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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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313 インテグレイション Japan(6)

 ■初期の対外政策


 日本帝国としての外交の前に、大東帝国としての外交を先に見ておく。



挿絵(By みてみん)



⚫︎南洋領域の確定


 1854年の大東帝国成立以後、大東帝国は内政安定を重視してそれほど活発な対外活動は行わなかった。

 主に行ったのも領土の確定事業だった。

 

 その後も大東の外交の中心は、日本との統合に向けられた。

 しかし近代化を行うためには、出来る限り自力での海外市場と資源調達地が必要となる。

 加えて、少しでも国内の飽和する人口を移民させられる場所が欲しかった。

 

 このため太平洋各地の調査についてだけは、相応の熱心さで実施された。

 しかも同地域は、欧州諸国も徐々に太平洋に興味を向けつつあるとあっては尚更だった。

 

 鎖国時代に大東が勢力を広げていた太平洋地域の島々は、北太平洋の東伝列島、先島諸島、ハワイ(羽合)諸島、西太平洋の引田諸島と茶茂呂諸島になる。

 茶茂呂諸島の南と東に、さらに幾つもの島が有ることは16世紀から知っていたが、小さく貧しい島ばかりりな事も分かっていたし一応は鎖国もしていたので、特に進出も行われなかった。

 だが他国に領有されたら国防に関わるため、順次標識を立てるなどの対策が実施された。

 

 しかし当時は帝国主義の時代であり、ヨーロッパ諸国も世界各地での植民地獲得を熱心に行っていた。

 このため、大東として古くから領有している地域にまで食指を伸ばす有様で、内政を重視しなければならない日本帝国としては、海外進出よりも現時点での領土の防衛を重視しなければならなかった。

 

 本来ならニューギニア島東部、南太平洋の島々を植民地として、少しでも国家の富を増やしたい所だったが、そのほとんどは叶わなかった。

 

 南太平洋各地も、イギリス、フランス、少し遅れてドイツが領有した。

 日本帝国は、茶茂呂諸島のより南にあるパラオ諸島、サペドラ諸島など赤道より北側にある近在の小さな島々を新たに領土に加えるだけで満足しなければならなかった。


 だが、東の外れにある大波島の領有は、諸外国に認めさせることができた。

 これでハワイとの海上交通は完全なものとなり、ハワイを事実上衛星国もしくは保護国とすることで、北太平洋の安定を確保する事に成功している。

 これらの領土確定により、大東は西太平洋、中部太平洋、そして北太平洋のほとんどを領有する事になる。



⚫︎近隣の領土


 日本帝国となったとき、江戸幕府の領域だった琉球王朝、樺太島などの領有権確定が必要だった。

 琉球の確定は台湾出兵によって清帝国との間で行われ、琉球王朝は形式的に王朝を維持したまま日本帝国に組み込まれた。

 

 樺太島は、19世紀中頃に有守島などからの移民によって開発が本格化し、幕末にロシア人が対岸に来る頃にはほぼ日本領として認められるようになっていた。

 しかし領土の確定が必要なため、1860年に対岸の沿海州を領有したロシアとの間に領土交渉が実施され、そのまま日本帝国領となっている。

 

 1870年代からは本格的な開拓事業が、有守北部の開発と連動して行われ、厳しい自然に苦労しながらも牧畜と組み合わせたヨーロッパ式農業が取り入れられた。

 



⚫︎北辺の領土


 大東時代から千島半島などのユーラシア大陸北東端、北米大陸の荒須加を領有しているが、日本帝国が行った作業はロシア、イギリスとの境界線の確認作業だけだった。

 どちらも極寒の地のため、積極的に欲しがる国が無かったためだ。

 

 ただし領有確定の結果、日本帝国が北極海から太平洋の出口(=縁具海峡)を占有することになるため、ロシア、イギリスは多少の難癖を付けている。

 

 それでも、自分たちにとっても辺境すぎる場所のため、極端に文句を言い立てることもできず、若干の嫌がらせを受けただけで領有権を確定することが出来た。

 当時から、大東の軍事力がある程度警戒されていたからだった。

 

 そして、近代化に伴う移動手段の革新的改善(蒸気船の利用)によって行きやすくなったし、鉱山などの開発が容易になったため、鉱山開発事業、漁業を軸にした開発に力が入れられた。

 特に近代化が急速に進んだ捕鯨は、1880年代まで盛んに行われた。

 



⚫︎朝鮮問題


 日本帝国成立後に少し問題となったのが、いまだ海外のことに目を向けず鎖国政策を続ける朝鮮王国に対する外交だった。

 

 西の日本人の多くは、強引にでも開国させて自らの清帝国、ロシアに対する防波堤にしたいと考えていた。

 

 だが、日本帝国を実質的に運営している大東人は、朝鮮半島に対して反応が鈍かった。

 極論すれば、「あんな糞まみれの土地なんてどうでもいい」というのが一般的な意見で、清帝国が保っているうちは放っておいて構わないと考えていた。

 

 結果、帝国政府としての朝鮮政策は後回しにされ、1875年まで朝鮮政策は手を付けられることはなかった。

 そしてその後も、ロシアのアジアでの南進に伴う国防という問題が首をもたげてくるまで鈍い姿勢が続く。

 一方の朝鮮王国の側も、日本が帝国を名乗り皇帝を担いでいることに激怒し、完全に交流を絶ったままだった。

 


⚫︎羽合王国の帝国参加


 羽合諸島には18世紀から大東の捕鯨船が進出して、その影響で18世紀末に羽合王国が成立した。

 また北太平洋には大東の捕鯨船が溢れているので、長い間調査以外で欧米の船がやって来る事はなかった。

 

 しかし大東帝国が成立して以後は、捕鯨船保護の目的で大東の軍艦が羽合に立ち寄るようになる。

 真の目的は、太平洋進出を果たしたアメリカへの牽制にあった。

 その後も羽合と大東の関係は進み、1875年には帝国政府との間に互恵同盟が結ばれる。

 

 そして1881年(大明14年)にカラカウア王が来日して、カイウラニ姫と大東皇帝の皇子の一人との婚姻を成立させると共に、国そのものが日本帝国へと参加し、日本の保護国となる。

 つまり、王家と自治権だけ残して主権国家としての羽合は消滅する事になる。

 

 19世紀半ば以後は、イギリス、アメリカが羽合に対して領土欲を見せた行動を取ったが、パワープロジェクションをかける大東、そして日本帝国の存在があるため、目的を達することは出来なかった。

 


 ■立憲体制成立


 日本帝国での近代憲法制定と民主議会開催は、前政権が不平等条約を押しつけられた事も重なって、欧米と対等に渡り合うためには必要不可欠だった。

 そうでないと、欧米諸国が近代国家として認めないというルールと勝手に作ったからだ。

 故に他の近代国家に比べると、その道のりは非常に早かった。

 

 早くは1840年代に、大東国時代に視察調査団がヨーロッパに派遣され、そこで彼らはヨーロッパの自由主義革命の嵐を目撃した。

 さらに遡れば、文献や貿易商のうわさ話として18世紀末には近代国家の姿は感じられるようになっていた。

 

 そこに不当な開国という大きな衝撃が襲い、大東人はいち早い近代国家建設へと性急な道のりを進むことになる。

 そして一日も早い憲法制定を求めた為、民主的に作られた「民定憲法」ではなく、為政者が憲法を制定する「欽定憲法」となった。

 

 だが、憲法制定までには流石に時間がかかり、四半世紀近い歳月を要した。

 それまでは一部の人間による政治が行われ、近代国家と呼ぶには相応しくない状態に甘んじざるを得なかった。

 

 だが1879年に「日本帝国憲法」は制定され、翌年の1880年には、最初の衆議院選挙が実施された。

 

 選挙は、当時「公選」と呼ばれる選挙権を持つ者を制限した民主選挙となったが、それでもヨーロッパ標準に近い選挙だったので当時としては特に問題もなかった。

 そしてこれで「立法」、「行政」、「司法」の三権分立がようやく揃う事になる。

 

 だが問題は皆無ではなく、性急すぎる近代化に押し流されていた西日本各地では混乱が見られ、中には選挙一揆と呼ばれる反対運動まで起きたりもした。

 

 なお、議会は他国でも一般的な「上院」、「下院」に分けられ、特に日本帝国では二つを合わせて「統合議会」と称した。

 また上院は「貴族院」、下院は「庶民院」とも呼ばれた。

 

 上院は選挙はなく、各州、王国の代表が選ばれた。

 中には勅撰議員、終身議員もおり、主に貴族もしくは権利を持つ貴族と専門家達が推薦で選んだ識者や、超高額納税者が選ばれた。

 ただし辞退者も多く、常に一割程度が欠員していた。

 

 下院は民政選挙によって選ばれた議員で数が多く、初期の選挙権は「10円以上の納税」というかなり厳しい条件が設けられていたため、「金持ちによる政治だ」と国民からの反発もあった。

 その後選挙権は徐々に広げられ、半世紀ほど後に「普通選挙」と呼ばれる一定年齢以上の成人男子全てに選挙権を与える制度へと進歩していく事になる。


 日本帝国初の議会選挙では多数の政党が成立してたが、やはり対立軸は大東島の南北二つの地域と西日本列島の三つに分かれた。

 日本自由党、日本保守党、日本民主党が最も多い議席を獲得した政党になるが、日本自由党が西日本列島、日本保守党が新大東州、日本民主党が旧大東州と勢力が分かれていた。


 選挙活動地域の影響もあるが、それぞれの地域の民意を反映したものとも言えるだろう。

 この点は、アメリカに少し似ていた。

 だが他にも多数の政党が乱立し、日本ではイギリス、アメリカのような二大政党制ではなく多党制が続いていく事になる。


 だが議会が開かれるようになっても、議員の質の問題もあって初期の政治は一部の重鎮による政治が一般的だった。

 この点は制度としても置かれ、皇帝は「元老」と呼ばれる重鎮から意見を聞いて政治の参考とした。

 また諮問機関として「枢密院」も置かれ、大きく憲法が改定される半世紀ほどの間は、この状態が続く事になる。

 


 日本帝国が出来た時は軍の統帥は憲法上では皇帝にあったが、欽定憲法制定によって皇帝の輔弼する宰相が実際の権力を行使する形に改められた。

 

 この結果、皇帝の軍事に関する権利は憲法上なくなり、「君臨すれど統治せず」の形が憲法制定によってより強くなる。

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