010 ビバ、インディペンデンス(4)
・1295年
大東国では、内紛を経て貴族の綱紀粛正と階級再編成が進む。
大東では武家と公家の区別をなくし、当時の日本で見られたような貴族は京に在住し、地方の荘園収入が請負代官によって京進されるのを待つという受動的かつ怠惰な領地管理手法を改め、貴族階級各人が荘園を管理するようにした。
この貴族制度を公家在地領主制という。朝廷は中央政府になり、貴族は地方政府となった。
日本の幕府よりも一挙に中央集権化が進んだように見えるが、朝廷が手に入れるのは土地収入のごく一部でしかなかった。
※身分制度の詳細については(013ゲットピース トゥ リーヴ、ND WAR 2nd(1))へ。
・1297年
蒙古合戦でも活躍した村上水軍が中心となり大陸に渡り、私貿易の商談をもちかけ、纏まれば貿易を行い、破談となれば即座に暴力に訴えた。その場合、倭寇と表現された。これを歴史上では「前期和冦」と呼ぶ。
こうした村上水軍による貿易船は八幡大菩薩の幟を立てていたため、八幡船と呼ばれた。
鎌倉幕府、「永仁の徳政令」。
この頃、西日本で貨幣経済が浸透。大東ではまだ貨幣の浸透は進まず。
・1301年
元の征東行省廃止。日本征服の試みが終わる。
この頃から元と和船の貿易が増大。大東の船も、琉球経由で元に赴くようになる
・1306年
このころから、西日本列島の大和・山城を中心に「悪党」の跳梁が目立ち始める。
・1307年
「大仁日寇」
(第一次日本・大東戦争。日本側名称:徳治外征)
北条師時は、地方での幕府影響力低下を抑えるため、悪党に代表される武装集団のガス抜きをすることにした。具体的には、大東国への外征である。
同時に、まともに納税もしない御家人を粛清し、彼らの勢力を削ぐ狙いもあった。
朝廷も常に幕府に反抗的だったため、鎌倉幕府の威光を知らしめす必要があった。
東海から関東の御家人が船を建造し、兵糧は奥州の安東氏からの寄進で賄った。新大東島の古大東人の一部族と通じた幕府は新大東島に塩釜・胆振から兵を大東島のアヅカと呼ばれる地域に輸送した。
一種の海賊行為に近い奇襲上陸戦を繰り返す日本軍により、旧大東島沿岸は荒れ果てた。
(大東では近代に入り「日本のバイキング」とも呼んだ。)
この教訓が、大東に海岸防衛の重要性と、都市城塞の重要性を認識させる。以後各地で大規模な都市型城塞の建設が進む。
・1333年
大覚寺統の後醍醐天皇は全国の武士に討幕の綸旨を発す。
鎌倉幕府滅亡。
・1334年
後醍醐天皇による「建武の新政」開始。
・1335年
北条時行が鎌倉幕府復興のため挙兵、中先代の乱が勃発。
大東、旧鎌倉幕府側を支援。日本の内乱を長引かせようと画策。
・1336年
日本天皇家が分裂し、「南北朝時代」がはじまる。
この中で、大東島の逆賊(=天皇家)が荷担するのではないかと警戒される。しかし大東国は、特に大きなリアクションは起こさず。
「室町幕府」が成立。
武家による幕府は京都に本拠を移した。
・1349年
鎌倉府が創設され、関東十ヶ国を支配した(後に陸奥国・出羽国も管轄した)。鎌倉府は代を重ねるに従って京都の幕府と対立するようになった。
また、鎌倉時代に設置された有守管領職はこの頃安東氏に独占されていたが、鎌倉府ほど中央の意向に反することはなかった。
・軍制の変化:
南北朝時代の戦乱は、蒙古襲来以降改良を続けていた日本騎兵の戦術に変化をもたらしていた。
一騎打ち中心の「やーやー我こそは」的な戦争から歩兵中心の集団戦闘に移行し、騎兵もそれ以前とは異なる運用がされるようになっていった。
戦闘に際しては騎馬武者も下馬して戦う場合が多くなった。
大東騎兵の勇猛さが知られるようになると、対大東戦の備えとして機動力を生かした集団戦法と組織的な弓攻撃、そして迅速な後退、という戦法を確立した。
従来は騎馬武者1人に刀・長槍・薙刀・弓矢など雑多な武器を持った歩兵が5人、という混成編成であったがこれでは騎馬の優位点である移動力が発揮できない。
かつての虚仮脅しドクトリンから決別し、騎兵と歩兵の分離に先に成功していたのは大東騎兵の方であった。
・1351年
元にて「紅巾の乱」。
・1367年
西日本、南北朝合一。
足利家将軍権力は強大化。日本を二分した戦乱は終焉した。
鎌倉幕府に比べれば、室町幕府は地方分権の性質が強い政府であった。
・1368年
明帝国建国。
日本-琉球間の中継貿易が盛んになったが、これは対明朝貢貿易に柵封体系に入らず参加するための方策であった。大東は平安時代の日本のように直接的な対明貿易を推進。
日本・大東と朝鮮の貿易は、日本の塩浦・富山浦・乃而浦に限定されたが対等だった。
倭寇は初期に沈静化した。同時期に海軍力の増強が日本においてみられた。
・1372年
「二十年戦争」(第二次日本・大東戦争)勃発。
(詳しくは(014 ゲットピース トゥ リーヴ、ND WAR 2nd(2))参照)
・1392年
李氏朝鮮建国。
室町幕府は長崎に軍港を整備し、対馬の防衛を強化。
「二十年戦争」休戦。
同年、室町幕府は鎌倉府による関東擾乱を反逆と断じ、関東管領上杉氏に命じて鎌倉府を打ち滅ぼすよう命じる(関東擾乱)。
・1397年
鎌倉府に代わり、関東・奥羽は関東管領上杉氏が幕府の出先機関として機能するようになる。
・沿岸防衛の変化:
かつての元寇では、北九州に防塁を築いて水際での防御を試みた。
しかし、大東国との戦争においては守るべき海岸線が東海沿岸全域に広がっており、防塁建設は経費的にも当時用いることができた土木技術的にも水際防御は難しかった。
それよりも、航洋型の海軍を建設し、大東国の輸送船を撃退することで西日本列島への上陸を阻むイギリスが採ったのと同じ防衛戦略を本格的に採ることになる。
20年戦争の結果、水軍の大幅な強化がみられた大東国は、日本の水軍強化を把握していた。大東国の輸送船(つまりは、外洋航海ができる大型商船)の安全を確保できる水軍、つまりは日本と同じ航洋型の海軍建設を決定した。
・1405年
明帝国の永楽帝の命により、鄭和が第1次航海へと出る。
船団は62隻、総乗組員は2万7800名余りという壮大な規模だった。
・1407年
鄭和船団カリカットに到達。帰国後すぐに第2次航海に出発。2度目のカリカット航海。
・1409年
鄭和第3次航海に出発。
今度は琉球・大東(南都・大坂)に航海。更に東進するために大東国で物資を買いつけ。
更に船体修理のため、大量の木材・膠などが需要された。さしずめ鄭和景気とも言うべき好景気になる。
大東国が明帝国に何度も自分たちとその先の事について伝えた結果だった。
・1410年
鄭和艦隊の分隊が現在の中道島発見。未確認ながら、羽合諸島まで到達したとの見解もある。
・1411年
鄭和帰国。
・1413年
鄭和第4次航海。ペルシャ湾のホルムズやアラビア半島南のアデンなどに到達。
・1417年
鄭和第5次航海。アフリカ大陸東岸のマリンディにまで到達。このとき、大東島と日本がそれぞれ2隻の船を提供している。
はじめて日本人・大東人がインド亜大陸の地を踏む。
・1421年
鄭和第6回航海。朝貢にやってきていた各国の使節を送るためのものである。分隊は大東島まで外交使節を送り届けている。
はじめて大東人がアフリカの地を踏む。
・1429年
琉球王室の成立。
新大東州の開発も進み、大東島全島が大東国の支配下にはいった。日本との和平、国内の統一に伴い、歴史上のどの国家も安定を獲得した後に経験した通底的課題……政府及び行政システムにおける事大主義と行政コストの際限ない上昇、つまり腐敗がはじまった。
・1431年
鄭和第7回航海。メッカまで到達。
・1450年頃
大東島で見られた計画的保全林は、15世紀頃から西日本列島でも見られるようになった。
西日本列島では、7割が山岳という地形のために、人の手により全面的に森林が失われるという事態が起こりずらい環境にあったが、大東島は大陸と同じように、意識的に保護しなければ森林が全面的に消滅する恐れがあった。
保護林の概念は11世紀から見られたが、徐々に管理主体が各村落から豪族・地爵へ、というように大規模化していった。15世紀半ばには公爵が保護林を設定するまでになった。
こうした森林を”州森”という。基本的に立木を切り倒してはならないが、枝打ち等の管理は必要だった。
そのために代々公爵に雇われて森林管理に当った者を”木守”と呼んだ。木守姓の家系は、本来そういったフォレスターだったのだろう。
・1467年
日本「応仁の乱」(~1477年)勃発。「下克上」の「戦国時代」が到来。
戦国大名の台頭。
農業・工業技術が向上し、生産も増大、内外の流通が盛んになった。民衆の力は増大し、各地で土一揆が発生。
守護代や国人衆による下克上による騒乱が各地ではじまった。室町幕府の支配体制が生み出した守護代は戦国大名へと成長しつつあった。
守護大名はその領国の土着の武士と主従関係を結び、被官化し、一元支配するようになった。これを守護領国制と言った。
……中世の終焉。そして戦国時代を経て近世の始まりへと続く。




