318 インペリアリズム(5)
■日露戦争(1)
戦争は日本軍の奇襲の形で始まる。
初戦は、海軍による旅順軍港の奇襲作戦と朝鮮中部の仁川でのロシア艦艇の撃破になる。
旅順奇襲では、駆逐艦部隊による夜間襲撃が実施されたが、日本帝国海軍内での競争心がかなりの戦果を産んだ。
今更言うまでもないが、日本帝国は大東と日本を中心とした連邦国家であり、外に対しての結束は相応に固いが、軍内部での対立や競争などが日常的に見られた。
陸軍の場合は、近衛以外は出身地域別に編成されるから問題も少ないが、海軍は基本的に一つの組織に収まらざるを得なかった。
それでも艦ごともしくは艦長など幹部によって、日本派、大東派に分かれる事がよく見られた。
バランスよく配置した場合、トラブルが日常化しがちだったためだ。
この時も、駆逐戦隊ごとで日本と大東に分かれた功名争いが行われ、24隻投入された駆逐艦は合計48発の魚雷を積極的な接近と機動の後に放った。
そして在泊していた戦艦7隻のうち4隻、大型の巡洋艦2隻に命中魚雷を浴びせ、うち戦艦1隻、巡洋艦1隻には以後出撃不可能となる大損害を与えている。
命中魚雷数は9発から11発といわれ、大きく損傷した艦には複数命中していた。
これは日本側駆逐艦がかなり接近して攻撃を命中させた証拠であり、日本海軍内の功名争いの結果だった。
しかし損害も少なくなく、主に旅順要塞からの砲撃によって出撃数の4分の1に当たる6隻が撃沈している。
奇襲攻撃でも大きな損害が出るほど、敵に肉迫した証拠だと言えるだろう。
開戦時の日本側の積極姿勢を前に、旅順のロシア太平洋艦隊は消極的となった。
一ヶ月後には将兵からの信任が厚い艦隊司令に交代して士気が持ち直すも、日本側が行った機雷封鎖作戦で旗艦ごと司令官を失うと、またも戦意が大きく落ちて艦隊保全に入った。
だが、この戦いの結果がロシア本国で問題視され、その後の損害もあって早くも4月末に、ロシア本国のバルチック艦隊は「第二太平洋艦隊」と改名され、アジア派遣の準備が始められる。
当然日本側も対応せざるをえず、執拗な攻撃と封鎖を行う中でロシア軍の機雷で自らも戦艦を失う大損害を受けながらも、夏には旅順を脱出しようとした旅順艦隊との艦隊戦を行い、撃滅には至らないまでも実質的な無力化を達成する。
今までの戦訓をもとに多数の艦隊で敵艦隊を包囲できるよう配置した事が、この時の日本海軍の勝利を呼び込んだ。
それでも日本側は、常に逃げ腰のロシア太平洋艦隊を完全につぶせないことが早期に分かった為、陸軍による要塞攻略が開始される。
これで大東から総予備の2個師団と重砲兵旅団が大東第5軍団として旅順に派遣され、日本第三軍団と合同して遼東方面軍として旅順要塞攻略に当たることになる。
大兵力での要塞攻略は、伝統的に攻城戦に関心の強い大東側から強く提案されたものだった。
要塞戦に関心の薄い西日本の軍人達は、攻略開始前は「臆病な」大東人を小馬鹿にしていたと言われる。
どちらが正しかったかは、歴史が示している通りだ。
一方平原での陸戦だが、夏頃に大きく動いた。
日本軍が予定通り一気に大軍を満州南部に送り込むことに成功したからで、8月までに21個師団が大陸に上陸していた。
このうち3個師団は日本第三軍団として旅順の封鎖任務に就き、騎兵など支援部隊を含めた残り全てがロシア軍主力との決戦を求めて急ぎ北進した。
北進したのは大東4個軍団、日本2個軍団に所属する合計18個師団と独立騎兵旅団1個、重砲兵旅団2個で、朝鮮半島から進んだ日本第一軍団以外は横並びで満州平原を押し進んだ。
(※第一軍団には、戦虎偵察隊が1個大隊、臨時編入されていた。)
8月の「遼陽会戦」では、攻める日本軍が約32万、守るロシア軍は約22万5000。
数では日本軍が圧倒していたが、本来日本軍の想定では二倍の兵力差がある筈だった。
ロシアがシベリア鉄道を片道運行するなどで続々とヨーロッパから増援を送り込んだ結果、日本側の意図は半分近く崩れていたのだ。
しかし、戦術的に勝ち続けないと戦争そのものの前提が崩れる日本軍は、敵を包囲殲滅するため予備兵力すらほとんど持たない状態での総攻撃を実施し、ロシア側の誤断もあって日本側が勝利を掴むことになる。
この戦いは、日本軍の猛攻の裏に豊富な予備兵力があると誤断したロシア側が後退を決意したため戦いは終息したが、攻める側の数が多かった事が日本側に幸いし、戦闘終盤の追撃戦では日本軍がかなりの戦果を挙げることができた。
日本軍の死傷者2万5000に対して、ロシア軍は約5万の死傷者と3000名の捕虜の損害を受けた。
兵器の進歩によって、今までにない大きな損害が双方で発生したが、戦いはまだ始まったばかりだった。
■日露戦争(2)
旅順要塞の戦いは、近代要塞攻略戦としては世界的に見てもほぼ最初の戦闘だった。
そして西日本列島の人々は、基本的に要塞というものが分かっていなかった。
自分たちの歴史上で、二度の大東侵略と石山の陣ぐらいしか大規模な要塞というものに出会ったことがないからだ。
そして江戸幕府の天下太平の中で、その記憶すら歴史の中に埋もれていた。
しかし近代国家としての日本帝国陸軍は別であり、要塞攻略に必要な重砲兵、工兵の戦術と兵力を一通り揃えていた。
大東人は、大きな要塞の攻略が難しいことは深く理解していた。
このため、一部日本軍幕僚が進言した準備不十分な正面からの突撃は却下され、周辺部を制圧しつつ十分な作戦準備が行われることになる。
このため日本側から提案された早期の総攻撃は行われず、9月19日に旅順への最初の総攻撃が実施された。
要塞攻撃に参加したのは、5個歩兵師団と2個重砲兵旅団。攻撃自体は、敵陣地近くまでの塹壕開削はもちろん大規模な坑道爆破も行ったので、日本帝国陸軍としては十分な対策を施したと考えていた。
しかし近代要塞に対する見積もりは甘く、5000名以上の死傷者を出して第一次総攻撃は失敗する。
そして一定期間の旅順防衛が可能と考えたロシア政府は、旅順が保持されている間に制海権を得るべく、遂に本国艦隊(バルチック艦隊)を出撃させる。
当然日本側は焦り、可能な限り早い旅順への総攻撃を決定する。
さらに前回の反省から、要塞に対する詳細な調査が実施され、攻勢正面を変更して挑んだ。
10月26日の第二次総攻撃では、「203高地」としか呼ばれていなかった場所を激戦の末に奪取し、旅順港内を視界内に収めることで戦闘の実質的な決着はついた。
「203高地」は第一次総攻撃で予備的な攻撃を仕掛けたことでロシア軍がその重要性を認識したため、日本軍の予想よりもはるかに激戦となった。
だが後は、日本軍にとって相手が降伏するまで、重砲による港内への砲撃を続けていれば良いような戦闘となる。
そして「203高地」の重要性を認識したロシア軍の反撃が行われたが、兵力に優越する日本軍は同高地を守りきった。
しかし相手は要塞なので、攻略自体の手を緩めるわけにもいかなかった。
その後も一ヶ月近く要塞戦は続き、日本陸軍は想定よりもはるかに多い2万名もの将兵が死傷する。
それでも旅順が孤立した要塞だからこの程度で済んだのであり、後方からの補給と援軍が十分出来たのなら、十年ほどの後の西ヨーロッパでのような悲劇を生んでいただろう。
一方、砲弾の多くが旅順方面で消費されているため、遼陽で勝利した後の日本軍主力は前進が停滞していた。
これに対してロシア軍は、多くの増援を受け取った事もあって、旅順に対する負担を軽減する事を目的とした攻勢を実施する。
しかし、現地ロシア軍内部での政治的駆け引きも絡んでいた。
総司令官クロパキトンは、ヨーロッパから新たに派遣されたグリッペンベルグ将軍が副将格でやって来る前に、自らの功績を作っておこうと意図したものでもあった。
こうして起きたのが、1904年10月の「沙河会戦」だった。
この戦いは攻めるロシア軍、守る日本軍という形で始まるが、攻められた側の日本軍が異常なほどの積極姿勢を示し、相手を逆に中央突破しようと動いたことから予想外の大激戦となった。
投入された戦力は、ロシア軍20万に対して日本軍は後方での再編成している部隊が多かったが31万と優位にあり、しかも戦闘終盤はこの殆ど全て部隊が投入されていた。
加えて、日本側の最も運動する場所には騎兵部隊を集成した、騎馬1万騎近い騎兵集団があった。
騎兵のほとんど全てが駒城など新大東州の大東騎兵で、欧米各国からも高く評価されるほど非常に訓練が行き届き、また新時代に対応して機関銃、火砲などを豊富に持つ重武装部隊でもあった。
騎兵が多数の火砲を有する理由は、当面は防衛的戦闘が行われると判断されていたからだったが、攻勢に際しても図に当たった。
この騎兵集団の動きをロシア側も掴み、自らも世界に誇るコサック騎兵の大集団をぶつけることにした。
ロシア側としては、しょせん島国の騎兵に世界最強のコサック騎兵が負けるわけがないといった心境だったと言われている。
当時の世界中の意見も、ロシア側の考えを肯定している。
しかし戦闘は、ロシア軍にとって不本意なまま続く。
攻めかかった日本軍陣地からは機関銃と重砲の弾幕が吹き荒れて、前進どころか死傷者の山を築き上げるだけに終わる。
しかもロシア軍が身動きできない状態で、日本軍はロシア軍の攻勢正面の反対側から一気に攻勢に転じてロシア軍中央を突破してしまった。
騎兵部隊同士の激突でも、騎兵同士が戦う前に日本側は火力戦を展開し、一部を除いてまともな騎兵戦は出来なかった。
結果ロシア軍は大幅な後退をせざるをえなくなり、しかも攻勢初期と戦闘終盤での日本軍の追撃で大きな損害を受けてしまう。
ロシア軍の死傷者6万に対して、日本軍の死傷者は2万程度。
戦闘後の総合的な戦力差自体も、ロシア:日本=14:29(万人)と日本側が二倍以上の圧倒的優位に立った。




