325 グレート・ウォー(3)
■日本帝国の第一次世界大戦(2)
日本の海軍重視の派兵に、陸での苦戦が続くフランスはあまりいい顔をしなかったが、イギリスは深く感謝をした。
特にドイツ海軍が潜水艦を用いた無制限通商破壊戦を行ってからは、イギリスは日本を最も信頼した。
戦争中、主要産業地帯を占領され物資の多くを海外に依存するようになったフランスも、海での日本の活躍には相応に感謝した。
その証拠に、イギリス、フランス共に日本(海軍)に最新鋭の戦闘機をかなりの数供与している。
このおかげで日本海軍は、自らの組織に「海軍航空隊」を陸軍に先駆けて導入する事に成功している。
日本海軍最初の水上機も北海で飛ばされた。
そして海であるだけに水上機の運用も戦争中に始め、さらには日本本土において戦争中に「航空母艦」の計画までが動きだすことになる。
また海軍は、ほとんど独自の判断で自らの海兵隊を増強し、イギリスから装備の供与を受けることで、「陸軍部隊」の西部戦線派兵を実現している。
だが規模は限られ兵数1万名ほどで、せいぜい1個旅団程度だった。
配置もほとんど後方で、小競り合い程度でしか戦うことは殆ど無かった。
だが、日の丸を西部戦線ではためかせた事は、フランスからも高く評価されている。
日本海軍の行動に日本帝国陸軍はさらに焦り、そして越権行為だとして海軍を強く非難し、ついに陸軍の派遣に大きく舵を切るかに見えた。
実際、日本国内では派兵に向けての会議が行われ、日本帝国陸軍も派兵に向けた準備を進めるようになる。
しかし日本政府の正式決定より早い1917年4月、ついにアメリカ合衆国が連合国側で参戦すると、遠い日本がわざわざ大軍を派兵しなくてもよいという風潮が連合軍内と日本帝国の双方で強まってしまう。
日本帝国陸軍もやる気を無くし、取りあえず日本帝国海軍への政治的攻撃へと傾倒するという悪循環を産んでしまう事になる。
しかも陸海軍の軋轢は、シベリア出兵にも影響を与えた。
結局日本は、ヨーロッパなどに10万人以上の兵力を派遣するも、その全てが海軍所属の将兵となった。
そして日本帝国海軍にとっての戦争とは、日露戦争ではなく第一次世界大戦であり、代表的海戦はユトランド沖海戦となったのだ。
日本人にとっての第一次世界大戦も、陸での凄惨な戦いをよそに海軍の戦争と認識された。
海軍と日本政府の双方が、日本国民に海軍の活躍を広く伝える事に腐心したからだ。
とはいえ世界的には、ユトランド沖海戦での日本海軍は多くの戦果を挙げるも脇役であり、日本海軍が思っているほど知名度の向上には繋がらなかった。
むしろ日本海軍の活躍として知られているのは、一見地味な海上護衛任務だった。
戦争中盤から数も大きく増えた事もあり、能力の高さと任務への姿勢から「地中海の守護神」とまで称えられたし、ビスケー湾などでの死闘をイギリスと共に戦ったことが非常に高く評価されている。
西欧沿岸各地に残る感謝の記念碑が、今日にもそれを伝えている。
当の日本海軍内の水雷戦隊自体も、自分たちの主任務は戦艦に突撃する事ではなく、海上護衛任務と対潜水艦戦だという認識を持つようになった。
■日本の戦争特需
「第一次世界大戦」は、1917年3月のロシアでの革命と1918年春以後の同盟軍諸国での戦争経済全体の崩壊によって、同年秋に唐突な幕引きを迎えた。
戦争期間は約4年。
アメリカの参戦が必要だったという意見もあるが、主に心理面で重要だったが物理的に必要性は低かったかもしれない。
同盟各国の戦争経済の崩壊こそが、戦争終結の一番の決め手だった。この時代の先進国の経済は、4年程の総力戦に耐えるのが精一杯だったのだ。
そして日本の参戦と派兵も、ヨーロッパの戦いに大きな影響を与えることはなかった。
日本帝国海軍は犠牲と苦労に見合うだけの戦果と名声を得て大いに満足したが、戦闘面での日本への影響ははっきり言ってその程度でしかなかった。
そして日本に極めて大きな影響を与えたのが、俗に言う「戦争特需」だった。
戦争の間(1914年度から1918年度)に輸出額は従来の4倍に跳ね上がり、11億円(=ドル)あった対外債務は27億円の対外債権へと変化した。
国の借金だけで、差し引き40億円の黒字と言うことになる。
生産の計数的といえる拡大によって、経済の重工業化も大きく進んだ。
それまで大東島の一部地域の重工業化が進んだに止まっていた日本帝国全体での工業生産も、各地での製鉄、造船、各種重工業の発達によって大きく変化した。
工業化の指標となる粗鋼生産量は、ちょうど大型高炉(溶鉱炉)の建設が重なっていた事もあって、開戦時のほぼ三倍となる600万トンを突破。
一気に世界第四位(※米英独の次)に躍り出た。
また、戦争中に無数の船舶を建造したことで、こちらも一気にイギリスに次ぐ世界第二位の海運国へと躍り出た。
当然GDP(国内総生産)も大きく伸びて、名目で3倍、実質でも150%以上の伸びを示した。
GNP(国民総生産)で見れば、約160億円が500億円近くへと増大している事になる。
このため急速な物価高騰も起きたが、実質所得の拡大により日本国内での中流層が格段に増加した。
そして国民所得の向上に伴い、国家予算は約10億円(=ドル)から約30億円という大きな上昇を見せた。
単純な国力で見れば、ドイツ、ロシアが没落したのでアメリカ、イギリスに次ぐ世界第三位へと順位を上昇した事になる。
一人当たり所得は、まだ先進国とは言えなかったが、もはや「東洋の小国」の国家規模では無くなっていた。
戦争特需で財をなした「成金」という言葉は、当時の日本の流行語となった。
■中華情勢
世界大戦でヨーロッパ列強が身動き取れない間、日本帝国は中華大陸への進出を一気に強化していた。
近代化以後の日本の基本政策は、国内の巨大な人口と相応の広さを持つ国土を利用したアメリカやロシアのような内需拡大政策だった。
だが、本国近辺以外の領土が開発、移民に向いていない為に限界があった。
加えて、やはり外貨を得るための海外市場も必要だった。
だが当時は欧州列強によって分割された世界で、まともな市場となる場所は中華大陸しかなかった。
そして上記したように日本にも植民地はあったが、ほとんどが極寒の荒れ地か熱帯のジャングル、さらに南洋の小さな島々ばかりで、総人口に比べると国内移民を全て合わせても規模は限られていた。
しかも、ほぼ全ての場所が資本投下できる場所としての立地条件が極めて悪かった。
ほとんどの場所が、まともな鉄道を引けないような自然条件だった。
国内でも、台湾、樺太共に規模が限られているので、条件は似たり寄ったりだった。
このため、資本投下先としての満州が必要だという事になる。
満州全域の陸地面積が日本帝国本土に匹敵するといえば、広さもある程度理解出来るだろうか。
そして日清、日露戦争以後多くの利権を中華民国内に持つ日本帝国は、中華民国に対して「対華二十一ヶ条の要求」を出す。
日本としては、今まで通りの帝国主義的な行動の一つに過ぎなかった。
だがこれを、中華民国が世論が変わりつつあったヨーロッパに対して訴え、特に中華市場参入と日本の中華地域からの排除、排斥を狙うアメリカが目に留めて、その後の大きな国際問題へと発展していく。
またヨーロッパ諸国は、自分たちが戦争で手一杯なうちに日本が中華市場を好き勝手している事に相応の不快感を持っていた。
そして風向きの変化を感じた日本政府は、欧米諸国からの反発回避のために融和外交に転じ、アメリカとの間に協定を結ぶなどの行動に変化する。
しかし日本の中華地域での動きは、その後も加速を続けていく。
一見「持てる国」な筈だが、実際は「持たざる国」である日本としては、止まることの出来ない行動だったからだ。
なお、日本の保護国状態にある韓王国が、ひそかに代表をパリに送り込んで日本の「非道」を訴えるも、諸外国はまったく相手にしなかった。
それどころか、同じように保護国を持つイギリスなどは、日本に対してもっと統治を厳格にするべきだと苦言を呈する程だった。
この事は、力のない者が相手にされないという帝国主義的考えが、依然として強いことを物語る事例と言えるだろう。
そしてその後の日本は、朝鮮半島の保護国化政策を強化し、保護国よりは植民地寄りの政策へと転向する事になる。
ただし日本帝国政府は、朝鮮半島の開発は、鉱山などごく一部を除いて積極的には行わなかった。
この点は欧州諸国と同様に、植民地政策を実施した事になる。
一部では食糧増産のための開発や、実質的な移民を行いたかったが、日本政府内で一度は決まった取り決めを覆すのが難しいという内政が求めた結果だった。




