315 インペリアリズム(2)
■「日清戦争」
「日清戦争」は、1894年(大明27年)7月から1895年(大明28年)3月にかけて行われた、主に朝鮮王国(李氏朝鮮)の主権をめぐる日本帝国と大清国(清帝国)の戦争だった。
同時に、日本帝国が行う初めての対外戦争でもあった。
日本帝国と清帝国の朝鮮半島を巡る対立は、既に世界的にも認識されており、ごく普通に国土と人口で圧倒する清が優位だと考えられていた。
日本も1億人を越えるが、何しろ清帝国は4億人以上の人口を有していた。
しかし帝国政府としては、様々な情報収集と研究によって、現状の清帝国軍に勝つのは十分可能と考えていた。
問題はどの程度勝つか、どの程度の戦争期間が必要か、どの程度の戦費を使うか、だった。
朝鮮半島を独立させてロシアに対する帝国の防波堤を作るのが目的とは言え、帝国主義的戦争にあって損をしては元も子もないからだ。
また清帝国を滅ぼして、自らが新たな王朝を開くつもりも毛頭無かった。
このため帝国政府は、事前の研究の末に戦費3億円、帝国軍の半分を戦争に投じることを内密に決める。
無論、目論見通り戦争が進まない可能性も考慮して、念のため全面戦争の準備も進めた。
世界の一般評や西日本列島の一部政治家の予想と大きく違って、日清戦争とは日本帝国にとって「勝てる戦争」、もしくは勝つことが分かっている戦争だった。
実際、いざ戦争が始まってみると、日本軍の圧倒的優位で戦況は進んだ。
近代的な国家と軍隊を作りあげた日本帝国に対して、清帝国の軍隊のほとんどは近代的装備で上辺を装っただけの「張り子の虎」ならぬ「鍍金の獅子」だった。
清帝国については、軍隊以外も旧態依然としていた。
そこに満州族(女真族)という異民族が建てた王朝という要素が加わり、兵士(民衆)にはまるでやる気が無かった。
日本と戦った軍隊も、李鴻章の実質的な私兵以外は役に立たなかった。
そもそも清朝軍は、近代的軍隊としての訓練がほとんど行われておらず、負け始めると簡単に瓦解して敗走した。
特に大東が保有し続けていた「戦虎」部隊は清国兵達の恐怖の的で、欧米の観戦武官も「猛獣部隊」として注目した。
「戦虎」の活躍は主に偵察と少数による夜間襲撃だったが、それでも「戦闘兵器」として大型の猛獣が戦闘に投入されている事は世界的にも大いに注目された。
この影響で、欧米列強の一部は大東から戦虎となる「剣歯猫」とその運用ノウハウを輸入し、研究する事にもなる。
欧州列強は、軍用犬の代わりになるかもと考えたのだ。
実際、軍に導入した国も見られた。
そしてこれが切っ掛けとなり、世界中に長い牙を持つ無地の虎である「剣歯猫」が「サーベル・タイガー」として広く知られるようになり、世界中の動物園と一部の牧場で一般的に広く見られるようになっていく。
戦闘自体は、開始当初から日本軍が火力を中心に圧倒して戦闘を優位に進めたため、まともな戦闘はほとんど発生しなかった。
一度だけ発生した海上戦闘(黄海海戦)も、当初日本側の巡洋艦部隊が突出したため各個撃破の好機と見て清朝艦隊が突撃するも、日本側が後詰めで戦艦部隊を投入すると逃走を開始。
しかし既に前衛艦隊と絡み合う状態で逃げ切れず、清朝海軍はたった一戦で日本海軍に壊滅的打撃を受けた。
結果、清国の惨敗で戦争の幕が降りる。
日本帝国が使った戦費は、ほぼ予想通りの3億円。
動員した軍隊も、戦時充足した常備軍の半数を少し超えた程度で収まった。
日本にとって、あまりにも予想より容易い戦争だった。
そして日本帝国軍が、政治的動きとして北京進撃の素振りをわざと見せた時点で、列強各国が講和の調停に乗り出す。
清帝国の「東洋の眠れる獅子」というメッキが剥がれた以上、清帝国は列強にとっての獲物だった。弱者同士の戦争の結末として、領土割譲は最低限に抑えるべきだと考えていた。
また、北京を本当に攻め落として国家が崩壊したら、面倒が増えるだけだと日本を含めて誰もが分かっていた。
だからこそイギリスなどは、清に賠償金のための借款(純金による法外なもの)を申し入れるなど根回しに余念がなかった。
しかしここで、日本帝国政府は少しごねた。
無論目的は、自分たちがより多くの戦争の果実を得るためだった。
なお、当初の講和の争点は以下の通りだった。
一、清国は朝鮮の独立を承認。
二、清国は遼東半島・台湾・澎湖島を日本に譲渡。
三、清国は賠償金2億両を金で(一括で)支払う。
四、欧米並みの条件の対清条約を日本と結ぶ。
新たに重慶・杭州などを開港する。
この中で日本は領土割譲に拘ったが、それは国内で溢れだした余剰農民(労働者)の移民先が少しでも欲しかったからだ。
だが日本帝国自体は、国内開発に力を入れる段階だと為政者達も考えていたので、初期条件は国内の不満を解消するための方便でもあった。
そこでイギリスは、日本は遼東半島割譲を取り下げ、清国は賠償金一億両(純金換算で百トン)上乗せにしようと提案した。
これで賠償金は3億両(=円)となるので、戦費も全て回収できることを意味していた。
本来なら、日本としては交渉の落としどころだった。
無理に領土割譲しても、列強各国からの心証が悪くなるし、最悪外交問題も抱えなければならないことを考えれば、遼東半島は取り下げるべきだったからだ。
だが、もう少しごねても大丈夫と判断し、さらに交渉を重ねる。
そしてギリギリまで交渉を粘り、戦争再開も考慮に入れるという強気の姿勢を示す事で、賠償金額は4億両にまで引き上げることに成功し、ここで日本帝国政府も手打ちにした。
イギリスも日本の講和促進のため清をさらに押して、遼東半島の代わりの賠償金の大幅上乗せで対応させた。
清国も父祖の地の一部を蛮族に渡すよりはと納得し、イギリスの申し出を受け入れて莫大な借金を行い、日本への賠償金を整えた。
かくして「下関講和条約」は結ばれ、清帝国は朝鮮半島の主権を失ったばかりか、台湾島、澎湖島の割譲、戦時賠償金として日本に四億両(テール=4億円)の支払いを受け入れる講和条件にサインする。
当然だが、四億両の金貨(金塊)は、イギリスの金庫から清帝国を素通りして日本帝国の金庫へと流れた。
また、日本が新たに得た台湾島は、ほぼ未開の土地に等しい南国に準じる大地だったが、根気強い統治と開発によって徐々に発展し、移民地の一つとしても発展するが、それは随分先の話しだった。
なお、この戦争を契機に、西日本列島でよく起きていた病気の脚気がほぼ駆逐されていた。
西欧医学に基づく科学的な原因究明にはまだかなりの時間を要することになるが、大東では小麦、馬鈴薯を主食に組み込んでいたが、これを陸海軍全体に広く導入したのが日清戦争だった。
日本軍将兵からは、せっかく兵隊になったのに白米(精米)が食べられないと不評だったが、それも大東での肉食文化などを合わせることで不満も回避された。
そして軍での栄養価の高い食事の広まりが、米(精米)だけを食べることで発生しやすい脚気を駆逐していく事になる。
また、多くの将兵が交わった事で、西日本列島と大東の食生活が相互交流する大きな機会ともなった。
そして何より、初の対外戦争は西日本列島と大東島が日本帝国として自分たちを意識する大きな契機となった。




