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きまぐれ★プレートテクトニクス 〜太平洋を横断した陸塊「大東島」〜  作者: 扶桑かつみ
引きこもりルート

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309 インテグレイション Japan(2)

 ■日本の開国


 1853年6月、イギリスの4隻の軍艦が西日本の江戸幕府に開国を求めて浦賀に来航する。

 

 イギリスが日本に対して行動を取ったのは、二つの理由があった。

 一つは、近隣の大東が大規模な内戦状態にあったからだ。

 もう一つは、阿片戦争後も貿易状況があまり改善しない清帝国の代わりとなる新たな市場を求めての事だった。

 

 本来なら大東をターゲットにすべきで、当時大規模な内戦中なので尚更そうだと考えられていた。

 しかし大東では既に産業革命が開始されつつあり、内戦を観戦した武官などの報告から一定の軍備を持つ事が分かっていたので、何もない日本が新たなターゲットとされたのだ。

 

 そしてイギリスの読み通り、内戦中の大東がイギリスの行動を牽制する事はなかった。

 そして日本の江戸幕府は、狼狽して右往左往するばかりだった。

 


 なお当時の日本は、江戸幕府の治世のもとで海外事情を何も知らずに「天下太平」を謳歌していたわけではない。

 

 完全に鎖国していないので、長崎に来る貿易船から情報を得ていたし、水面下での大東の交流でも海外の情報は流れ込んでいた。

 大東がイギリスに屈服を余儀なくされ、さらに大東で「大きな戦争」が起きたことも知っていた。

 

 だが、当時の江戸幕府は多くの面で硬直化しており、海外情勢に対しては分かっていても「見ざる、言わざる、聞かざる」な状態だった。

 そして「太平の眠り」を覚ます事件が「黒船来航」だった。

 

 当時の戦列艦(大型戦艦)に相当する排水量5000トンクラスの蒸気戦列艦を中心とするイギリス艦隊は、当時の日本人達に極めて大きな衝撃を与えた。

 

 結果、1854年2月にイギリス艦隊が再度来航した時に「日英和親条約」が締結され、軍事力と国力、そして情報不十分のため不平等条約となった。

 その後もアメリカ、フランス、さらには長年のつき合いがあったオランダも日本との間に不平等条約を結び、日本の危機感が増していく。

 

 軍事力と国力、そして情報不十分のなのだから、あまりにも当然の結果だった。

 しかし二度目の衝撃は、意外なことに隣国からやって来る。


 1855年8月、内戦を終結させ新国家を作ったばかりの大東が、新国家建設を知らせる為という名目で、世界的に見ても最新鋭の軍艦(蒸気軍艦)を中心とする艦隊を日本の香取湾口の浦賀に派遣した。

 

 そして江戸幕府に対して、大東帝国及び大東皇帝の承認及び正式な国交の樹立を持ちかける。

 またほぼ水面下ではあったが、同盟関係を中心とした海外勢力に対する一致団結を呼びかけた。

 

 この大東帝国の日本への艦隊派遣は、西日本列島の日本人に大きな衝撃を与えた。

 大東による日本への軍艦派遣は事実上鎖国以来となり、また、自分たちの「格下」と勝手に思いこんでいた大東の力を見せつけられた為だった。

 そしてこれ以後、西日本国内は大東に対する姿勢で大きく揺れることになる。

 

 最大勢力は、大東もしょせん夷敵(=外国)という考えになる。

 だが次に多いのが、大東も同じ大和民族(=日本民族)だという考えだった。

 他にも、大東が日本を飲み込もうとしているという反大東の一番過激な一派など、様々な派閥が誕生した。

 しかしこれらは、西日本の人々が「夷敵」と「大東」を分けて考えている証拠だった。

 

 そうした中で重要だったのが、時の孝明天皇の姿勢だった。

 孝明天皇は極度の外国、白人嫌いで有名で、大東に対しては「同じ日本人」という考えを持っていた為、大東皇帝を認めてでも大東の力を頼ろうとした。

 このため、大東との交流を深めるように幕府に圧力をかけた。

 

 しかし江戸幕府としては、大東と他の国を別々に扱うダブル・スタンダードを取れば、欧米各国から突き上げられることを理解していた。

 このため最初は、大東の申し出と孝明天皇の言葉に対しては言を左右にして、大東を諸外国と同列に扱った。

 そして新国家、新政府は承認したが、半ば面子の問題として大東皇帝は認めなかった。

 

 だが一方では、大東側が提示した条件は江戸幕府にとって極めて魅力的だった。

 治外法権は従来通り開港地の浦賀のみとして、日本の関税自主権も認める内容だったからだ。

 大東は既に欧米と本格的な戦争をしてその混乱から新国家を建設し、産業革命を始めとする近代化も推し進めているので、大東との平等条約の締結が外交での突破口になるのではと考えられたからだ。

 

 大東との間には、1855年10月に「日東和親条約」結ばれ、日本初の平等条約となった。

 そして以後江戸幕府は、大東から大規模に技術や兵器など近代的文物を輸入するようになると同時に、西日本での大東の影響が急速に高まっていく事になる。


 江戸幕府から大東への視察団は、早くも1856年に第一陣が出発。

 以後、ほぼ毎年送り出され、規模も拡大していった。


 この結果、大東が急速に成し遂げつつある近代化、西洋化が、かなり広く日本人に知られるようになる。

 同時に大東人が、ヨーロッパはもっと凄いと技術習得に熱心だったので、ヨーロッパにも視察が出されるようになる。

 そして主に大東への視察で分かった事は、西日本に不足するものがあまりにも多すぎるという事だった。

 

 大東で見た次々に誕生しつつある蒸気の煙を噴き上げる近代的な工場や鉄道敷設の様子は、当時の西日本列島の人々には想像の外だった。

 軍艦を含めた武器については、大東での内戦終結で大量に余った兵器が格安価格で西日本列島に押しよせたが、それは当面の国防を補う役割しかなかった。

 

 西日本列島の人々は、表面的な文物ではなく、その根底にある技術、知識の修得が必要なことを理解して実践したが、その道のりは極めて険しく遠かった。

 だがこの頃、世界情勢は日本人に味方していた。

 

 一番に日本(江戸幕府)を開国させたイギリスすらその後ロクに日本来なくなったのは、まさに世界情勢が影響していた。

 当時ヨーロッパ諸国は各地で戦争を繰り返しており、その間に日本人達は自分たちの争い、そして大東との関わりを進めていく事になる。


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