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壁になった女の子 ——その10

ヴィーナス像の目の落書きを消す過程で、下地のコーティング剤まで削り取ってしまったこと。それが"血涙のヴィーナス"の原因だった。

下地をまったく傷つけずに落書きを消すのは、素人には難しい。昨日のレイバーン先生だって、落書きを消す際に勢いあまって消火栓の塗装まで削ってしまっていた。

一度描いたものを消すと、その下地にも少なからず影響が出る。なら十数年前、描きかけの卒業壁画を消したこの壁にも何らかの影響が残ってしまったのではないか。


「だとしたら"壁になった女の子"の正体は……!」


推測が正しければ、"壁になった女の子"の出現には水が必要になる。

俺は体育館脇の花壇で水やりをしていた園芸部員からホースを借り、出しっぱなしの水を垂れ流しながら体育館裏へと戻った。


「和泉ちゃん、なにかわかったんですか?」

「たぶんな。これから"壁になった女の子"を引きずり出す」


俺はホースの出口を親指で絞り、勢いを増した水を体育館裏の壁にぶっかけた。コンクリートにぶつかった水が、ぱしゃぱしゃと跳ね返されてきらめいている。

先ほどの園芸部の子たちや、体育館付近で朝練していた運動部が、そぞろに周囲へ集まり出した。そんな野次馬たちの中から悲鳴が漏れだしたのは、壁に水をかけ始めてから間もなくのことだった。


「……出た、"壁になった女の子"だ」


水を吸ったコンクリートの一部がじわじわと変色し、壁面に恐ろしげな女の子の顔が浮かび上がってきていた。

ざんばらに乱れたオカッパ頭。顔面に不釣り合いなほど大きな目。醜く歪んだ口から滴る血。不気味な生首がこちらを向いて笑っている。それは間違いなく、昨日目撃した"壁になった女の子"と同じものだった。

ギャラリーからはきゃあきゃあと悲鳴が上がっている。かくいう俺もまだ怖い。"壁になった女の子"の表情には、カラクリがわかっても怯えてしまうほどの迫力があった。


「おお。これが"壁になった女の子"ですか。幻覚じゃなかったんですねぇ」


遠巻きに怯えている女子生徒たちを尻目に、隠神はけろりとして"壁になった女の子"を観察していた。

一見なにもない壁に不気味な形相が浮かび上がるという奇妙な光景を目の当たりにしながら、これっぽっちも怯える様子がない。さすがはうちの専属ボディーガード。頼もしい限りである。


「それで和泉ちゃん、これって結局どういう仕組みなんですか?」

「消された卒業壁画の成れの果て。それが"壁になった女の子"の正体なんだと思う」


ギャラリーもなんとなく俺たちの会話に耳をそばだてているようだった。

ちょうどいい、みんなにも説明しておこう。"壁になった女の子"が怪奇現象ではなく、怖がる必要はないのだということを。


「昔な、ここの壁に卒業壁画を描こうとした美術部員がいたらしいんだ」


こちらの様子を伺っている生徒たちにも伝わるように声を張って、俺はあの"卒業壁画事件"について話した。

かつての椰子木高校には体育館に卒業壁画を残す文化があったこと。体育館の建て替えによって卒業壁画の文化が潰えてしまったこと。その決定に納得できなかった美術部員によって、新しい体育館に無断で卒業壁画が描かれてしまったこと。

順を追って説明していくうち、ギャラリーはじわじわと俺たちを取り囲んで膨らんでいった。


「……でも、その卒業壁画とやらはすぐに消してしまったんでしょう? どうしてそれが"壁になった女の子"に関係しているんですか?」


卒業壁画事件について一通りの説明を終えたところで、隠神がそう尋ねてきた。周りで聞いている生徒たちも、まだ卒業壁画事件と"壁になった女の子"の繋がりにピンときていないようだ。

俺は「消したのが原因なんだよ」と告げ、あらためて壁を指した。近くで見るとコンクリートの壁は全体的に光沢を帯びている。しかしよくよく観察すると、"壁になった女の子"が浮かび上がっている部分だけは質感が違っていた。


「普通、こういう打ちっぱなしのコンクリート壁には撥水材が塗られてるんだよ」

「はっすいざい……って水をはじく?」

「正解。コンクリートも雨水に晒され続けると劣化するから、撥水材で保護するんだ」

「このニスを塗ったような感じになってるのが撥水材ですか?」

「そう。撥水材が塗られている部分は水を弾くけど、塗られてない部分はコンクリートに水が染みるんだ」


もう一度、壁に水をかけてみた。時間経過でぼんやりと薄くなりつつあった"壁になった女の子"の顔が、再び鮮明に浮かび上がってくる。


「こんなふうに、撥水材がない部分は水を吸って色濃くなる。そのコントラストで模様が生じて、人の顔みたいに見えるんだ。だから"壁になった女の子"は、この壁が水に濡れた時だけ出現するんだよ」


昨日の放課後は記録的な大雨だった。体育館裏には庇があるから多少の雨では壁まで濡れないのだが、降水量が多いと裏山に降った雨が擁壁を通ってこちら側に排水される。それが壁に当たってコンクリートに水分を含ませ、"壁になった女の子"を描き出していたのだ。

ただしコンクリートはあっという間に乾くので、雨さえ止めばほんの数十分で"壁になった女の子"は蒸発してしまう。晴れてから探しにきても何も見つからないのはそういうわけだった。


「理屈はわかりましたけど……。この顔、偶然できたにしてはリアルすぎませんか?」

「偶然じゃない。さっきも言ったけど、原因は"卒業壁画"なんだよ。おそらく件の美術部員は、この壁に女の子の絵を描いたんだ。けれど途中で見つかってしまい、描きかけの顔を消すように命じられた」

「あ、なるほど。つまりその女の子の絵を消したから……」

「そう。女の子の絵に沿ってコンクリートの撥水材が剥がれたんだ」


もともと卒業壁画として何年も残すつもりだった絵だ。画材に使われたペンキは、そう簡単に落ちるようなものではない。

シンナーで溶かすなり、ワイヤーブラシでこするなり、ペンキの除去には少なからず壁に負担のかかる方法が用いられたはずだ。

下地を傷つけずにペンキを落とすなんて芸当が普通の高校生にできるはずもなく。壁画の除去作業に伴って、壁に塗られていた撥水剤まで削り取られてしまったわけだ。

ペンキで描かれた絵が消えても、削れた撥水剤がその絵の形状を保存した。普段は目に見えないが、濡れた時だけ現れる撥水剤の軌跡。それが"壁になった女の子"の正体である。


「不気味な笑顔に見えるけど、本来は可愛らしい女の子のデザインだったんだろうな」


昨日はあれだけ恐ろしく見えた女の子の笑顔も、そうした経緯を想像すると見え方が違ってくる。

これはいわば、豪雨の日だけ浮かび上がる卒業壁画。当時の美術部員がこれを狙ってやったのかどうかは知らないが、結果として彼らの作品は今も残り続けている。


「ま、そういうわけだから。もう"壁になった女の子"を恐れる必要はないよ。皆さんもこの話、周りの人に教えてあげてくださいね」


野次馬の反応はまちまちだった。説明を聞いて安堵している者もいれば、半信半疑といった様子の者もいる。数名が「そう言われても、やっぱ怖いよね」「なんか呪われそう……」なんて囁き合っている声も聞こえた。

百鬼椰行のなかでも"壁になった女の子"の知名度は高く、そのぶん信じている生徒が多いと蟷螂坂は言っていた。ずっと恐れてきた怪異がデタラメだったと言われても、急には受け入れられないものなのだろう。


怪異のメカニズムを合理的に説明するだけでは、すべての生徒を納得させることはできない。さて、どうしたものか。

収拾のつけ方に考えを巡らせていると……。どごん! と大きな音が鳴った。野次馬の背筋がピンと張る。何事かと振り返ると、隠神が壁を蹴っていた。

"壁になった女の子"を足蹴にするように、何度も何度も。どごん! がん! ががん! コンクリートがびぃんと揺れるような音と衝撃が繰り返される。その奇行に、野次馬はすっかり引いていた。


「お前はまた急に何をやってるんだ」

「まだ怖がってる方もいるみたいなので、恐怖心を消しておいてあげようかと」

「消えるどころか増してるが? お前への恐怖が追加されてダブルアップチャンス到来なんだが?」


本当に行動の読めないヤツである。隠神はもう四~五発ほど壁に蹴りをくれてから、野次馬のほうに向かい合った。


「もし本当に"壁になった女の子"なんてものがいるなら、私はきっと祟られてしまうでしょうね。逆に言えば、私が元気なら祟りも呪いもなかったって証拠じゃあないですか」


ギャラリーのほとんどがキョトンとしている。

つまり隠神は、怪異にケンカを売ったのだ。"壁になった女の子"のヘイトを自分に向けて、来るなら来いと宣戦布告してみせたのである。


「……ぷっ、あははは! 本当にすごいな、お前。恐れを知らんというか、なんというか……」

「なにを恐れる必要があるんです。和泉ちゃんが言ったんじゃあないですか、オバケなんていないんでしょう?」

「ふふ、そうだな。オバケなんていないさ。寝ぼけた人が見間違えたんだろ、どうせ」


園芸部にホースを返却しようと振り向くと、野次馬はまばらになっていた。

"壁になった女の子"の真相に納得して帰っていったというよりは、怪談よりも隠神のほうが怖い、と再認識して逃げていった生徒のほうが多いのかもしれない。

足元はまだまだ水浸しだが、壁は早くも乾き出していた。一時限目が始まるまでには"壁になった女の子"もすっかり消えてしまうだろう。


「ねぇ、和泉ちゃん。この壁に新しい絵を描きませんか。そしたらもう、"壁になった女の子"が人をおどかすことはなくなるでしょう?」

「先生方に働きかけてみてもいいかもしれないな。卒業壁画の文化を復活できないか、って」

「そのときは是非、モデルになってくださいよ。この壁いっぱいに和泉ちゃんのヌードを描いてあげます」

「お前に描かせるとは言ってない」


この壁が新しい卒業壁画でいっぱいに埋まるころには、"壁になった女の子"の噂も生徒の記憶から消えているだろうか。

まだ見ぬ体育館の未来の姿を想像して、なんとなく明るい気持ちになった。

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― 新着の感想 ―
作品読ませて頂きました。 幽霊の正体を観察によって見抜くお話、完成度の高い物語になってますね。 言葉の使い方や、登場人物の台詞回し、言動などもとても面白く自然と笑いが零れます。 この先の百鬼椰行に、ど…
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