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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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316 インペリアリズム(3)

 ■戦間期


 日清戦争での勝利によって、日本帝国は初の対外戦争の勝利に沸き返ることになる。

 また同時に、対外戦争によって「日本民族」としての結束が大いに強まった。

 そして日本帝国自身は、いよいよ搾取される側から搾取する側、つまり「列強」としての名乗りを上げ始めるようになる。

 しかしその前に通過すべき道は険しかった。

 

 何よりも大きな問題は、当時のロシア帝国が押し進めた極東政策だった。

 遼東半島を日本が得なかった代わりに、ロシア帝国が清帝国の借款(借金)の一部肩代わりを表面的理由に遼東半島先端部を租借した。

 

 この時ロシアは、清国に1億ルーブルの借款を行い、その代金代わりとして遼東半島を租借。

 さらにザバイカル方面から満州北部を通ってウラジオストクにつながる鉄道、その中間点ハルピンから遼東半島(ターリエン=大連)に至る鉄道の敷設権(東清鉄道)を手に入れる。

 

 しかもロシアは、1891年からフランスから資本と技術、資材を導入する事でシベリア鉄道の敷設を本格的に開始しており、1897年には西シベリアを横断して1902年には部分開通の予定だった。

 その上ロシア皇帝ニコライ二世は、様々な内政的な要因からアジア進出に非常に乗り気だった。

 

 当然ながらロシアの脅威は北東アジア地域で高まりを見せ、日本の外交と軍備もロシアに対向したものへと急速にシフトした。

 日本が受けるロシアからの圧力も強くなり、清帝国から得た賠償金の80%以上が軍備に直結する重工業の拡充と臨時軍事予算に投じられた。

 

 1894年の国家予算が約2億5000万円(1円=1ドル)なので、国家予算の1年分以上が軍備に投じられた事になる。

 そしてこの時を中心にして2億8000万円の軍備拡張比が、10年間の間に投じられる。

 この数字は通常国家予算内での軍事費以外の数字であり、当然これ以外の正規の軍事費が加わる。

 


 1904年の国家予算が約5億9000万円(1円=1ドル)なので、10年で国家予算は二倍以上に伸びていた。

 産業が拡大したり人口が増えた分以上に、様々な増税が大きく影響している。

 一人当たり納税額も、平均10円から20円へと二倍に伸びていた。

 

 一人当たり所得が大きく伸びたのはもちろんなのだが、ロシアに対向するだけの軍備を整える為に、日本帝国中で増税が実施された結果だった。

 このため10年で国力が二倍に伸びたり、所得が向上したわけではない。

 それだけ無理をした結果でもあるのだ。

 しかし無理をしただけの甲斐はあった。

 

 まずは、イギリスとの間の条約改定で、1894年に平等条約を結ぶことに成功した。

 これは今までの近代化と日清戦争の勝利による大きな成果だった。

 続いて、清朝で起きた「義和団の乱」とそれに続く「北清事変」で、規律正しい日本軍は国際的に高い評価を得ることが出来た。


 そして1902年、主にイギリス側の理由によってだが、イギリスとの間に「日英同盟」を結ぶに至る。

 この時点で帝国政府は、これでロシアのアジア進出はある程度止まり、戦争は回避できるだろうと考えた。

 

 何よりイギリスという大国の存在が抑止力となるし、相手がまともに日本の国力を調べれば、普通なら強引な進出の抑制と日本との戦争回避に外交の舵を切る筈だからだ。

 しかも日本は、自国防衛の為に朝鮮半島が維持できれば当座は満足なのだから、ロシアが強欲をかかない限り妥協はできる筈だった。

 

 しかしこの時代は、白人優越主義が蔓延する時代だった。

 欧米諸国のほとんどは日本の本来の国力を正しく評価せず、当然ながら調べもせず、偏見に満ちた見当違いな考えしか持っていなかった。

 日英同盟を結んだイギリスですら、一部を除く殆どの者が自分たちが軍艦を売ったから日本軍は強い、という程度にしか考えていなかった。

 その最大の論法が、ロシアは日本の十倍の国力がある、という一般論だった。

 

 確かに陸軍の常備戦力を見れば、十倍近い格差があった。

 だがそれは、日本帝国が平時の陸軍を抑え海軍を重視しているからに過ぎない。

 イギリス政府は多少違う見解を持っていたからこそ日本との同盟に踏み切ったのだが、ロシア人は日本帝国の国力をほとんど理解していなかった。

 兵士の規律の正しさも、臆病者だからだと誤解していたほどだ。

 

 その証拠に、ロシアの北東アジア侵略は年を経るごとに激化し、日本との対立も増えた。

 その副産物で、大韓帝国と名を改めた朝鮮半島が、自らの事大主義の対象をロシアへと変更して日本帝国から大いに失望を買うという外交の一幕も見られた。

 

 そして日本帝国は、ロシア帝国が自分たちの絶対防衛線に至るのは時間の問題と予測し、ロシアの膨張を止めるには軍事力しかないという結論に至り、自らの国力の限界を賭けた軍備増強、国領増進に邁進した。

 



 ■当時の世界情勢


 19世紀末から20世紀初頭にかけて、欧米諸国は帝国主義的戦争に明け暮れていた。

 

 イギリスは南アフリカで「ボーア戦争」を行って、未曾有の規模を有する世界最大の金鉱を手に入れた。

 しかしこの戦争での一時的な疲弊と、膨張を続けるドイツ対策のために、日本と同盟に踏み切る事になった。

 

(※この前後のイギリスは対ドイツ戦略として、日英同盟以外にもアメリカとの協調関係の構築、フランス、ロシアとの協商を結ぶなど非常な努力を行っている。)


 日本同様の新興国アメリカは、1898年に同じ白人国家のスペインに難癖を付けて戦争を吹っかけ、スペイン人の植民地をほとんど奪ってしまった。

 

 この戦争でアメリカは、日本に太平洋各地の寄港地の寄港もしくは貸し出しを申し入れ、スペイン領だったフィリピンへ攻め込もうとした。

 しかし日本は、戦争に対して局外中立を宣言しているため、国際常識に則ってアメリカの申し出を謝絶した。

 

 この背景には、古くからスペインとの交流の深かった大東人が、スペインに義理立てしたという要素が見逃せない。

 その証拠に、アメリカの神経を逆なでするように羽合などに日本帝国の軍艦が追加で派遣されたりした。

 

 アメリカは、大西洋からインド洋を経たルートでのフィリピン侵攻も考えた。だがイギリスなど欧米諸国は、戦争が広がることを回避するためなどの言い訳でアメリカに寄港地を貸さなかった。このためフィリピンは、スペインの植民地として残されることになる。

 そしてアメリカは、自分たちに協力しなかった日本帝国への悪感情をさらに一つ記憶することになる。

 

 植民地分割がほぼ終わったアフリカ大陸でも、残り滓の奪い合いがハイエナ同士の争いのように行われた。

 太平洋でも、本来の先客である日本を押しのけるように、イギリスの残り滓をドイツ、アメリカが奪っていった。

 この結果、日本帝国とドイツの関係が悪化している。

 

 しかもドイツ、アメリカ共に、日本が既に領有を確定している島々にまで食指を伸ばすほどだった。だが、日本が対ロシア戦備として多数の艦艇を次々に編入すると、無理して北太平洋に入り込むことはなかった。

 

 だが、「アメリカ=スペイン戦争」でカリブの覇権を得たアメリカは、いよいよ太平洋への進出を行おうとして、日本との間に破格の金額でのハワイの売却を持ちかけるなど自らの欲望ののままに動いた。

 このため日本は、アメリカの申し出を謝絶すると共に、羽合への艦艇常駐や守備隊の増強などを実施した。

 この時代は、力だけが正義であり自らを守る術だったのだ。


 


 ■日露戦争前の軍備(1)


 日本帝国海軍は、1896年、1902年に大規模な軍備拡張を実施する。

 だが、1904年の日露戦争開戦時に間に合ったのは、ほとんどが1896年の軍拡による部隊や艦艇だった。

 

 日本帝国陸軍は、師団数の倍増を計画した。

 現状の17個師団を戦時に後備師団以外で34個師団に増強する計画だ。

 まず西日本で3個、大東で5個増設され、これで近衛師団と合わせて「25個師団」体制が作られる。


 そして1902年に4個師団が増設され、1904年、1905年にもそれぞれ2個師団ずつが増設された。

 さらに、近衛師団を分割する形で2個師団体制とする計画も通過した。

 全て完成すれば、従来の二倍の34個師団となる。

 

 このうち1個師団は大洋師団とも言われたように、日本帝国が有する太平洋地域に移民した人々とその子孫を中心にして編成される屯田兵師団だった。

 中にはハワイ王国軍の連隊(実質は大隊規模)も含まれていた。

 

 しかしロシアとの開戦に間に合ったのは29個までで、戦中に6個師団の増設が間に合うと、予備に拘置されていた師団が順次追加で戦場に投入されている。

 

 歩兵師団よりも人数当たりの経費が全然違う騎兵、重砲兵の整備も精力的に行われ、合わせて砲弾備蓄についても日清戦争の教訓に従って生産体制共々大幅に増強された。

 戦虎もまだ現役で、戦虎偵察大隊が一部師団に属して、山間部など騎兵の使えない地形での活躍が大いに期待されていた。

 

 また大規模な外征、つまり大陸への出兵を想定して3~4個師団で「軍団」という一つ上の戦略単位を作る制度も作られた。

 軍団は歩兵師団2~4個、騎兵旅団1個、重砲兵旅団1個を基本編成として、大規模な外征の際には3個軍団単位で派遣し、さらにその上位の戦略単位として方面軍司令部を置く事とされた。

 円滑に命令を伝えるため有線通信(電信)も整備された。

 そしてこうした司令部組織も平時から編成、訓練されるようになり、戦争への備えを加速させた。

 

 加えて陸軍は、千島半島などでロシアと国境を接しているため、極寒の地での国境警備にも力を入れた。

 ロシア領とは狭い海峡を隔てただけの樺太島の各所にも相応の駐屯施設と備蓄、さらに一部では要塞化工事も実施された。

 

 こうした日本の防衛対策はロシアを刺激し、ロシアはオホーツク海沿岸地域、黒竜江河口部などにかなりの数の守備兵を送り込まざるを得なくなった。

 ロシアにとってあまりにも辺鄙な場所で、尚かつ交通網が不十分なため、ロシアの負担の方が格段に大きかった。


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