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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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324 グレート・ウォー(2)

 ■日本帝国の第一次世界大戦(1)


 ヨーロッパで「第一次世界大戦」が始まった時、日本帝国はイギリスと「日英同盟」を結び、ロシアとの間にも協商関係があるため、自動的に連合軍側と考えられていた。

 

 東アジアでのドイツは、中華民国に多少の利権を持つだけなので、同盟軍の盟主となるドイツと日本の関係は極めて希薄だった。

 そうした状況だが、イギリスがドイツに宣戦布告したからと言っても、日英同盟では日本が参戦する義務はなかった。

 

 だが日本は、イギリスなど連合軍に対して、自らの連合軍参戦と近隣のドイツ勢力の攻撃を強く主張した。

 真意は、ヨーロッパが戦争にかまけている間に中華市場を少しでも牛耳るためで、そうした日本の思惑は列強各国も理解していた。

 

 当時日本帝国は、肥大化が進む国内の人口に対して、溢れた人々が移民すべき土地と、そして国内で生産した商品の市場を求めていた。

 日本帝国自身の人口が多く海外領土も広い方だったが、列強としての日本には足りないところが多すぎた証拠だった。

 国内発展での内需拡大も、当時は限界があった。

 

 連合軍も、早くも長期戦が確定した戦争に対して、日本の参戦を認め尚かつ日本に負担を与えることで、戦争の果実を得ることを認める方向に動いた。

 要するに、背に腹は代えられないという事だが、連合軍が日本に求めた事を要約すれば「取り分が欲しければ欧州で血を流せ」と言うことだった。

 そしてこの言葉を聞いて、意外という以上にやる気を出したのが日本帝国海軍だった。


 日本帝国海軍は、日露戦争での活躍を陸軍に取られて以後、「金食い虫」と後ろ指を刺され続けてきた。

 このため、ここで良いところを国と国民、ついでに欧州列強各国に見せてたいという思惑からだった。

 しかも誂え向きに、開戦からしばらくの連合軍はドイツの通商破壊艦艇を恐れていた。

 

 そして日本帝国海軍は、太平洋各地の自らの海上交通路を守るため、当時としてはイギリスに次ぐ陣容の海上護衛組織といえるだけの艦艇と組織を有していた。

 だがイギリスが何より求めたのが、半数が揃ったばかりの《金剛型》超弩級巡洋戦艦群だった。

 

 これが1914年9月の事で、日本帝国海軍はイギリスの申し出を互いの武官(軍人)同士の話し合いで快諾し、日本帝国政府にも自ら積極的に働きかけた。

 そして日本帝国政府は、欧州への派兵と引き換えに中華地域への進出を連合軍各国に認めさせた。

 

 だが、同年11月に連合国が日本に対して1個軍集団、30個師団の派兵を求めた時は謝絶している。

 最低でも日本が保有するほぼ全ての外洋船舶に当たる300万トンの船舶が必要な上に、補給と本国からの補充兵の派遣が難しいなどが主な理由だった。

 また、日露戦争の影響が続いており、派兵のための国富、戦費も非常に不足していると強く説明した。

 

 そしてこの頃の英仏も、とにかく日本が有力な艦艇を本格的に派遣することで当面は満足しており、中途半端な陸軍を派遣されるよりはと考えていた。

 西部戦線は予想外の長期戦、塹壕戦となったが、まだ底なしに消耗する総力戦が開始されていなかったからだ。

 

 そして日本帝国海軍は、艦隊の一部をアジアでの戦闘用に残すも、主要戦力の半数以上を準備でき次第インド洋、地中海へとまずは派遣することを決める。

 派兵の当初予算を作り出すため、海軍は艦艇の建造予算を自ら運用費に振り向けたほどの熱の入れようだった。

 

 一方日本帝国陸軍は、ヨーロッパへの本格的派兵には強く反対していた。

 日本政府も、連合軍からの要請は距離や補給など様々な問題をあげて謝絶を続けていた。

 ヨーロッパというあまりにも遠隔地への補給や補充の困難を嫌ったからだ。

 

 また陸軍は、一度送り込んでしまうと何かあった時に引き戻すのが難しく、さらに西欧諸国に使い潰されると予測していた。

 そして日本人の多くは、他人の戦争で血を流すことを嫌がっていた。

 

 そうした中で、1915年初頃から順次日本帝国海軍の欧州派兵が開始される。

 先陣を切って派遣されたのは、インパクトを込めてイギリス生まれの《金剛型》超弩級巡洋戦艦を中核とした新鋭艦ばかりを集めた精鋭艦隊だった。

 

 この艦隊は、シンガポール、インド、スエズなど行く先々で大歓迎を受け、結局そのまま政治的要求によって地中海を横断して一度は英本土のポーツマスまで行くことになる。

 ネームシップの《金剛》にとっては里帰りだった。

 

 そして英本土でも盛大な歓迎を受け、ヨーロッパに日本の存在感を示した。

 この事に日本海軍、日本政府共に満足し、その後の海軍派兵拡大が認められるようになっている。

 

 日本艦隊の第一陣が英本土まで至ったのは1915年夏頃で、実のところドイツの水上通商破壊艦はほぼ駆逐された後だった。

 

 日本艦隊も、道中でドイツ艦の捜索に参加するなど各所で様々な役割を担い、イギリス海軍からはかなりの信頼を得ていた。

 そして北海方面以外でドイツ海軍が一時的に姿を消した事もあり、ヨーロッパに派遣された日本帝国艦隊の多くがそのまま北海に配備される。

 

 これ以後「遣欧第一艦隊」と呼称され、1916年春にはさらに新型の超弩級戦艦2隻を追加派遣した。

 既存の超弩級巡洋戦艦4隻、弩級戦艦8隻に加えると、ドイツ大海艦隊主力と同程度の大型艦戦力を保有する有力な艦隊となる。

 

 しかも揃え始めたばかりの高速巡洋艦(=軽巡洋艦)、新鋭の航海型大型駆逐艦なども続々と送り込んだため、艦隊規模が大きくなりすぎた。

 このため、英本国艦隊と同じスカパ・フローに配備される。

 海軍大国の面目躍如と言った所だろう。

 

 だがスカパ・フローでは、様々な思惑から泊地内でも僻地に置かれた。

 そしてイギリス艦隊の出撃が優先されるため、全力出撃の際には後から出撃することも余儀なくされた。

 

 この事に派遣艦隊から不満も出たが、日本は外様なので仕方ないという論法で我慢された。

 しかしこの配置の結果、1916年5月31に起きた「ユトランド半島沖海戦」では完全な後詰めとして、イギリス主力艦隊(ジェエリコー提督率いるグランド・フリート)の後ろに日本艦隊は続く事になる。

 

 もっとも、日本艦隊の艦隊平均速度の方が英艦隊より1ノット速かったため、英本国艦隊がドイツ大海艦隊主力と会敵した時には、終盤には戦闘加入が間に合った。

 そしてこの時ドイツ艦隊は、自らの判断ミスも重なって「死の騎行」とも呼ばれる、凄まじい数の連合軍艦隊の「T字」にまともに突っ込む事になる。

 

 ここで後衛となった日本艦隊は、半ば偶然に好位置を占めた事もあり、囮として突出したドイツ巡洋戦艦部隊に追い打ちと言える打撃を与えている。

 だが日本艦隊は武功を焦り、イギリス艦隊主力の慎重さとは対照的に突出し、多くの戦果を引き替えにドイツ艦隊からの砲火を受け、かなりの損害を受けていた。

 

 幸いイギリス海軍のように主力艦の爆沈は無かったが、短時間の間に4隻もの脱落艦を出した。

 日本艦に爆沈が無かったのは、弾薬庫またはその近辺への直撃が幸運にもなかっただけで、その代わり機関部を打ち抜かれて立ち往生した艦が2隻出ていた。

 

 その後夜間の追撃でも、半ば偶然にドイツ艦隊の退路と併走する形での追撃する機会を得て、深手の巡洋戦艦ザイトリッツにトドメを刺すなど、またも多くの戦果を得ると共に、その対価として相応の損害を受けることになった。

 

 海戦の結果は、日本艦隊の奮闘もあって戦果の上でも連合軍の勝利に終わった。

 そして犠牲に似合うだけの大きな戦果を得たことに、日本帝国海軍は大いに満足し、自らの戦果を日本本国に高らかに宣伝した。

 

 戦果に関してはイギリスからも賞賛され、勲章が多数授与された他、戦後には感謝の言葉を記した石碑が立てられたほどだった。

 イギリスとしては、賞賛せざるを得なかったという面もあるが、結果を称えないほど狭量でも無かった証拠だ。


 かくして日本帝国海軍は、日露戦争での不遇な状況に対する雪辱に似た感情を払拭したわけだが、今度は日本帝国陸軍が焦りを強めた。

 しかしこの頃、陸での戦いは本当の意味での総力戦の度合いを深めており、出兵した分だけ大きな損害を受けることを意味した。


 このため陸軍内では、戦果を挙げて国民の目を一気に引きつけた海軍への対向を唱える声と、派兵に対して躊躇の声の双方が強くぶつかり合った。

 この陸軍内での論争は、結局大量派兵は物理的に不可能だとする「言い訳」を盾に、過度の損害、損失を恐れて派兵を断ることになる。

 

 このため、イギリス、フランス、ロシアだけでなく、遅れて参戦したイタリアや国家存亡の危機が続くベルギーやセルビアまでから派兵要請をされても、陸軍と日本政府が首を縦に振ることは無かった。

 その代わり日本政府は、依然として士気旺盛で追加派兵にも意欲を見せる海軍の増加派遣を行う。

 

 内訳は、さらに就役した新鋭戦艦を中核とした国内に残余する戦艦群、新兵器潜水艦に対向するための多数の大型駆逐艦を始めとする護衛艦艇群となる。

 国内で量産が進むイギリスからもらった図面から建造した護衛用の駆逐艦も、部隊が編成される側からヨーロッパに進路を向けた。

 

 「欧州で(敵を)呑もう」は、当時の日本海軍将兵の合い言葉だった。

 そしてこの派兵により、西日本と大東の海軍内での対立やわだかまりは、ほぼ解消されたと言われている。

 

 派兵規模は、日本帝国海軍のほぼ全力と言える状態であり、1917年までに国内に残る主要艦艇は、編成中の部隊を除けば旧式の前弩級戦艦と一部巡洋艦を除きほぼ皆無といえる状態だった。

 《金剛型》巡洋戦艦は後期型4隻の派兵も実施され、同型艦が8隻も揃った姿は諸外国を驚かせた。

 

 一方では、日本海軍の後方支援体制の貧弱さが露呈され、給油艦、給兵艦(弾薬補給艦)、給糧艦(食料補給艦)、工作艦など多数を、当面は徴用船の改装で、戦争中盤からは急ぎ建造した艦艇で補った。

 そして駆逐艦など護衛艦艇の充実も重なって、日本海軍は一気に外洋海軍へと脱皮していく。

 

 遣欧艦隊司令部はほとんど聯合艦隊司令部となり、規模の大きくなりすぎた艦隊司令部自体も北大西洋艦隊、地中海艦隊の二つに分けられていた。

 さらにシンガポールを本拠とするインド洋艦隊もあったので、まさに海外に展開する艦隊こそが聯合艦隊だった。

 

 また一方では、日本国内で多数の船舶が建造され、日本本土や道すがらの国や地域で多くの物資を積み込んでヨーロッパへと向かった。

 また、欧州からの物資が途切れた国や地域にも、日本で作った製品を満載して赴いた。


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