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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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311 インテグレイション Japan(4)

 ■日本統合


 その後西日本列島では、京の都を主な舞台とした政争とテロ、加えて小規模な戦闘が何度も起きるが、幕府の権威低下は続いた。

 

 大東が庇っているため諸外国による日本への干渉は最小限で済んでいたが、その事が江戸幕府の民心離反をさらに強めた。

 「征夷」できない将軍と幕府に用はないと言うことだ。

 

 だが一方では、新政府は必要だが日本は日本、大東は大東でそれぞれ自立すべきだという考えで動いている人々もいた。

 この論者たちを、「東西統合」へと収斂させたネゴシエーターが四国は土佐の下級武士の坂本龍馬だった。

 

 彼は無血による日本の革新と新国家建設を求める急進派の一人で、そのための手段として「東西統合」と「日本民族の統合」を求めた。

 

 しかし彼の出身地の土佐藩は、古くから大東移民などで大東との繋がりが深いため、後世の研究では大東側の人間と見られる事も少なくない。

 坂本龍馬の家も、戦国時代末期に大東に亡命した分家があり、江戸時代は大東との間の貿易も行う商家でもあった。

 こういう点からも、坂本龍馬は「東西統合」を行うのに相応しい人物だったと言えるだろう。


 彼の出自や経緯はともかく、日本国内では「薩長同盟」という幕府打倒の体制を作り上げ、大東にも何度も渡って交渉を行った。

 彼が日本、大東分立派を「東西統合」に向けさせた手法こそが、「連邦国家」構想だった。

 これを坂本は、欧米の国家の有り様から着想を得たとされる。

 

 極めて単純に説明すれば、今日の形通りに日本皇国、大東帝国それぞれに国内政府を作り、その上に「統合政府」を置くという案になる。

 しかもこの案だと、大東が保有する世界各地の植民地が自治を持つ際にも利用できるという利点があった。

 日本も琉球を簡単に併合出来ることになる。

 

 さらに大東にとっては、西日本を直接併合なり合併した際に生じる面倒を最小限に出来るし、日本側の革命勢力にとっては、自分たちが少なくとも西日本列島を統治できる利点があった。

 

 ここでの最大の問題は、二つの天皇家をどういう形で「東西統合」するか、だった。

 どちらが上に立つのかと言えば、国力の差から大東皇帝が国家元首になるのは疑いなかった。

 だからこそ大東は、日本人に対して大東皇帝が「新しい将軍」だという認識を与えようとした。

 

 しかしこれでは、近代国家として二重権威になる可能性もあった。

 日本の天皇家が大東皇帝の権威を認め、その大東皇帝が「君臨すれど統治せず」を行い、大東の中央政府が日本民族社会全てを統治する事になるからだ。

 

 そこで考え出されたのが、皇帝家と皇族が一つの枠組みの中に居れば国家としては大東皇帝が元首となるが、皇族の中では天皇が皇帝に権威を与えるという形だった。

 また対外的にも、同じ一族として日本の天皇が大東皇帝を承認するだけの形になるので問題も少ない。

 つまり日本民族内では天皇家が名目上での元首になるが、対外的には大東皇帝が新たな日本民族国家の元首となるのだ。


 この日本人しか受け入れないであろう仕掛けに、皇族、皇帝家双方、朝廷、大東政府も乗ることを決めた。

 あとは、どうやってソフトランディングで江戸幕府を解体するか、という問題に移る。

 

 一つの手段は、江戸幕府に「大政奉還」という形で将軍職を朝廷に返上させ、現状での日本政府を解体する事。

 もう一つは、天皇の側から「王政復古の大号令」を行い、強制的に江戸幕府の権威を奪ってしまう事。


 どちらの場合にせよ、同時に皇族と皇帝家の姻戚関係を結び、「東西朝の統合」へと持っていく。

 そして色々と議論され、様々な勢力による駆け引きや陰謀が行われたが、大筋は上記の線で進むことになる。

 

 日本皇国、大東帝国の二つの国を作り、その上に中央政府としての「日本政府」を作り連合国家とする。

 しかし二つの天皇家を再び一つにした為、「連合」ではなく「統合」となる。

 また、日本人もしくは日本民族が一つになるので、この意味でも「統合」となる。

 

 このため国号は「日本帝国エンパイアー・ジャパン」ながら、通称では「統合日本インテグレイション・ジャパン」と呼ばれる。

 特に19世紀の日本人は日本帝国という言葉をあまり使わず、統合日本と言う事が多い。

 「統合」という言葉は、この時代の流行語ともなった。


 ヨーロッパにおいては、同じ時期に国民国家として統一を果たした、ドイツ、イタリアと似たようなものだと考えた。

 もしくは、ドイツとオースリアが統合した場合のような状況なのではとも考えた。

 

 そうした外からの視点はともかく、日本人の新たな国は権威君主による議会制民主主義国家を目指し、帝国主義の時代へと船出していく事になる。

 しかもお誂えというべきか、1867年1月に明治天皇が立ったのに続いて、同年4月に大東でも大明皇帝が擁立された。

 これで皇族、皇帝家のお膳立ては揃い、事が一気に進められていった。


 1867年11月、この先月に江戸幕府が自らの意志で起死回生の「大政奉還」を行うも、それを帳消しにする形で「王政復古の大号令」が実施される。

 これで二世紀半に渡り西日本列島を統治した江戸幕府は戦乱も革命も経ずに消滅し、新国家へと移行する。

 

 そして西日本に誕生した新政府は、自らを「日本皇国」と呼称するも、大東帝国との統合を同時に発表し、日本民族を統合した新国家へと昇華する。

 この時、日本の反幕府勢力は、自分たちの権力をより確実にし、尚かつ幕府だけでなく武士の権威、権力を無くすため、幕府に対して戦争を起こそうと画策していた。

 

 しかし、戦乱は不確定要素が大きく、また諸外国に着け入れられる可能性が高いため、大東側は強く反対した。

 そして大東は、反幕府勢力と幕府双方を武力で威圧するべく、石山湾、香取湾など各所に海軍を派遣し、無血での革命が成就する。

 

 新国家名は「日本帝国」。

 北東アジアでの独立国を示す「大」の文字は付けられなかった。

 必要と考えられなかったからだ。

 

 新たな国は、「日本皇国」、「大東帝国」と大東が有する植民地を領土とする連邦国家とされ、「日本帝国」の中央政府は現在の大東帝国政府を母体として再編成する。

 

 旧大東帝国と日本皇国以外では、西日本が事実上支配していた琉球王朝が最初から加わり、少し遅れて大東の影響が極めて強かった羽合王国が加わることになる。

 その後も植民地が自治を得る際には、独立より先にまずは日本帝国の連邦の一員となる事が多かった。

 


挿絵(By みてみん)


大東島周辺地図


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