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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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314 インペリアリズム(1)

(※神の視点より:円の国際的価値は大東が1円=1ドルで設定しているので、日清戦争以前だと円は史実の150%の価値になる。また、史実日本の金本位制度制定後は2円=1ドルだが、こちらの世界は1円=1ドル。)



■初期の日本帝国軍


 帝国主義時代において、国家の軍事力は何よりも重要だった。

 「列強グレート・パワー」から身を守る術がなければ、征服され植民地となるしかなかったからだ。

 日本帝国も、極論してしまえば国防の為に国家と民族の変化と革新を強引に進めたのであり、軍備の充実は常に大きな問題であり続けた。

 


⚫︎1880年代、90年代の財政


 日本帝国で最初の民主選挙が行われた年、国家予算は約1億7000万円(1円=1ドル)あった。

 このうち75%が、大東または大東の植民地からの税収だった。

 

 大東は人口が多く、先に近代化したり荒須加金山などの存在が大きいとは言え、江戸時代を脱して十数年の西日本列島の経済的な遅れを見て取ることができる。

 

 江戸時代の日本は、江戸時代の名残が強い税率のおかげで庶民は世界的に見ると比較的豊かだったが、国は貧しく大資本家がほぼ存在しなかったのだ。

 

 だからこそ帝国政府は、日本皇国から上がってくる税収を一部振り替えて、日本国内の予算に多く振り向けたさせた。

 その主な対象となったのが軍事費で、日本帝国全体で国家予算の20%前後だった国防予算に対して、日本皇国が負担するのは自らが出した税収の10%以下に常に抑えられていた。

 

 おおむね8%程度に抑えられていたので、日本帝国全体での軍事費で見た場合は、本来20%のところが19%に低下するだけに抑えられる。

 つまり日本帝国政府としては、西日本に大きな軍事負担を課すよりも、公共投資などを強化して経済発展させる方が国家として理に適っていた。

 

 こうした財政の組み方は、連邦国家だから出来ることだった。

 琉球や羽合には、国防の観点もあって常に中央から大量の補助金が出されたりもしている。


 10年後の1890年の国家予算は、約2億2000万円(1円=1ドル)。

 このうち軍事費は、出費が嵩んだこともあって30%近くを占めていた。


 軍事費の比率が拡大したのは、国家建設が一定段階を過ぎたのと、近隣情勢が徐々に逼迫しつつあったからだった。

 そして当時の日本帝国にとっての一番の懸案事項は、ロシア帝国が食指を伸ばし始めていた朝鮮半島だった。

 


⚫︎1880年代、90年代の陸軍


 帝国政府成立以後、近代的軍備の建設に力を入れていた日本帝国は、兵部省という統一省庁を文官組織として置いて、実働組織に陸軍と海軍を置いた。

 

 陸軍は近代的な軍管区制度が新たに導入され、初期の頃は国防軍としての鎮台が置かれ、特に西日本列島では長らくそのままだった。

 しかし順次、それぞれに鎮台司令部から師団司令部へと変更されていった。

 

 この結果、1890年までに西日本列島6個、旧大東州7個、新大東州3個の合計16個の歩兵師団が編成され、全く別組織として近衛隊と近衛師団が統廃合で整備された。

 

 近衛隊と近衛師団の違いは、近衛隊は宮廷や皇族の警護専門で儀典部隊も兼ね、主に東京と京都に配備されていた。

 

 近衛師団は全日本軍から選抜された兵士を集め、有事の際に先陣を切る日本帝国最強の部隊として編成、訓練されていた。

 実際に近衛師団は、歩兵旅団3個、騎兵旅団1個、砲兵旅団1個という2個師団に匹敵する贅沢で大規模な部隊編成を有していた。

 通常の師団は、大東島の場合は歩兵2個旅団、騎兵と砲兵が各1個連隊を基本とした。


 また、大東の新大東州のみではあるが、昔ながらの「戦虎」もまだまだ現役兵科として所属していた。

 「剣歯猫」の優れた知覚能力と圧倒的な格闘戦能力は、ライフル銃や大砲が主軸となった戦場でもまだまだ通用すると考えられており、騎兵偵察隊と並ぶ形で「戦虎偵察隊」として正式編入されていた。

(※戦虎が部隊編成されている場合は、基本的に大隊編成。)

 

 対して西日本では、様々な問題から近代的な騎兵が確保できなかったので、騎兵連隊を欠いていた。

 このため西日本では、大東から西洋馬(スペイン馬)を大量導入した騎兵の編成が徐々にではあるが進められていた。

 

 また歩兵師団以外だと、大東島では騎兵旅団2個と重砲兵旅団3個が独立部隊として置かれるなど、編成の上でも東西に大きな違いがあった。

 

 全てを合わせると、1890年代前半の日本帝国陸軍は、歩兵師団17個、騎兵連隊16個、重砲兵旅団3個。

 兵員総数は、軍人・軍属合わせて平時で約30万人となる。

 

 1895年の総人口が約1億2000万人だったので、人口比率で見れば軍事力はかなり低くなる。

 国家予算に占める軍事費の割合も、それほど高くはない。

 

 しかし、この規模は列強として見た場合では、必要十分と言える規模にまで成長していることを意味していた。

 あとは後備旅団制度、戦時動員制度などを実働状態にまでもっていけるようになり、巨大な軍を支えるだけの武器弾薬の生産力を国家が持てば他国に後れをとらないことを意味していた。

 

 一方海軍だが、大東国時代の昔から海外領土をある程度保有していたので、日本帝国となってからもかなりの努力が傾けられていた。

 また、必然的に大東帝国の海軍が中心となった。

 

 重視されたのは海外領土の警備と航路防衛で、このため巡洋艦クルーザー護衛艦フリゲートの整備に力が入れられた。

 警備艦コルベットも整備されたが、小型艦は汎用性に欠ける点が多いため数は限られていた。

 

 戦列艦もしくは戦艦と呼ばれる大型艦艇の整備は、予算不足もあって重視されず、各時代に抑止と象徴を兼ねて数隻の戦艦(戦列艦)が保有されるに止まっていた。


 1870年代までは、古い時代を引きずった帆船型の戦列艦(蒸気駆動)を整備した。

 この頃まで、旧来の帆船としての戦列艦が現役艦艇として名を連ねていた。

 現在大東で記念艦として保存されている戦列艦「天翔丸」も、1870年代に建造されたものだ。

 

 1880年代になると、一部に近代的装いを持った8000トン級の装甲戦列艦の《蓬莱》、《扶桑》が加わる。

 しかし、まだ艦の中心線上に旋回式の砲塔を備えた艦ではなく、この艦までが旧時代の艦艇と言われることも多い。

 また、技術の進歩が著しい時期なので、すぐにも旧式化して姿を消している。


 1890年代前半には、念願の欧州列強と互角の能力を持つ1万トン級戦艦の《景観級》(《松島》、《橋立》、《櫻崎》、《久瀬》)と呼ばれる日本、大東各地の名勝の名を冠した砲塔を持つ近代的な戦艦が4隻保有された。

 しかしこの頃の軍艦は、建造技術の未熟と技術習得の双方の理由から、大型艦の全てが輸入艦(フランスに発注された)だった。

 

(※《景観級》は本来6隻整備予定で、残る2隻は《厳島》《千景》が予定艦名だったが、予算不足で4隻に減らされた。)


 さらに対清政策で、イギリスに最新鋭の戦艦が相次いで発注されたが、実戦配備されるのは1890年代後半を待たねばならなかった。

 それでも1894年には、軍人・軍属総数約5万人、艦艇総排水量20万トンと、東洋一の海軍と言われるほどにまで成長する。

 


挿絵(By みてみん)


日本帝国と周辺図


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