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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
第一章「始まり」

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011 カムオン、インヴェーダー(1)

■承前 状況把握


 西暦1260年、フビライ=ハーンが大ハーン位に即位した。

 続いて1271年、元帝国が成立。

 モンゴル軍は、半世紀程度でポーランド国境から朝鮮までのユーラシアの過半を征服した。


 征服の過程で属国化した朝鮮(高麗)の趙彝から日本について教えられたフビライは、金(Au)を豊かに産出するという話に関心を持った。

 滅亡寸前の南宋を除けば、東アジアで脅威となるのは、あとは日本くらいのものだ。

 朝鮮と同じように属国化すれば、元帝国は安泰である。

 また仮に属国化できなくても、朝貢という形で形式上従わせてしまえば、豊かな地域との貿易という実利面での目的は達成できる。

 

 こうした外交判断の結果、1266年に高麗政府は日本の鎌倉幕府に外交使節を派遣する。

(※フビライが高麗人の言葉だけで対日侵略を決定したとは考えづらい。もちろん戦略的な思考があっただろう)


 しかし、鎌倉幕府は外交というものに慣れておらず、まともに外交使節の相手をしなかった。

 「征夷大将軍」という外国(=夷)と戦う役職だが、古代の一時期を除いて日本人にとっての「外国」とは常に日本列島か大東島にしかいなかった。

 故に鎌倉幕府は何をしてよいのか、具体的には何も分からなかったのだ。

 

 続いて、1269年には元使潘阜を中心とする70人の外交使節を日本に派遣したが、対馬から先に全く案内されず、仕方なく対馬島民2名を捕らえて、日本に行った証拠としてフビライの下に連れ帰った。

 

 対馬は高麗・宋を脅かした倭寇の主要な出身地の一つである。

 その日本人島人は恐れた素振りを見せなかった。

 フビライも感心して元都燕京の宮殿見物をさせてもらったほどだ。

 

 3度目にフビライが派遣した元使は島民を対馬に帰した。

 元の中書省から太政官宛の書状は今度こそ京都の朝廷に届き、朝廷はこれに返事を書こうとした。

 だが幕府は、「返事に及ばず」として元に返事をしなかった。

 

 フビライは、国書に対して返答しない日本政府の考えが理解できなかった。

 歴史上最大の版図を有する超大国に返事をしないなど、常識的にあり得ないからだ。

 しかし日本が「外交」としての行動を示した以上、その行動に対してのリアクションを示さなくてはならない。

 当然だが、世界最強の国家として断固たる態度で、だ。

 

 ついにフビライは日本遠征のため高麗の金州に屯田経略使を置き、高麗から没収した物資を蓄積した。

 高麗の経済は戦争がはじまってもいないのに崩壊寸前だった。

 東アジアで、世界史に残る渡洋作戦が開始されようとしていた。



●日本の対応


 鎌倉幕府は、鎮西探題の大友頼泰に命じて防備を命じた。

 1272年には異国警護番役を設置した。

 九州に所領を持つ御家人には、直ぐに領地に戻るように指図した。


 九州の武士たちには、「元寇」の知らせを喜びとともに受け取る者もいた。

 100年前の源平合戦の時代のように、武功を挙げることで新たな領地を拝領し、官位にありつこうという思惑であった。

 異国の侵略といっても、深刻さが分かっていなかったのだろう。

 これまで日本人達は、主に大東島に対して攻めることはしても、攻められた事が無かった。

 

 だが基本的に、防衛戦では幕府によって与えられる恩賞(土地)は増えない。

 撃退しただけでは恩賞となる土地が増えないのだから当たり前だ。

 代わりの恩賞と言えば金銭になるが、鎌倉幕府に莫大な恩賞金を出すだけの財政的ゆとりもなかった。

 よって、例え元の侵攻に耐えたとしても、困難な戦後処理が待っていることは北条氏を悩ませた。

 

 また、幕府は「蒙古決戦に備えて鎮西十三国の年貢米上納を免除す」との指示を出した。

 兵糧確保のための措置であったが、これは同時に国衙・荘園などの収入が激減することを意味した。

 

 更に瀬戸内沿岸では幕府による船の徴発が相次ぎ、京都への年貢米移動にも齟齬を来たすようになった。

 公家は換金可能な収入を失い、社会問題になった。

 国内の不満は高まっていた。

 

 京都の公家や貴族は、未曾有の事態にただ高僧を呼んで祈祷することしかできなかった。

 武家はさすがに軍事的対応を考えていたが、具体的にどうすれば良いかについては、誰にも分かっていなかった。

 


●1274年 「文永の役」


 高麗王が日本侵略をフビライに積極的に申し出たというが、この説は当時の高麗の政治的状況が理由かもしれない。

 第25代高麗王の忠烈王はフビライの公主(=姫)を娶り、高麗王家はフビライ王家の姻族となっていた。

 属国とはいえ、その忠烈ぶりはある意味見事である。

 

 しかし、元々強固な権力基盤がなかった高麗王家と征服者モンゴルに対する高麗国内の抵抗は大きく、高麗王家は元軍の力を借りなくては政権を維持できなかった。

 それくらい、高麗王家は民衆の支持を失っていた。

 

 もし元が日本に目をつければ、日本に最も近い通り道になる高麗は常に元軍の影響力を受け続け、忠烈王の政権も安泰である。

 忠烈王が何に忠義を持っていたのかは不明だが、その対象が自国の民衆に向いていたかは疑問である。

 

 正月、高麗政府は日本攻略用の船の建造が命じられた。

 突然の命令である。

 自ら蒔いた種だから仕方ないが、費用負担は全額高麗である。

 高麗政府は頭を抱えた。

 とりあえず、なんでもいいから浮かぶ船を作って、元に引き渡すことにした。

 


・建造隻数:

大船300隻

小船300隻

補給船300隻 合計900隻。

 


 建造されたのは以下のような数になる。

 しかし当時の軍船なので、大船でも1隻当たりの大きさは精々全長が30メートルで、水夫(漕ぎ手)を含めて兵士100名が乗れる程度でしかない。

 当然だが、外洋航行能力はほとんどない。

 対馬海峡を渡る以上の行為は、ほぼ自殺行為といえる程度の船だった。


 何しろ朝鮮半島には、基本的に自らの近海で行動する以上の船を造る技術が存在しなかった。

 しかも準備期間が限られていた為、造りの粗い船がほとんどだった。

 

 そんな船だが6月には全て完成し、合浦(馬山)に集合した。

 建造が間に合わないために、泣く泣く既存の船を差し出すケースも多かったが、粗製乱造の新造船よりも信頼性は高かった。

 

 高麗全土で作られた雑多な船は、大きな嵐でも来れば沈没しそうで高麗兵を震え上がらせた。

 

 なお、急ぎ準備を行ったが期日には間に合わず、7月に出航するはずの攻略船団は、高麗の元宗の死で延期され、10月3日(旧暦)に出航した。

 日本に向かう兵数は、おおよそ以下のようだったと考えられている。

 


・兵数:

元軍 :2万名

高麗軍:6000名(その他に漕ぎ手7000名)


 10月5日には対馬に到着、地頭の宗助国は元軍に抵抗したが、ことごとく討ち取られ、対馬の村民は皆殺しとなった。

 地頭の宗家は長男の盛明だけが辛うじて元軍の手から逃れた。

 

 元軍の主力は、軽装の弓騎兵であった。

 1日に100kmの騎乗をやすやすとこなし、熟練に時間のかかるおおゆみと通常の弓の2種類を携行した。

 防具は頭からすっぽり覆う装飾のない兜をかぶり、厚手のマントのような軍衣をまとった。

 装飾が多い鎧兜をまとった日本の武士とは趣がかなり異なった。

 鎧や武器の違いは、基本的に騎馬民族と農耕民族の違いである。

 

 だが、本当に違うのは兵器だった。

 

 日本側の弓が100メートル程度の有効射程しかないのに、元軍のそれは200メートル以上だった。

 日本側もすぐに長弓に武器を換え対抗した。

 

 また有名なものに、既に唐代から攻城に使われていた火薬を用いた兵器(=てつはう)が元軍には装備されており、一種のデモンストレーションのように使用された。

 

 10月20日、元軍は博多など九州北部に上陸した。

 日本の武士は戦闘に際して、まずは開戦にあたって鏑矢を射て矢合わせを行い、そののちに家柄、身分、官職、氏名を述べてから戦いを開始する。

 戦闘後の恩賞などのため、誰がどのような行いをしたかが非常に重要だったからだ。

 しかし元軍が全く作法を解さず、集団戦法を採ることに日本側は驚いた。

 

 日本の武士は一騎打ちや、少人数での先駆けを試みたため一方的に損害を受けたが、昼頃には集団戦術に対応していた。

 大宰府には大友頼泰を中心に九州全土から軍勢が集合しつつあった。

 

 この日は、博多をはじめ室見川から三笠川までの博多湾沿岸の10km程度の沿岸地域を元軍に奪われた。

 だが、大宰府に集合する日本軍は最終的には10万余に達する予定だった。

 もし、元軍が北九州に橋頭堡を築いたとしても、最終的には全滅以外の道はなかっただろう。

 だが、元軍が北九州を荒らし回った場合、日本側の損失も相当なものになっただろう。

 

 モンゴル帝国の軍事行動パターンによると、事前に小兵力での敵地の威力偵察を段階的に行った後、本格的な侵攻を行う場合が多かった。

 

 元軍が騎馬も伴わずに3万程度の小兵力で日本を攻略できると考えていたわけではないだろう。

 文永の役は、つまりは元軍の示威行動であり、元帝国皇帝が本気であることの軍事的というより外交的なメッセージだったとの見方が多い。

 

 新暦で11月という冬に向かう厳しい時期に、わざわざ海を渡り日本に侵攻したのはリスクが高い軍事行動だった。

 台風が襲うシーズンは過ぎていたが、冬の対馬海峡の航海は当時の技術力では凪に近い天候でも沈没する恐れがあった。

 

 実際、作戦行動を終えて船に戻った元軍は、翌日以降玄界灘の海が荒れたために急造の船の多くが破損した。

 高麗に元軍が帰還するまでに、高麗の不満だらけだっただろう船大工が急造した船のかなりの割合が沈没していた。

 一説では、合浦に帰還できたのは半数だけといわれている。

 

 こうした状況だったため、かなりの間日本軍の奮闘と「神風」によって元軍は敗れたと言われていた。


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