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幽霊の、正体見たり、壊したり ——その4

「解けた、って……どういうことですか?」

「"血涙のヴィーナス"は心霊現象でもなんでもなく、合理的に説明のつく現象だってことさ」


俺はヴィーナス像の目に親指を擦りつけ、一見して血涙のような赤い粉を拭い取った。「なんですかそれ。血液の乾燥粉末?」と絶妙に気持ちの悪い質問を飛ばしてくる隠神に、ことの真相を説明する。


「これはロドトルラだ。酵母菌の一種で、世間一般には"赤カビ"って呼ばれてるものだな」

「赤カビ……って、お風呂とかに生える、あの?」


そう。"血涙のヴィーナス"の目から流れ落ちていたのは、なんのことはない。ただの赤カビである。

赤カビの名で知られるが、ロドトルラは厳密にはカビではなく酵母菌の一種だ。湿気さえあればどこにでも生えてしまうため、一般家庭でも風呂場やキッチンなどで増殖するケースが珍しくない。

ロドトルラの厄介なところは、水分だけを栄養として爆発的に増えるという特性にある。黒カビなどと違って拭けば簡単に落とせるが、発生箇所に少しでも水気が残っているとあっという間に再発生してしまう。


「美術準備室はジメジメして黴臭いって言ってただろ? ロドトルラはそういう場所でよく増えるんだ。たぶん、探せばヴィーナス像の他にも赤かピンク色のカビを生やしている備品があるんじゃないかな」


合鍵をもつ部長に頼んで、ためしに美術準備室を開けてもらった。扉を開けただけで、むあっとした嫌な空気が押し寄せて来る。

元来は紫外線による収蔵品の劣化を防ぐ目的なのだろうが、美術準備室には窓がなくて薄暗い。しかし建物が古いせいか空気の入れ替えが上手くいっておらず、やたらに湿度が高くなってしまっているようだった。

美術品の保管に適した空間とは口が裂けても言えないような環境である。他にロドトルラが生えている場所はないか探そうと思ったが、ホコリとカビの臭いが鼻をついてそれどころではなかった。ここに入りたがる生徒がいないわけだ。

思わず「こんなところに置いてたら赤カビも生えるわな……」と言うと、部長は「本当はもっと綺麗に保管してあげたいんですが、なにぶん置く場所が足りなくて……」と申し訳なさそうにしていた。しかし悪いのは美術部ではない。生徒会としては今後、美術室の環境改善の働きかけをしていく必要がありそうだ。


「待ってください和泉ちゃん。その……ロボピッチャ? が原因だと言うのはわかりましたが。どうしてそれがヴィーナス像の"目"だけに生えたんです?」

「ロドトルラな。騒動の数日前、イタズラでヴィーナス像に黒目を描いた子がいるって言ってただろ。たぶんその落書きを消したとき、ヴィーナス像の目の部分のコーティング剤が剥がれたんだよ」


ヴィーナス像の表面は全体的につるつるとした感触だった。おそらく石膏像用の保護材でコーティングされていたからだ。

美術準備室の劣悪な環境下で何年もカビを生やさずに保管できていたのだから、コーティングの効果はそれなりに高かったとみられる。しかし先日のイタズラ描き事件によって、保護剤の一部が剥がれてしまったのだろう。

おそらく「消し方」が問題だった。叱られた新入部員は反省し、入念にヴィーナス像の目を磨いたのだろう。しかし消しゴムだけでは綺麗に消えず、爪でガリガリ削ったか、あるいは紙やすりのようなものを使った可能性もある。

ヴィーナス像の目の部分だけがざらついていたのは、そこだけコーティングが削られてしまったからだ。おかげで目の部分だけ防水効果が失われ、湿気にやられたむき出しの石膏部分にロドトルラが生えた、と。おおまかな経緯はこんなところだろう。


「これだけ湿度が高い部屋なら、朝方なんかは気温差で結露することもあるはずだ。目のくぼみに溜まった結露がロドトルラを含んで赤く染まり、涙のようにこぼれ落ちていく……すると一見、血の涙を流すヴィーナス像が完成するってわけだ」


この説明に美術部の皆さんはどこか困惑し、口々に状況を整理しようとしていた。「呪いでもなんでもなかったんだ」と素直に納得する者もいれば、「そんな偶然あり得るのかな……」なんて言って疑いの目を向けてくる者もいる。

残念ながら、この場の推理だけで全員を納得させるのは無理だろう。専門家でもなんでもない俺が突然現れて「これはオバケの仕業じゃないですよ」と言っただけで、証拠もなにもないのだから。もっと時間をかけて調査すれば動かぬ証拠が見つかるかもしれないが、そこまでしても信じない人は最後まで信じてはくれないだろう。この中にだって、蟷螂坂のようなオカルト第一主義者はいるかもしれないし。科学よりオカルトを優先する人を納得させるのは極めて難しいものだ。


「まぁ、信じる信じないは皆さんのご自由に。ただ……実在するかどうかもわからない"祟り"と、世界中のどこにでも当たり前に生える"赤カビ"、どちらを先に疑うべきかは悩むまでもないと俺は思いますけどね」


オバケや呪いといった非科学的なものの存在を完全に否定することはできない。そりゃ世の中には科学で解明できないものだってあるだろう。けれど、疑うにも優先順位というものはある。

目安箱の投書にあった"墓掘り金次郎"だかいう怪談と同じだ。運動場が掘り返されていたなら、二宮金次郎像に責任を押し付けるより先に、野良犬や不審者の仕業ではないか調べてみるべきだろう。

"血涙のヴィーナス"の一件だってそう。祟りなんてもののせいにする前に、ただの赤カビが原因ではないかと疑うのが先だ。"祟り"と"赤カビ"、どちらがより身近な存在かなんて考えるまでもないのだから。

見た感じ、ほとんどの美術部員は俺の話を信じてくれたようだった。全員を納得させることはできなくとも、過半数に伝わったならまずまずの結果だろう。彼らがこの説を広めることで"血涙のヴィーナス"の噂が衰退していってくれれば、なお有難いのだが。


「……ところで部長。わからなかったことがひとつあるんですが」

「はい? な、なんでしょうか……」

「美術部の皆さんはどうして、薄気味の悪いヴィーナス像のデッサンなんかしていたんですか?」

「どうしてって……呪われたヴィーナス像だなんて、最ッ高に創作意欲を掻き立てられるじゃないですか! 芸術家のはしくれとして、こんな貴重なモチーフを逃すわけにはいきませんよォ!」


美術部部長はぶるぶると震わせた手を高く掲げた。彼の一声を聞いた他の部員たちも「うんうん」と頷いている。

なるほど、俺の推理に否定的な部員がいるわけだ。彼らは"血涙のヴィーナス"に対し、恐れ以上の魅力を感じていた。だから"祟り"を全否定されて、創作意欲に水を差されるのを嫌ったのだろう。

そんなこととはつゆ知らず、夢のない推理を披露してしまって申し訳ない。……それにしても、"祟り"さえ創作意欲の原動力としてしまう彼らの芸術家魂は"血涙のヴィーナス"の怪談よりもよっぽど怖いかもしれなかった。


「じゃ、じゃあ俺はこんなところで。お騒がせしてすみませんでした。ほら行くぞ隠神」


じんわりと居づらくなって、俺は隠神の手を引いて美術室を出た。何メートルか廊下を歩いてから、くるりと隠神に向き直る。


「どうだ隠神。破壊なんてしなくても、怪談は否定できるってことがわかったか」

「ふむ。勉強になりました。疑わしきはぶっ壊すのが一番早いと思ってたんですが、こういう戦い方もあるんですね」

「それがわかったら二度と学校の備品を壊したりするなよ」

「……私が百鬼椰行にまつわるものを片っ端から破壊して、和泉ちゃんが片っ端から解明していけば、より効率的じゃないですか? そしたら二倍速で百鬼椰行を根絶やしにできますよ?」

「いや、その理屈はおかしい」


オカルトと向き合うための手本を示せれば……と思って"血涙のヴィーナス"を解いてみせたのだが。残念ながら隠神にはまったく響いていなかったらしい。

このまま放置すると、隠神は本当に校舎あらゆる箇所を破壊して回るだろう。それなりに長い付き合いだからわかるのだ。この女は、やると言ったらどんなに無茶なことでもやる。百鬼椰行を根絶やしにするという宣言は、すなわち椰子木高校の終わりを意味するのだ。


「そういえば校長先生のカツラに悪霊が憑りついているっていう噂があるらしいですねぇ……いっちょ全力でブッ叩いてみますか」


隠神はふんすふんすと鼻息を荒くして歩み出した。俺は全力で隠神の足元に縋りつく。けれど、そのヘラジカのような脚力は到底俺の力で止められるものではなかった。

校長先生逃げて。全力で逃げて。今、アナタの脳天が空前の危機に晒されています。命が惜しくばカツラを脱ぎ捨てて全力で逃げてください。俺はズリズリと引きずられながら、なんとか隠神を止めようと叫ぶ。


「いぬがみぃぃぃ!! ストォォォップ!! 頼むから止まれぇぇぇ!!」

「どうして止めるんですか。オバケが嫌いなのは和泉ちゃんも一緒でしょうに」

「お前みたいなパワードゴリラに殴られたら、校長先生が新しいオバケになっちゃうだろうが!」

「うら若き乙女にパワードゴリラとは随分ですね。和泉ちゃんから先にオバケにしてあげましょうか」


それでもなお食い下がる。一階に降りる階段の手前まで引きずられたところで、隠神はひとつため息をついて歩みを止めた。

隠神の足に引っ張られていただけなのに、俺の呼吸はぜぇぜぇと鳴っている。一方、人間一人を足にぶら下げて歩いていた隠神は涼しい顔だ。同じ生物とは思えないほどの生命力の差を感じる。こっちは立ち上がる気も起きないほど体力を削られたっていうのに。


「もー。わかりましたよ。校長先生のカツラの件は和泉ちゃんにお任せします」

「お任せされても困るんだが……まぁ、落ち着いてくれてよかった」


隠神は「はーあ。せっかくオバケ退治してあげようと思ったのに」と呟いた。今日の隠神はどこか変だ。いや、こいつが変なのはいつものことなのだけれど。今日はいつにも増して変だったのだ。

俺の知る隠神伊予という人間は、これっぽっちもオカルトに興味をもっていなかった。好きとか嫌いとか怖いとか、そういう話以前に「興味がない」のである。だから今まで、彼女の口から百鬼椰行の話題が出たことなんて一度もない。

それなのに今日、隠神は突如「オバケ嫌い」を宣言し、美術室に乱入して"血涙のヴィーナス"という百鬼椰行に関わろうとした。方法こそ間違っていたが、隠神なりに百鬼椰行を解決しようとしたのである。一体どんな風の吹き回しなのだろうか。


「……どうして急に百鬼椰行を潰そうなんて思ったんだ? お前、オカルトなんか興味なかっただろ」

「興味はないんですが、どうにも腹が立ってきましてね。とにかく私、その百鬼椰行ってやつを根絶やしにするって決めたんです」

「勘弁してくれ。さっきも言ったが、お前のやり方じゃ百鬼椰行より先に学校がなくなる」


隠神は俺の制服の後襟を掴み、まるで猫でも持ち上げるみたいに俺をひょいっと立たせた。そして俺の顔を覗き込み、にやりと薄笑いを浮かべている。


「……なんだよ」

「いえね、もしも誰かが百鬼椰行を解明してくれたら、私が暴れる必要はないのになぁー、って思いまして」


俺はそのまま壁際に追い込まれ、隠神はその巨体で圧をかけてきた。

あえてロマンティックに言うなら「壁ドン」というやつだが、登場人物が俺と隠神では恐喝現場にしか見えるまい。圧倒的体格差の隠神に迫られると、壁そのものが迫ってきているような威容を感じる。


「ねぇ和泉ちゃん。百鬼椰行、邪魔だと思いません? より良い学園づくりのために」

「学校中の備品を破壊しようって奴とどっちが厄介だろうな」

「さて、どっちでしょう。けれど百鬼椰行を解けば、私が暴れるのも防げて、お得ですよねぇ」


誘導を超えて、もはや脅迫である。自分の代わりに百鬼椰行を根絶やしにしろ、と隠神はそう言いたいのだ。

俺が百鬼椰行の解明のために動けば、隠神は学校の備品には手を出さない。つまり我が青春の妨げとなる百鬼椰行を排除しつつ、隠神の暴走を止めることもできるわけだ。……なんて言うと、まるで一石二鳥に聞こえるが。

実際は俺の負担が大きすぎる。これのどこがお得だというのだ。ようは百鬼椰行と隠神、二つの問題を同時に抱え込めということではないか。正直に言おう。まっっったくもって、乗り気しない。けれども……


「……はぁ。わかった。やるよ」

「聞き分けがいい子は好きですよ」


隠神はニコニコとして、俺の頭を撫でたくる。髪がボサボサになるからやめてほしい。

俺はオバケが大嫌いだ。ゆえに、百鬼椰行の調査なんか本当は絶対にしたくない。しかし椰子木高校の生徒会長として、この問題を看過できないという気持ちもあった。

今まで見て見ぬフリをし続けてきたツケがきたのだ。これも百鬼椰行と向き合うよい機会なのだと思うことにしよう。


「お前に乗せられるのは癪だが、やってやろうじゃないか。百鬼椰行の解明」

「おー。さすがは生徒会長。頼りになりますねぇ」

「ただし、お前にも手伝ってもらうからな。隠神"副会長"」


隠神は「もちろんです」と胸を張った。"椰子木の怪物"、"学校一の問題児"、"暴走族を蹴散らす女"。その悪名は数知れないが、彼女にはもう一つの顔があった。

椰子木高校"生徒会副会長"隠神伊予。そう、彼女は生徒会における俺のサポート役なのだ。……まぁ実際にはサポートどころか、新たな問題を次々に生み出してくれるトラブルメーカーであったが。


「二人で力を合わせて、よりよい学園づくりをしていきましょうね。和泉ちゃん?」


かくして俺たち椰子木高校生徒会は、百鬼椰行の根絶に向けて動き出した。

隠神による"血涙のヴィーナス"破壊未遂事件から始まった調査の日々は、やがて"ユウレイラジオ"の終焉と再生に繋がっていく。

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