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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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319 インペリアリズム(6)

 ■日露戦争(3)



 ここで日本軍は、一つの選択を迫られる。

 厳しい満州の冬を前に冬営の準備に入るか、好機に乗じて一気に奉天を攻略してそこで少し遅い冬営に入るか、だ。

 

 そしてこの決断を促したのが、旅順での作戦成功だった。

 日本軍は進撃続行を決意し、既に奉天前面まで下がったロシア軍に対する決戦を強要するべく前進を開始する。

 

 「奉天会戦」は1904年11月6日~10日にかけて行われた。

 ロシア軍は、後退したところで2個師団の新規師団の補充を受けたが、戦力総数は13個師団、18万と劣勢だった。

 砲弾の量も、ロシア軍の基準から見ると不足していたし、後退してきたばかりなので陣地構築も十分ではなかった。

 

 日本軍も1個師団の増援と補充兵を受け、さらに強力になっていた。

 開戦時、予備兵力で留め置かれていた近衛第二師団と最後の重砲兵旅団が、旅順への増援に連動する形で満州総軍に送り込まれ、ようやく戦列を整えることが出来たのだ。

 この結果日本軍は19個師団、32万の兵力を擁していた。


 戦闘開始当初は、不完全ながらも強固な野戦陣地に籠もって戦うロシア軍に対して、日本軍は完全に攻めあぐねていた。

 しかし数の優位を活かし、包囲行動を実施することで相手の動揺を誘った。

 

 この戦いでも騎兵が重要な役割を果たした。

 戦闘前から各所に放たれた日本軍の騎兵を恐れたクロパキトン将軍が、自らのコサック騎兵を後方での警戒活動に使ったため、戦場にロシア軍の騎兵がほとんどいなくなっていたのだ。

 

 これに対して日本軍は、威力偵察任務で戦線後方をかき乱す以外では、大東師団が持つほぼ全ての騎兵を集中した1万騎近い騎兵部隊を包囲行動の先端に置いた。

 結果、ロシア軍が後退するよりも早く日本軍騎兵が後方遮断に成功し、慌てて後退を始めたロシア軍の約半数は日本軍に包囲されてしまう。

 

 この段階で、慌てて戻ってきたロシア軍騎兵も戦闘加入し始めたが、日本側は包囲の輪を閉じて陣地を作り、砲列、機関銃列を敷いてロシア騎兵を寄せ付けなかった。

 この騎兵による戦いでは、ごく少数だが自動車も投入されており、主に輸送面だが無視できない活躍をしている。

 

 戦闘結果から「奉天包囲戦ホウテン・ポケット」とも呼ばれる戦いで、日本軍は約5万の死傷者を出すも、ロシア軍4万を死傷させ負傷者を含め9万を捕虜とした。

 

 ロシア軍の損害は、包囲下の死傷者の重複分を差し引いて11万にもなる。

 戦闘参加した全軍の半数以上を失う、ロシア軍史上記録的な惨敗だった。

 

 クロパキトン将軍は辛くも戦場からの離脱に成功したが、彼はその後敗戦の責任を取る形で罷免され、慌てるように派遣されたグリッペンベルグ将軍が冬の間に総司令官となる。



 ■日露戦争(4)


 「奉天会戦」後、戦える兵士の数が戦闘前の三分の一近くまで激減したロシア軍は、戦線が維持できなくなり、潰走状態で後退を重ねた。

 

 その後半月ほどは、ロシア軍の後退と日本軍の追撃が続いた。

 しかし日本軍は、短期間で長くなった補給線の確保、維持に手間取る。

 前線で弾薬などが不足する日本軍の追撃は徹底せず、新たに5000ほどの捕虜を得るも長春の前面での進撃停止を余儀なくされた。

 

 なお、奉天での勝利で士気が崩れたのか、11月26日旅順守備隊も日本軍に降伏した。

 要塞内にはまだ食料や弾薬は数ヶ月戦えるだけ残されていたが、要塞守備を行えるだけの兵力が既になかった事が降伏の最大の原因だった。

 そして旅順を攻めていた日本軍は、その後僅かな休暇をしただけで、ピストン輸送で長春前面に移動を実施した。


 会戦後、旅順の情勢に関係なく12月の時点での両軍の兵力差は、ロシア軍が3個師団を新たに補充しても日本軍が倍以上の優位にあった。

 そして日本帝国軍参謀本部は、この優位を見て国内で新たに2個師団の編成が済んだので2個師団の派兵を決めるが、増援を満州平原には送り込まずウスリー方面で攻勢に転じてウラジオストクを落とそうと考える。

 

 樺太からは、牽制も兼ねて海軍陸戦隊がアムール川河口部を攻めた。

 ロシア領を占領しなければ、ロシアが講和に傾かない可能性があるからだ。

 また攻める地域や地形や敵の兵力密度などを考慮して、国内待機状態だった戦虎3個大隊も投入が決められた。

 

 満州平原の方でも、旅順にいた2個軍団(5個師団と重砲兵旅団)がそのまま援軍に向かうので、春が来ると同時に長春で勝負を付けて一気にハルピンまで進軍する準備が行われた。

 

 しかし日本軍は、当面は補給線の確保と維持に非常に大きな努力を傾けざるを得ず、対してロシア軍は今までいいところの無かった騎兵を用いて、日本軍の後方を妨害しようとした。

 だがロシア軍の騎兵は、文字(地図)が読めない兵士が多いなど問題があり、効果的な妨害はでなかった。

 結局、冬の間は双方軍と弾薬、物資を溜め込むことに邁進し、僅かに騎兵による偵察や小規模な戦闘が断続的に続いただけだった。

 

 明けて1905年2月半ば、日本、ロシア双方が動き始める。

 この時満州中原には、日本軍26個師団、38万、ロシア軍16個師団、25万が展開していた。

 今までの戦争で30万近い兵力を失っているロシア軍としては、開戦前には予想もしなかった陸上での不利な状況だった。

 

 具体的に見ると、数では日本軍が五割近く優位だが、冬の間構築に努めた陣地に籠もるロシア軍は、守る側としての優位があった。

 また騎兵戦力ではロシア軍が二倍近い優勢だったが、機動戦を仕掛けるのが日本側なのでロシア軍の能動的な優位はあまりなかった。

 

 2月26日から両軍の運動が始まり、3月1日に「長春会戦」が開始される。

 戦闘は前回同様に、都市丸ごと包囲殲滅を企図する日本軍に対して、両翼の防備を厚くしたロシア軍が応戦する形となった。

 また戦線の両翼では延翼運動と呼ばれる前進競争になり、戦線は長く延びていった。

 

 必然的に両軍の兵力密度は低下したが、それが日本軍の本当に意図した事だった。

 3月4日、日本軍は全ての予備兵力を戦線中央より少し東寄りのロシア軍の各軍団の間に投入し、一気に中央突破を図ったのだ。

 

 日本陸軍は、相手に敵が同じ戦術を取ろうとしていると安心させた心理的間隙を突いて、中央突破、背面展開による敵撃滅を図ろうとしたのだった。

 

 日本軍の戦術は、まずは奉天同様の見せかけの包囲殲滅戦術と重なる事でロシア軍の動揺を誘う。

 そして頃合いを見て突如中央突破を開始した日本軍に対して、ロシア軍は戦力を中央に呼び戻して突破を防ぐか、このままの戦力で防戦を続けて包囲されることを防ぐかのジレンマに陥る。

 

 そして中途半端な兵力配置のまま決断を先延ばしにしてしまったロシア軍は、ついに日本軍の中緒突破を許し、ロシア極東軍の戦線は崩壊した。

 

 戦闘の結果日本軍は、最終的に現地ロシア軍の約半数の撃破及び捕虜とする事に成功する。

 包囲して捕虜としたのは3万ほどだったが、自らの損害は死傷者6万ほどだったので、相手に倍の損害を与えたこと加味すれば圧勝と言って差し支えないほどの大勝利だった。

 

 しかもこの時の勝利は、日本軍がまだ余力を残していた。

 戦果の多くも、戦闘終盤に後退するロシア軍への砲撃、砲撃で潰走状態となったロシア軍への追撃で得られたものだった。

 しかもロシア軍に対する追撃はその後も続き、ロシア軍を追うようにハルピン前面までの前進に成功する。

 

 そのままロシア軍がハルピンを失わなかったのは、ハルピン前面に既にある程度の野戦陣地の構築が行われていた事と、ヨーロッパロシアからの増援2個師団の展開が間に合ったからだった。

 

 また日本軍が、さらに伸びた補給線の維持が難しくなったことも大きな要因だった。

 日本軍はなまじ損害が少ないまま進撃を続けたことで、前線への補給が追いつかなくなっていたのだ。

 

 この時点で日本軍32万、ロシア軍16万と、やはりと言うべきか日本軍が二倍の戦力を擁していた。

 ロシア軍の欧州方面からの戦力補充は、まったく間に合わなくなっていた。

 だからこそ、日本軍の補給の不足は致命傷とならなかった。

 

 そして日本軍は、兵力の優位を活かしてロシア軍を圧迫しつつ、日本軍騎兵がハルピンを中軸とする東清鉄道の破壊や周辺の威力偵察を活発に実施し、鉄道の運行を大きく狂わせてしまう。

 短時間なら運行自体を止めた事もあった。

 

 この結果、ハルピン前面に籠もる16万のロシア軍は、数で二倍の日本軍に半ば包囲された上に補給も満足に受けられない状態に置かれてしまう。

 しかも日本軍は、兵力の余裕を活かして、騎兵ばかりでなく歩兵師団の一部までが東清鉄道まで進んでいた。

 

 しかもこの頃、他でもロシア軍の悲報が続いた。

 日本軍が朝鮮半島北東部に新たに軍団を上陸させ、陸上からウラジオストクを包囲するべく進軍を続けていたのだ。

 そしてほとんどの戦力を満州中原に集中していた現地ロシア軍には、3個師団を擁する日本軍を止める手だてが無かった。

 

 4月までに、ハルピンからウラジオストクに伸びる東清鉄道は完全に遮断された。

 内陸のウスリースクの街に周辺の兵力を集めたロシア軍は、圧倒的に少ない戦力で絶望的な防衛戦を行わなくてはならないまでに追いつめられた。

 

 またアムール川流域の辺境では、樺太から川を遡上する形で進んできた日本軍が各地で蠢動しており、特に少数で遊撃戦を展開する戦虎部隊は、現地ロシア軍を恐怖のどん底に突き落としていた。


 そしてこの時点で、ロシア軍が進めていた一つの計画が宙に浮いてしまう。

 言わずと知れた、ロシア本国艦隊・バルチック艦隊の太平洋回航だ。

 

 3月半ばの時点で、まだフランス領マダガスカルの入り江に虚しく停泊していたが、遂に行き先を失ってしまったのだ。

 目的地のウラジオストクはいまだ健在だが、陸から包囲された軍港に行くほど無駄な事はない。

 しかも旅順要塞および旅順艦隊なき今、全ロシア海軍に匹敵する日本艦隊を倒す算段も無かった。

 

 結局、バルチック艦隊の本国引き上げが決まった。

 これが「無駄な遠征」の結末だった。

 しかし戦争は続けなくてはならなかった。

 戦争の仲介役に事欠いていたからだ。


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