326 グレート・ウォー(4)
■パリ講和会議
「第一次世界大戦」の総決算であるパリ講和会議で、日本は主要国として参加する。
地位としては、最後に大軍を派兵したアメリカの後塵を拝することになったが、「一等国」になることを一つの目標としていた日本としては、ついにここまで上り詰めたという感慨があった。
しかし、日本が勝利の報酬として得られたものは限られていた。
ドイツからの賠償金は、戦争で甚大な被害を受けたヨーロッパの国々にこそ必要とされていた。
このためドイツが太平洋に持っていた領土が、日本への賠償とされる。
この場合の対象は、東部ニューギニア、ビスマーク諸島、サモアになる。
そしてサモアは西サモアを有するアメリカが得るので、東部ニューギニア、ビスマーク諸島が対象とされたが、この時オーストラリアが異常なほど反対した。
オーストラリアとしては、自分たちも戦争で多くの血を流したのだから、正統な対価が欲しいという事もあった。
だがそれ以上に、「野蛮な有色人種」が自分たちの側に植民地を持つことが、極めて大きな屈辱だと考えられたからだ。
しかしイギリスとしては、ヨーロッパに有力な艦隊を派遣した日本に、それなりの分け前を与えなければならなかった。
結果イギリスが間に入って調停を行い、ニューギニア島北東部は英連邦の形でオーストラリアが得て、日本はビスマーク諸島を得ることになる。
この事はオーストラリアでは痛恨の出来事とされ、以後日本を敵視する外交姿勢を極端に強めると共に、ビスマーク諸島「奪回」を外交と軍備の旗印とするようになる。
そして、大規模な海軍を派遣した日本に対する賠償としては、ビスマーク諸島だけではいかにも少なかった。
一時はドイツが中華民国に持っていた権利を与えることも考えられたが、ドイツが持っていた中華利権は基本的に中華民国に返還されるので、日本には賠償金や賠償物を渡さざるを得なかった。
このため日本は、ドイツが支払う賠償金のうち1%を得る権利を獲得する。
全額が1320億マルクなので約13億マルクになるが、日本が費やした戦費とほぼ同額だった。
だが、実際日本が受け取れたのは、戦艦や各種兵器、重工業製品などを含めても、賠償額の10%程度でしかなかった。
とはいえこれは他国も同様だし、ドイツ経済の状況、政治の変化などもあるので致し方なのない事だった。
それに日本としては、戦争特需でこれ以上ないぐらいの利益を得ていたので、極端に気にはしなかった。
加えて戦艦や航空機、工作機械など、最新鋭のものを手に入れることが出来たので、賠償として得たものにそれなりに満足もしていた。
■シベリア出兵と極東共和国
1917年3月と10月の二度の革命により、ロシアでは世界初の共産主義国家が誕生する。
これをほとんどの列強が自らの重大な脅威と認識し、革命を失敗させるための軍事行動を実施した。
このうちロシア極東地域で行われた行動が、チェコ兵の救援を表向きの理由とした「シベリア出兵」だった。
出兵は1918年夏に各国の合意の元で始まり、主力は近在の日本が担った。
何しろ日本帝国は、シベリアと国境を接するし、何より近在で一番多くの軍事力を出すことが出来た。
政府も軍(陸軍)も積極的だった。
アメリカも派兵には意欲を見せたが、アジアに植民地がなく派兵に手間も時間がかかるため、諸外国だけでなくアメリカ国内からも批判が出て、象徴的意味合いしかない小数を派遣したに止まっている。
日本軍は、主力が各国と共にウラジオストクや満州へと上陸するも、別働隊が満州全土を占領。
さらに樺太北部から黒竜江沿岸、東シベリアのレナ川西岸にも出兵を実施していく。
この事に、ほぼ外野でしかないアメリカは不快感を示したが、ヨーロッパ側ではこれ以上の出兵や干渉が実施されていたので、ヨーロッパ諸国は特に気にしなかった。
それよりも革命を阻止、もしくは影響を最小限にすることが先決だった。
出兵当初は、日本の行動こそが正しかった。
だが1918年11月にドイツが降伏すると、連合軍は出兵の大義名分を失ってしまう。
このため各国は1920年春までに撤退するも、日本軍だけが領土拡張の未練のためシベリアに残った。
しかも、ロシア領内での日本人虐殺事件を契機として、日本国内の世論に押されて出兵規模を拡大し、さらに北の僻地にある自らの国境線の守備兵力も大幅に増強した。
占領地域も大幅に広げて、バイカル湖まで達した。
北の方でも、エニセイ川にまで進んでいる。
日本の軍部を中心とした拡張論者が目論んだ事ではあったが、日本全体の民意の結果でもあった。
しかし日本の積極的もしくは侵略的行動に、ロシア人達が強い警戒感を抱くこととなった。
もっと奪いに来るのではないかと考えたのだ。
このため、成立して間もないソヴィエト連邦ロシアは、日本の軍事力に大きく怯えて政治的な緩衝国家として極東共和国を作る。
ロシア人達としては、自分達で支えられない地域を生け贄に差し出した形だ。
領土としたのはバイカル湖以西の広大な地域で、日本とソヴィエトとして成立した地域に広がっていた。
とはいえ、政権首班のA・M・クラスノシチョコフはソ連の関係者であり、国家自体はソ連が作った衛星国だった。
また日本軍に対しては、赤軍のゲリラ、パルチザンが攻撃を仕掛けた。
これに対して、赤軍の攻撃に対して威力を発揮したのが、古来から大東で「生物兵器」として用いられてきた剣歯猫だった。
この時は、特に北部の寒さに強い個体が多数、選抜されて投入されていた。
剣歯猫は、日本帝国となっても主に大東軍で用いられ、諸外国での軍用犬と似た役割で用いられた。
日清戦争、日露戦争でも投入され、相応の活躍を残した。
軍の近代化に際して、呼び方は戦虎から軍虎とされ、主に小数で活動する国境警備隊や偵察部隊で、優れた感覚を利用した偵察・哨戒兵器として重宝された。
ジャーマンシェパードを越える軍用動物として活用されたのだ。
しかしそれだけに止まらず、生物としては最上級クラスに属する戦闘力の活用も忘れられておらず、小数での奇襲攻撃、乱戦、森林地帯などでの戦闘活動を前提とした訓練が実施されていた。
共に活動する兵士も、単に剣歯猫の扱いに長けているだけでなく、高い戦闘技量が求められた。
主な海外での活躍は日清戦争、日露戦争での偵察活動で、シベリア出兵でも本来は偵察用として投入された。
だが、この戦いでは、対ゲリラ戦に非常に大きな威力を発揮することが確認された。
特に心理面での効果は非常に大きく、日本軍が「野獣」を用いているという噂が尾ひれを付けて共産主義パルチザンに広まり、戦意を大いに萎えさせることにつながった。
また一方で、日本はパルチザンの討伐に際して住民に対する物心両面での慰撫を最初から心がけた。
この点では、何度か行われた日本人同士の戦争の教訓が歴史書から導かれたとも言われる。
さらに日本側の事情として忘れていけないのが、陸軍が非常に積極的だった事だ。
陸軍は第一次世界大戦で活躍した海軍への政治的対抗心から、政治的にシベリア出兵を利用し、そして国民から評価を受けるために力を注いだのだ。
結局日本軍は、歩兵5個師団、騎兵2個旅団、軍虎2個大隊、総数11万もの兵力を投入する事になる。
使った戦費も膨大だったし、一部では買い占めなどによる経済的混乱も見られたが、日本国民は概ねシベリア出兵を支持した。
その後、シベリア各地での戦況は膠着状態に陥る。
そして極東共和国は「ポ・ソ戦争」で大敗したソ連側の都合によって存続が決まり、白軍の生き残りの一部が日本軍の手で入り込んできた事もあって、パルチザンの勢力も減退、ソ連の支配力も低下した。
そして何より日本が一向に引く姿勢を示さないため、ソ連は極東共和国との間に再び交渉を持ち、領土を沿海州、ウスリー州、アムール州に限る事で正式な独立を認めた。
そして極東共和国は、日本との交渉に望んで独立の承認と日本軍の駐留を求める。
またソ連との間にも非公式の会談が行われ、日本とロシア(ソ連)の新たな境界線の取り決めが実施される。
こうして極東共和国は、実質的な宗主国がソ連から日本へと移り、日本の衛星国としての歩みを始めることとなる。
一方のソ連は、ロシア帝国末期に手に入れた大平洋への出口を完全に失うことになってしまい、日本への恨みを大きくする事になる。
だが一方では、日本と政府間交渉を持った事がソ連の独立を国際的に認めさせる大きな一歩ともなっているため、全く損してばかりでもなかった。
日本は極東共和国と日本海、オホーツク海の完全な安定を手に入れることが出来たが、対価は小さくなかった。
3000名の戦死者と5億円(=ドル)の借金(戦費)を費やしたからだ。
だが極東共和国は、1922年のワシントン会議でも社会主義、共産主義を恐れる国際世論に後押しされる形で国際的に承認され、反革命派のロシア人の流入、日本人移民の増加により、その後発展していく事になる。
1925年頃の統合日本と周辺部




