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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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317 インペリアリズム(4)

 ■日露戦争前の軍備(2)


 一方帝国海軍だが、従来の清帝国に対抗、凌駕する海軍ではなく、拡張著しいロシア帝国海軍に対向できる軍備が目指された。

 

 当然大幅な増強が必要で、従来の数倍の規模へと一気に膨張することになる。

 この軍備計画を、帝国海軍は「八八艦隊」と呼称した。

 

 「八八」とは、旧式戦艦8隻、新鋭戦艦8隻を中心とする艦隊の事を指し、戦艦を中心に多数の装甲巡洋艦、巡洋艦など多数の補助艦艇を整備してバランスの良い海軍の建設が目指された。

 以下が、開戦時の大型艦の概要となる。



 旧式戦艦(7隻):

 8000トン級:《蓬莱》、《扶桑》

 1万トン級:《景観級》(《松島》、《橋立》、《櫻崎》、《久瀬》)

 賠償艦:《鎮遠》


 新式戦艦(10隻):

 1万2000トン級:《敷島》《初瀬》

 1万5000トン級:《三笠》《朝日》《富士》《八島》

 1万6000トン級:《香具》《足柄》《不破》《水城》


 装甲巡洋艦(10隻):

《出雲》《磐手》《浅間》《常磐》

《八雲》《吾妻》《春日》《日進》

《射水》《阿騎》


 防護巡洋艦(24隻):

 ・《浪速》《高千穂》 ・《千代田》・《秋津州》

 ・《和泉》・《須磨》《明石》・《吉野》《高砂》

 ・《千歳》《笠置》・《新高》《対馬》・《音羽》

 ・《飛鳥》《斑鳩》《信楽》《藤原》《難波》《征東》

 ・《生駒》《穂高》《鈴鹿》《志摩》


 機帆船型旧式巡洋艦、護衛艦:合計16隻


 他、水雷駆逐艦、水雷艇、通報艦など多数。

 クリッパー型を中心に帆船も若干数所属。

 

 ※ほとんど艦の名称は、日本人全体の団結を図る意味も込めて、万葉集に出てくる地名から取られている。

 平家の時代に日本が分立するまでの事は、大東でも広く知られていた。

 


 見て分かるとおり、新型戦艦の増勢が著しい。

 同時期に装甲巡洋艦も手に入れているので、戦艦と装甲巡洋艦は毎年1隻ずつ調達していた事になる。

 

 反面、防護巡洋艦の新造艦率は低く、従来の巡洋艦中心の海上交通路や植民地防衛を重視した方向性は影を潜め、ロシアに対向するべく大型艦中心へと大きく転換していた。

 新旧合わせて17隻の戦艦数は、数ではロシア帝国と同数になる。

 

 だが、1万6000トン級とも言われる新鋭戦艦群は、1903年から04年にかけて編入されたばかりだった。

 《不破》《水城》は初の国産戦艦だったが、開戦時はまだ艤装が行われていた。

 このため練度が低く、開戦時はイギリス製の《三笠》に旗艦が置かれていた。

 

 なお、さらに2隻の戦艦を迎え入れて、《景観級》以前の戦艦を退役させた段階で、第一期の「八八艦隊」計画の完成となる。

 そして日露戦争中は、「八八艦隊」が完成を見ることは無かった。

 

 一方で、装甲巡洋艦数もロシアの現役艦8隻に対して新鋭艦ばかり10隻と優勢で、世界的に見ても数ではイギリス、フランスに次ぐ数を持っていた。

 そして戦艦17隻、装甲巡洋艦10隻という勢力は、一時的だが敵となるロシアを抜いて世界第三位の海軍に成長していた事になる。

 

 この艦隊を日本帝国海軍は、新型戦艦中心の第一艦隊、戦艦と装甲巡洋艦混成の第二艦隊、装甲巡洋艦のみの第三艦隊、旧式戦艦の第四艦隊、北太平洋警備の北洋艦隊、南洋警備の南洋艦隊、羽合方面の東方艦隊に分けて配備した。

 

 北洋艦隊と南洋艦隊、東方艦隊は防護巡洋艦数隻の艦隊なので、ほとんどが第一から第四艦隊に集中していた。

 また、各艦隊は基本的に大型艦6隻の編成を取っていたが、これは旗艦からの命令が十分に届くちょうどよい数字と判断されていたためだ。

 そして第一から第四艦隊は、全て大陸に近い日本の西部のどこかの港に配備されていた。

 


 なお、日本帝国海軍の当時の拠点だが、最も大きい鎮守府は旧大東州の首都東京近辺の素島対岸にある長織市に置かれていた。

 同地は古くから大東水軍の拠点であり、首都防衛と共にすぐに太平洋に出る事も出来る東の要でもあった。

 

 西日本列島だけでなく、実質的な日本帝国海軍最大の拠点は瀬戸内海の呉及び近在の柱島に設置され、帝国海軍の教育機関もここに集中していた。

 

 瀬戸内海は古来から水軍(海賊)が盛んだったため、大東側からも異論はほとんど出なかった。

 なにしろ大東に渡った海賊も、出自の姓名が示す通りこの辺りから移民していった者達だったからだ。

 

 それ以外だと、大東島南部の南都に近い加音市には、当時から大きな海軍工廠も建設されており、太平洋への進出拠点ともなっていた。

 加音鎮守府には、数多くの整備用ドックもあった。

 

 大陸に対しては、西日本列島の九州北西部の佐世保が、駐留及び出撃拠点として急速に開発・整備されつつあった。

 加えて、日本海側の舞鶴、ロシアに近い大湊の拠点建設も急がれた。

 そして佐世保の例にもあるように、最初は清帝国、次にロシアと大陸からの脅威が大きいため、海軍の主要艦艇は西日本列島の西部に集中配備される傾向が強かった。

 日本の脅威は、大陸からやって来るという事を如実に現していたと言えるだろう。

 


 ■日露戦争(開戦まで)


 「日露戦争」は、1904年2月8日から1905年9月5日まで行われた。

 戦争の原因は、基本的にロシアの北東アジアでの膨張政策のためで、加えて白人国家として有色人国家の日本帝国を「舐めて」いたからだった。

 

 しかしロシア皇帝のニコライ2世は、日本美術を好む知日家で、皇太子時代には来日経験もあり日本政府から盛大な歓迎も受けた。

 この事は日本帝国側もよく知っていたので、ヨーロッパ的な皇室外交を行うことで外交的な解決は可能と考えていた。

 実際、日本帝国の大明皇帝からはニコライ2世に親書が出され、ニコライ2世も好意的な返書をしている。

 だが「大国ロシア」が「弱小な有色人種国家」に譲る事はなく、日本帝国はやむなく自衛戦争としての戦争を決意するに至る。

 

 1904年の日本帝国の総人口は約1億4500万人。

 国家予算は約5億9000万円。

 総人口ではロシア帝国とほぼ同じで、国家予算ではロシアがやや大きいぐらいだった。

 

 ただし、ロシアの方がそれまでの富の蓄積が多いので、一概に当時の数字だけで語ることは出来ない。

 それでも日本がロシアに侮られるというのは、現代の視点で見るとかなりおかしい。

 

 もっとも、日露の格差は日本政府も正確には掴んでいなかった。だが、少なくとも人口が似たような事を知っていたので、短期決戦の攻勢もしくは徹底した防衛戦なら負けることはないと考えていた。

 何しろ、ロシアにとっての「極東」は、その名の通りロシアにとっての辺境だからだ。


 なお3倍の差があれば、戦争では防衛戦に徹しても負けることを意味し、逆に攻撃ならば三倍の戦力が必要になる。

 故に劣る側が攻勢を取るのなら、相手の戦争体制が十分じゃない間に一気に押すしかないと考えられた。

 

 つまり日本は、短期戦の戦術的勝利に自らの活路を見いだしていた。

 また海軍力がほぼ互角で、相手は本国と極東に戦力が二分されているという不利があるため、この点では大きな優位だと考えられていた。

 


 日本帝国軍の戦術は大きく二つ。

 一つは、陸と海からロシア太平洋艦隊主力の籠もる旅順港を完全に封鎖する事。

 もう一つは、残る全軍を短期間で満州平原に投入して、ロシア極東軍の現有の野戦戦力を撃破してしまうこと。

 

 日本側の勝利の鍵は、いまだ完全開通していないシベリア鉄道だった。

 当時のシベリア鉄道は基本的に単線で、バイカル湖には鉄道は敷設されておらず、1905年までフェリーで渡る状況だった。

 

 このため日本側は、ロシアがヨーロッパから満州までの鉄道輸送力は、一ヶ月当たり陸軍師団2~3個と見積もっていた。

 

 これに対して日本の海上輸送力だが、船舶保有量は当時約250万トンあった。

 全てが外洋航行可能ではないが、軍隊だけに限れば一ヶ月で10個師団を大陸に送り込むことが出来た。

 全軍展開にも三ヶ月かからない計算だ。


 無論、各種物資、弾薬、さらには現地での輸送作戦のための鉄道、馬匹なども送り込まないといけないので、実際は6~7個師団程度になる。

 それでも全軍を4ヶ月で満州南部に展開可能で、ロシアとの輸送力の時間差こそが日本に勝利をもたらす筈だった。

 

 海軍は基本的に旅順艦隊の撃滅の機会を伺うも無理はせず、旅順艦隊を漸減しつつロシア本国艦隊迎撃まで戦力を温存する積もりだった。

 旅順艦隊の撃滅が至上命題でないのは、太平洋方面の海軍力で日本側が大きく優勢なので、ロシア極東艦隊がまともに出撃してこないと予測されていたからだ。

 

 日本側の予定では、決戦は開戦から半年後。

 ロシア本国からのバルチック艦隊の到着もなく、それで戦争には実質的にケリがつく筈だった。

 そして日本帝国政府も、自らの国家財政と国力が長期の戦争に耐えられないことを十分以上に知っていたので、軍の短期決戦方針を強く支持した。

 

 一方ロシア軍は、海軍は太平洋艦隊がヨーロッパからの増援を待ちつつ持久し、陸軍はハルピンまで決戦を避けながら順次後退し、大幅な増援を受けた上で攻勢に転じて日本軍を殲滅する積もりだった。

 後退戦術からの反撃は、ロシア帝国のお家芸だったので必勝の戦略とすら言えた。


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