アオイさんのノート ——その6
翌日、午前七時前。部活動の朝練もない日曜とあって、椰子木高校はひっそりと静まり返っていた。ぶううん、と遠くでバイクが走り抜ける音がやけに大きく聞こえる。
正門はチェーンと南京錠で施錠されたままだが、その脇の通用門は開いていた。当直の先生が開けたのだろう。早朝のひんやりとした空気の中、俺たちは校内に足を踏み入れた。
「あれェ? 白蔵……と、隠神? どうしたのキミら、休日だってのにこんな朝早くからさァ」
今日の当直はユーラ・レイバーン先生だった。空気を入れ替えようと校舎の窓を開けて回っていた彼を見つけ、俺は「レイバーン先生に会いにきました」と伝える。
隠神は黙ってレイバーン先生を睨みつけていた。俺が話すから余計なことは言うな、とあらかじめ言い含めておいたのだが、その瞳には明らかに怒りの色が滲んでいる。
しかしこれだけ露骨に敵意を向けられれば、レイバーン先生にも不穏な空気は伝わってしまう。彼は明らかに警戒しながら「オレに用事?」と眉を顰めた。
「先生が一番恐ろしいと言っていた百鬼椰行……"アオイさんのノート"の件で」
そう告げると、レイバーン先生はピクリと反応した。怖がっている、というよりも不愉快そうな表情だった。
「……まァ、キミらの用事っていったらソレだろうねェ。それで?」
「結論から言います。"アオイさんのノート"にまつわる悪い噂はデタラメです。呪いなんて存在しません」
レイバーン先生は表情も崩さず、「ふゥん? なにを根拠に?」と返してきた。想定内だ。彼はきっと、決定的な証拠を突きつけるまで納得してはくれないだろう。
しかしあるのだ。こちらにはその"決定的な証拠"というやつが。俺はリュックから"アオイさんのノート"の実物を取り出してみせた。表紙にサインペンで「伊江尾 葵」と書かれた、あのノートを。
「なッ……」
ノートを見せた瞬間、レイバーン先生は明らかに動揺した。瞠目し、唖然とし、凍りついている。
「な、なんで、それを、キミが持ってる……!?」
「生徒会活動の一環で中庭の整備をしていたら"偶然にも"タイムカプセルを掘り当ててしまいまして。持ち上げようとしたら"計らずも"蓋が取れてしまい、"たまたま"このノートが入っていたんです」
もちろん建前だ。信じてもらえるわけもない。叱られるのを覚悟で言ったのだが、レイバーン先生はどうも説教どころではなさそうだった。
彼は目を泳がせ、じりじりと後退していく。"アオイさんのノート"が一番怖い、という話は本当だったらしい。いつも自若としているレイバーン先生がこうも動じた姿は初めて見る。
「怖がる必要なんてありませんよ。言いましたよね、このノートに呪いなんてかかっていません」
"アオイさんのノート"の呪いは中庭に立ち入るだけでも発生する、と百鬼椰行では論じられていた。無論、ノートそのものを掘り返したり、素手で触るなんて以ての外だ。
ところがそのタブーを犯した俺たちが怪我に見舞われることはなかった。呪いの条件を満たしてもなお健在の俺と隠神こそ、呪いが存在し得ない証拠。隠神の狙い通り、俺たちは"アオイさんのノート"を掘り出すという荒療治によって、その呪いの存在を完全否定してみせたのである。
「それでも……レイバーン先生は、このノートが怖いですか?」
「怖い」
「どうして」
開け放った窓から、じぃわ、じぃわ、と春蝉の鳴き声が空っぽの校舎に流れ込んでくる。その大合唱に掻き消されそうなほど小さな声で、レイバーン先生は呟いた。
「怖いんだ。そのノートの内容を知るのが」
「呪いではなく、内容が怖いんですか?」
レイバーン先生は額に汗を滲ませ、震える声で「そうだ」と答えた。
百鬼椰行によれば、伊江尾 葵はこのノートにびっしりと恨み辛みを書き残していたのだという。
「レイバーン先生は、伊江尾 葵さんと面識が?」
「あァ……アオイのことはよく知ってる。底抜けに明るくて、イイ奴だった」
それを聞いて、隠神がギッと歯をくいしばった。相当、苛ついているようだ。
「『イイ奴だった』? どの口が言ってんだよ」
隠神はそう吐き捨てた。怒りに囚われ、いつもの真面目ぶった口調が剥がれ落ちてしまっている。
「待てって隠神」
「和泉ちゃんは黙っててよ」
俺の制止もきかず、隠神はレイバーン先生に詰め寄った。
「先生はさ……伊江尾さんが学校に呪いをかけた、なんて馬鹿げたウワサを信じてるんでしょ? 口では『イイ奴だった』なんて言って、本心では他人に呪いをかけるような陰湿野郎だと思ってたくせに」
「隠神、それは、違う。オレはなァ……そのノートに書かれている内容が怖くて」
「同じことだよ! アンタは伊江尾さんを信じられなかったんだ!」
「……違う」
「なら、どうして信じてやらないんだよ!」
「…………」
「伊江尾 葵は人様に呪いをかけるような奴じゃないって! アンタが信じてりゃ、こんな与太話に怯える必要はなかったのに!」
隠神は俺の手から伊江尾 葵のノートをひったくって、最後のページをレイバーン先生の眼前に突き付けた。
「これのどこが恨み事だ! こんなものの何が呪いだ! 根も葉もない噂で人を馬鹿にするのも大概にしろ!!」
恨み辛みで黒く塗りつぶされたようになっている、と噂されていた伊江尾 葵のノート。しかし事実は異なっていた。
中身はただの日記で、2006年当時の椰子木高校の日常が生き生きと記されている。そしてノートの最終ページには、ただ一言。伊江尾 葵のものと思しき筆跡でこうあったのだ。
――椰子木高校が世界で一番楽しい学校であり続けますように!
伊江尾 葵がどのような想いでそれを書いたのか、今となっては誰にもわからない。
でもきっと、そこには母校への怨嗟など欠片も込められていない。カラッとしたその一文は、底抜けに明るくてイイ奴だった、という伊江尾 葵の人物像をそのまま物語っているような気がした。
レイバーン先生はゆっくりとノートを受け取り、しばらく無言でその短いメッセージを読んでいた。
やがてレイバーン先生の目が潤み、ノートにぼたぼたと大粒の涙が零れ落ちる。
「あァ……あァ……そうだよな、アオイ……お前、学校好きだったもんなァ……お前が恨み言なんて、書き残すわけないよなァ……! 信じてやれなくて……ごめんなァ……!」
伊江尾 葵のノートを胸に抱えて、レイバーン先生はその場に座り込んだ。堰を切ったように涙を流し。何度も、何度も、謝罪の言葉を口にしながら。
今度は春蝉の声にも掻き消されない声で、レイバーン先生はひとしきり泣いた。それからぬっと立ち上がり、真っ赤な目をして「……少し、歩こうか」と言った。
レイバーン先生を先頭にして、俺たちは閑散とした校舎内を歩く。休日の校舎内はがらんどうで、レイバーン先生の鼻をすする音が反響していた。




