は、1つの戦隊を組む際に有機的な運用が可能な数字から割り出した定数でもあり、機能的な海軍力整備を目指すという意志も込められている。

 1920年当時は、以下の数を保有していた。


   

   ・新型(1.5~3万トン級)

 ・超弩級戦艦  :4隻

 ・超弩級巡洋戦艦:8隻


 ・弩級戦艦   :8隻


※弩級戦艦は主砲12インチ砲8門以上装備

※超弩級は主砲が12インチ砲以上


   ・旧型(1.5~2万トン級)

 ・準弩級戦艦  :4隻

 ・準弩級巡洋戦艦:8隻


※主砲12インチ砲4門+大型副砲多数装備


   ・前世代型(1~1.5万トン級)

 ・前弩級戦艦:8隻

 ・装甲巡洋艦:10隻


※主砲12インチ砲又は8インチ砲4門(一部例外あり)



 このうち日露戦争の主力だった前弩級戦艦、装甲巡洋艦は完全に旧式化していたので、それ以外の32隻が主力艦艇といえる。

 

 しかもこの頃日本は、軍民合わせて合計12基の大型建造ドックもしくは大型造船船台を保有し、平時はこのうち8基を用いて軍艦を建造していた。

 建造施設の多くは、日露戦争頃か第一次世界大戦中に完成したものだった。


 そして12基という数は、イギリスに匹敵する数だった。

 海軍の主な建造施設は、西から西日本の呉工廠、大東南部の加音工廠、大東北部の新谷工廠で、加音工廠には当時日本にしかない大型造船ドックと大型船台が1つずつあった。

 

 民間の大型船台は、西日本に2箇所、大東に6箇所あった。

 鉄鋼生産の中心でもある大東の大坂、南都、宍菜は造船の中心地で、民間の造船施設が数多くあった。

 そしてグレート・ウォーで西日本の工業化も進んでいたが、この頃はまだ大東の方が重工業が発展していた。

 

 これらの施設で、1920年の時点で次の「八八艦隊」を担う各種8隻の超弩級戦艦または超弩級巡洋戦艦が建造中で、さらに8隻の戦艦が既に予算通過して、うち4隻の建造が始まっていた。

 世界大戦の影響で、施設が増えただけでなく各地の造船能力も大きく向上したので、建造速度も速かった。

 

 また既存の超弩級戦艦、超弩級巡洋戦艦は、全て45口径14インチ砲(もとはヴィッカーズ社製)を装備していた。

 これより前の艦艇(主に準弩級艦)は、排水量、速力、そして何より主砲の技術的な問題から、1920年の時点では旧式艦と考えられていた。

 

 このため日本海軍は、《長門型》戦艦4隻を建造すると、すぐにも次のさらに優れた戦艦群の建造を開始した。

 《長門型》以後の戦艦は強力な16インチ砲を搭載しており、しかも高速戦艦という新たなカテゴリーに属する優秀な設計だった。

 

 だがこの海軍拡張は、諸外国にとって大きな脅威と認識された。

 日本海軍自身としては十分身の丈にあった規模と考えていたが、それはあくまで世界大戦以前の世界標準であり、日本の国家予算や国力から見た視点であって、世界大戦後の諸外国から見れば違っていたのだ。


 なお、1920年の日本帝国の国家予算は約30億円(=ドル)で、海軍予算枠は6億円程度だった。

 陸軍、兵部省を含める軍事費全体は9億円を超えるが、国家予算に占める軍事費の割合は30%程度なので、十年ほど前のドイツとイギリスの建艦競争に比べれば財政的には十分健全で穏便なものだった。

 

 しかも海軍予算が急拡大したのはグレート・ウォーが始まってからで、海軍としてはようやく自分たちの望む艦艇整備を開始したという程度の認識しかなかった。

 何しろ日本は、太平洋の北半球の3分の2に広がる海洋国家なのだから、ある程度の規模の海軍は必然だと考えられていたからだ。

 

(※神の視点より:我々の世界は2円=1ドル。最も高額となった1921年の海軍予算が5億円。2~2.5億円程度が当時の適正値。この世界は、史実換算だと12億円が海軍予算になる。)


 日本帝国の海軍拡張は、列強、特にアメリカにとって看過できない事態だった。

 何しろ日本の領土は荒須加という北米大陸にまであり、しかも西海岸から4000キロ「しか」離れていない先島諸島、羽合諸島も日本領だった。

 

 アメリカにとって、心理的に見て日本は隣国であり十分脅威となる国なのだ。

 しかも、アメリカが次なるフロンティアとして目指すアジア、太平洋の道を全てふさぐ有色人種の国家だった。

 

 だからこそアメリカは、日本の「軍拡」に焦るように国力に任せて「三年計画」を予算通過させた。だが急ぎすぎた計画のため、肝心の戦艦、巡洋戦艦の設計および建造が遅れていた。

 実戦経験の蓄積も足りないため、設計や思想に古い面も見られた。

 

 このため1921年11月に海軍軍縮会議が開催された時、日本海軍が16インチ砲(正確には41センチ砲)を搭載した戦艦を相次いで4隻完成させていたのに対して、アメリカは途中から設計を改めて16インチ砲を搭載した戦艦1隻しか完成していなかった。

 

 14インチ砲搭載大型艦の比率も、日本の12隻に対して11隻と数で劣っていた。

 軍縮の対象となる弩級戦艦の数でも8隻と同数で、前弩級戦艦以外の全てで日本海軍に劣る状態となっていた。

 

 そうした状態で、アメリカの首都ワシントンで世界初の軍縮会議が開催される。

 ワシントンでの開催は、アメリカの焦りを現すものだった。

 1日でも会議開催が遅れれば、建艦競争で日本が優位に立つ可能性が十分あったからだ。

 

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