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生者を笑うモノ ——その7

ドア下部についた銀色の換気口から漏れ聞こえてくる醜悪な笑い声。俺は思わず硬直してしまった。怖いのはもちろんだが、予想外のタイミングに思考が停止してしまったのだ。


「和泉ちゃん! カギ!!」


隠神の声でハッと我に返り、慌ててポケットから屋上のカギを取り出す。急いで扉を開けようとした……が、手が震えてしまって上手くカギを挿し込めない。


「なにやってるんですか! 早く開けてくださいよ!」

「ちょちょちょ待っ、急かさないでくれ。手ぇめっちゃ震えてて……見てほら俺の手、マナーモードみたいになってる」

「そんなクソの役にも立たないマナーモード、さっさと解除してくださいよ!」


「あぁもう! 貸してください!」と隠神がカギをひったくり、俺に代わって解錠してくれた。無骨なアルミ製の扉が開き、初夏のむっとしたコンクリートの匂いが流れ込んでくる。

青い空と入道雲。水面に照り付ける太陽の光。およそ怪異などとは無縁そうな夏めいた空間に、奇妙な笑い声は今もこだまし続けていた。


「「「ぎゃはははは、ひひ、ひひひひひ……!」」」


すぐ近くで笑い声がするのに、人の姿はどこにも見当たらない。音が建物に反響するせいで、声の出どころがわからないのも厄介だった。

屋上の設備は25メートルプールが一面。それから壁付けのシャワーと、ビート板などの用具入れ。あとは女子更衣室と水泳部の部室を兼ねたプレハブ小屋がひとつ建っているだけだ。

ここから目視できないのはプレハブ小屋の内部くらいで、その他はだいたい一目で見渡すことができた。けれど、いくら探そうとも笑い声の主が見つからない。


「笑っているのは誰ですか!? ただちに姿を現しなさい!」


無人の屋上プールに隠神が吠える。その瞬間、あれだけ不気味に響いていた笑い声がピタリとやんだ。

隠神はプールサイドをぐるりと一周し、どこかに誰かが隠れていないかを入念にチェックする。しかし結局、なにひとつ見つけられずに隠神は入り口まで戻ってきた。


「あっちに人が隠れられる場所はなさそうです」

「あ、あぁ。そうだな。あと、隠れられそうな場所といえば……」


まだちゃんと調べていないのは、プレハブ小屋の内部くらいだった。

隠神はなんとなく声を小さくして「あの中に隠れているんでしょうか」と言う。どうやって侵入したのかはともかく、たしかにその可能性が最も高そうだった。


「じゃあ悪いが隠神、女子更衣室に人が隠れていないか確認してきてくれるか」

「え? 和泉ちゃんは見にいかないんですか?」

「バカお前っ……それは……アレだろ。俺が女子更衣室を覗くわけにはいかないだろ」

「授業中じゃないんですから問題ないでしょう。たぶん、不良がたむろってるだけですよ」

「いやいやいや……不良の皆さんがお着換え中だったらどうすんだ。女性の不良の皆さんが」

「そんなこと言って、本当は『オバケがいるかも』とか思ってるんじゃないですか?」

「だとしても、女性のオバケがお着替え中だったら大変だろ。だからホラ、確認してきてくださいお願いします」


隠神は「まぁべつにいいんですけどね……」と呆れつつもプレハブ小屋に向かっていった。さすがの貫禄、頼りになる女である。

そもそも屋上の入り口自体が施錠されているためか、プレハブ小屋のカギは開けっ放しになっていた。隠神がドアノブを回すと、ぎぃぃ……と滑りの悪い音を立てながらプレハブ小屋の扉が開く。隠神はすたすたと躊躇なく中に入り、ほんの数秒で外に出てきた。


「……ダメです。誰もいません」


ぞわ、と鳥肌が立つ。隠神に促されて俺もプレハブ小屋を覗き込んでみたが、本当に誰もいなかった。不良生徒のグループがここでたむろしていてくれたら、それで一件落着だったのに。不良に「いてくれ」と願ったのは初めてだ。

女子更衣室兼、水泳部部室。その内部には一クラスの人数分のオープンロッカーと、おそらくは水泳部が置きっぱなしにしている雑多な荷物だけがあった。三面それぞれに窓があるが、ハメ殺しになっているから開きもしない。もちろん裏口などもない。平たく言えば、ここは密室状態だった。


「ここから私たちに気づかれずに脱出するのは難しそうですね」

「難しそう、というか不可能だな。透明人間でもない限りは」

「あ、まさか犯人は透明人間……!? だとしたらすべての辻褄が合います!」

「辻褄と引き換えに常識が崩壊するけどな」


隠神のアホな推理を聞いていたら、ちょっとは気持ちが落ち着いてきた。冷静に考えよう。考えればきっとわかる。だって、オバケなんていないんだから。


「……さっきのが生きた人間の笑い声なら、犯人は俺たちに見つかる前に逃げ出したことになる。でも、ひとつしかない出入口には俺たちが張っていた。つまり『はじめから屋上に人はいなかった』と考えるのが妥当だろう」

「でも、たしかに笑い声は扉の向こう側から聞こえましたよ? 私がこの声を聞いたのは、今回に限った話じゃないですし」

「それは俺も同意見だ。でも……そうだな、例えば『あらかじめ録音した笑い声』が流れていた可能性はないか?」


笑い声を録音したスマホを屋上のどこかに仕込んでおいて、誰かが近づいてきた頃合いを見計らってリモートで再生する。それができれば"生者を笑うモノ"の怪談は成立するだろう。


「録音ですか。でもそんなこと、何のために?」

「あるとすればイタズラ目的かな。まぁ、あくまで例えばの話だ。スマホか音楽プレーヤーでも使えばそういうことができる、ってこと」

「じゃあ、とりあえず探してみますか。笑い声を再生できそうな機器がどこかに隠されていないか」


人が隠れるのは無理でも、スマホ一枚仕込む空間くらいはいくらでもあるはず。

そう信じて屋上をくまなく探し回ってみたが、残念ながらそれらしきものは見つけられなかった。


「あっ、和泉ちゃん! これ見てください!」

「どうした!? なにかあったか!?」

「金魚いますよ! 金魚!」

「生き物じゃなくて録音機器を探してもらっていいかな」


得体の知れない藻が茂ったプールの水の中、オレンジ色の小さな金魚が一匹泳ぎまわっていた。水泳部の誰かがイタズラでここに放したのだろうか。

隠神は女子更衣室に放置されていた空のペットボトルを拝借してきて、「捕まえます!」と制服が濡れるのも気にせずプールに入っていった。水深は隠神のひざ下くらいだったが、長いスカートの裾はびっしょりと濡れている。


「捕まえてどうするんだよ」

「生徒会室で飼いましょうよ。ほら待て、すくすくロボマッチョ三世!」

「もう変な名前つけてる」


転んだら制服が汚れるぞ、と声をかけようとして。俺はひとつの違和感に気がついた。


「なんで……プールが汚いんだ……?」


大量の藻が張ったプール。よく見ると金魚の他にも、水中にはヤゴやボウフラが生息しているらしかった。それが"あり得ないこと"だと、俺はどうして今の今まで気がつかなかった?

無事に金魚を捕まえて戻ってきた隠神が「どうしたんです?」と聞いてきた。頭の中にはひとつの可能性が浮かんでいたが、まだ確信は持てなかった。それに、まだ隠神に話すわけにはいかないと思った。


「いや……なんでもないよ。それより本当に捕まえてきたのか、金魚」

「ええ。この子、どこから来たんでしょうね」

「水泳部の誰かが金魚すくいでとったはいいものの、持て余して逃がされたってとこじゃないか?」

「この子が自力で壁を登ってきた可能性は?」

「んなフィジカルの強い金魚がいたらオバケより怖いわ」


そのとき、隠神が「あっ!」と声をあげた。


「私、わかったかもしれません! 笑い声の犯人はきっと、壁を登ったんですよ!」

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