表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

101/132

310 インテグレイション Japan(3)

 ■幕末日本


 日本の「幕末」は1853年6月の英国艦隊来訪によって始まり、大東との開国を経て1860年3月の「桜田門外の変」によって本格化したとされる。

 当時最大の政治家(=大老)だった井伊直弼の暗殺で江戸幕府の権威は地に墜ち、かわって天皇を擁する朝廷の権威がクローズアップされたからだ。


 1860年代に入って開国後の日本は、ヨーロッパから高値で手間をかけるよりも、近在の大東から技術や知識を輸入する向きを強めた。

 何しろ言葉と文字が同じなので、既に学んでいる大東人から学ぶ方が容易く、そして日本にまで人材を呼ぶ際に大東人の方が利点も多かった。

 距離も断然近いので、日本からの留学や視察も容易だった。


 無論ヨーロッパにも視察団が出されていたが、近在の大東に頼る向きを弱めるほどにはならなかった。

 日本の先を進んでいる大東は、非常に分かりやすい手本であり見本だったからだ。

 

 一方で日本国内では、外国人排斥の「攘夷」と共に大東を警戒する動きも出た。

 だが、大東に対する日本人の行動にはジレンマがあった。

 

 「尊皇攘夷運動」の旗頭である孝明天皇が、大東を頼る傾向が非常に強かったからだ。

 また大東皇帝は天皇家の枝分かれした子孫でもあり、大東貴族の中には最初の征夷大将軍である坂上田村麻呂の子孫までいた。

 

 大東に居着いた平家の一部も、皇族、王族の中で命脈を保っていた。

 その他、古い血統、名門の血統が、実質権力や富を持ったまま数多く存在していた。


 一方、新政府成立後の大東帝国内では、既に組織疲弊が深刻化している江戸幕府に対して見限る雰囲気が強かった。

 特に井伊直弼暗殺後は、その傾向が強まった。

 

 さらには、大東国内でのナショナリズムの昂揚と歴史的劣等感の払拭のために、大東の側からの「日本統一」が考えられるようにもなっていた。

 大東人にとって「日本統一」は、日本に対する劣等感の完全な払拭と自らのナショナリズムを満たす最大のテーマだった。

 

 しかし、大東国内での戦乱と大東再統一後の内政努力、諸外国に対する外交の為、日本への干渉に大きな力を割く事が難しかった。

 これが大東から日本への動きを緩やかなものとしていた。

 加えて、日本での井伊直弼の暗殺は、大東の政治的動きに変化を促す大きな切っ掛けとなった。

 

 このため大東は、自らの皇帝も皇族(天皇家)の一つであり、日本の統治権があるという説を日本国内に流布する事に務めた。

 また、欧州諸国を利用しようとしている幕府及び反幕勢力の行動が危険すぎ、「日本民族」に大きな危機をもたらすとも警告した。

 その上で、今こそ「日本民族」は諸外国からの圧力に立ち向かうため「一つの帝」のもとで統合しなければいけないと煽った。

 

 そして徐々に、日本の天皇、皇族、公家への働きかけを強めていった。

 天皇の政治利用は、日本人の心理に最も効果的だったからだ。

 

 大東の宣伝戦略と皇族に対する政治工作は年々効果を発揮し、日本国内には外見も言葉も同じ大東人が数多く闊歩するようになる(※言葉には若干の違いあり)。

 彼らが「日本と大東」が一つになること、この当時に初めて出た「東西統合」という言葉で宣伝した。


 また、海外貿易港として急速に発展していた関東の香取湾の横浜には、外国人居留地とは別に大東人居留地も建設された。

 当時日本は、ヨーロッパでカイコが病気で全滅した影響で、ヨーロッパに対して生糸や絹製品を輸出して、様々な近代的文物を手に入れていた。

 しかし最大の取引相手は江戸時代を通じて大東であり、開国後も変化はなかった。

 

 そして水面下では、「皇族の合体」による日本統合への布石を打っていった。

 この結果、1862年に大東に対する神戸の開港を受け入れさせる事に成功し、翌年諸外国が来る前に確固たる拠点を築いた。

 

 そうした上で京の都への最短ルートを確保し、次の一手を打つ。

 これが大東皇帝と日本の天皇の会見だ。

 しかも大東側は、これを自らの国家行事とはせずに、あくまで「皇族内」の「私事」とした。

 しかも分家が本家に挨拶に行くと見せかける。

 

 これを孝明天皇や京の公家が好意的に受け入れたため、日本側の視点から見ると大東皇帝による天皇への拝謁が行われる事になる。

 しかし大東側の文献を見ると、対等で、私事で、公式行事ではなかった。

 

 そして豪華で大型の蒸気軍艦の艦隊と、それに乗ってきた漆塗りの豪奢な馬車の大行列が、神戸の港から大坂を経由して京の都へと練り歩く。

 その様子は多くの日本人に目撃され、それまで日本国内で実体があまり知られることの無かった大東という存在を強く印象づけた。

 これを「大東の錦船」と呼ぶこともある。

 

 この後、大東皇族と日本天皇家との間に婚姻を行うことも決められ、江戸幕府が画策していた「公武合体」による日本国内での権威向上と政権安定という目論見が吹き飛んでしまう。

 


 結果、江戸幕府は大東への警戒感を強めるが、日本国内では「東西統合」の言葉は一層強まるようになる。

 民衆の間にも大東を「日本民族」と見る向きが強まり、「大東皇帝」という名の皇族に連なる「新しい将軍」が強い国家を作って諸外国に立ち向かい、国内にも安定をもたらしてくれるのなら、という期待が強まるようになる。

 

 しかも大東皇帝の存在そのものを江戸幕府程度の視点にまで落として考えれば、当時の日本人の多くにとって精神的ハードルは極端に高くなかった。

 大東皇帝がまさに「新しい将軍」となるからだ。

 

 加えて大東には、過去2世紀の間に多数の日本人移民が移住している為、親近感は過去に例がないほど高まっていた。

 江戸時代の農民の間には、食い扶持に困れば大東に送り出せばいいという風潮さえ育っていたほどだ。

 

 そしてこれを、反幕勢力(初期は長州藩が中心)が利用した。

 大東の事はともかく、旧態依然とした江戸幕府を打倒して革新的な新政府を作る以外に、日本が生き残る道が存在しないと考えていたからだ。

 

 一方江戸幕府は、大東への警戒感をいっそう強めた。だが、開く一方の技術格差と大きな国力差、そして何より僅か数百キロ隣という距離の問題から、もはや処置無しの有様だった。

 しかも西日本内の大東を今から追い出しても、日本の民衆から幕府が突き上げを喰らう可能性が高いし、大東が怒り狂って武力に訴えて幕府を倒す可能性も考えられた。

 

 江戸幕府は、兵器の輸入や近代化で大東を頼ることが難しくなったため、主に接近してきたフランスを頼ったが、この事が余計に民心の離反を引き起こした。

 「幕府は自らが生き残るために、日本をヨーロッパに売ろうとしている」という風聞は、幕府の権威をさらに落とし、民心の離反を招いた。

 

 ちなみに、幕末の日本では大東人が数多く闊歩した。

 この場合、茶茂呂人や古大東人系以外だと、服装を整えてしまうと外見はほとんど西日本の日本人と見分けが付かなかった。

 新大東州の大東人は、食生活の違いか体格は若干大きかったが、大きさという以外の違いはほとんど無かった。


 しかし西日本に来た大東人は、護身用に拳銃を携帯している事が多いので、攘夷派などからのテロに逢うとすぐに分かったと言われている。

 このため大東武士は、銃に頼る臆病者という武士の強がりも相まって、「銃士」と呼ばれたりもした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ