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壁になった女の子 ——その9

「どうして昨日、私から逃げたんです? 可愛すぎてビックリした、とかですか?」


"壁になった女の子"を目撃してから一夜明け。朝の六時半から自宅に押し掛けてきた隠神は、鍵を渡しながら文句を言ってきた。

そこで俺はようやく、昨日の「みつけた」が隠神の声だったと気づいたのだ。あの時もう数秒だけ逃げずに堪えていれば、恐怖で眠れない一夜を過ごさずに済んだかもしれないのに。

ともあれ落とし物を回収してくれた礼と、勘違いで逃げてしまったことの謝罪をしてから、俺は昨日の一件について隠神に説明した。声と足音は早とちりだとしても、体育館裏の壁に不気味な顔が浮かび上がっていたことは別の問題だ。


「私は気づきませんでしたけどねぇ。本当に見たんですか?」

「見たんだって! 隠神は本当に何も気づかなかったのか!?」

「私は『うひゃぁぁぁぁ!』と泣き叫びながら走り去る面白生徒会長を見るのに夢中だったので……」

「ぐぅ……! ホント最悪なヤツに最悪なところを見られた……」


我が家の玄関先で話していると、背後から「あら!?」と甲高い声が聞こえてきた。まずい、母さんに気づかれた。


「あらあらあら! 伊予ちゃんじゃない。まぁた綺麗になって!」

「ごきげんよう、おば様。おっしゃる通り、我ながら美しさがとどまるところを知りません」


うちの母親はやたらと隠神を気に入っている。今日のように隠神が家を訪れることがあると、ここぞとばかりに干渉してくるのだ。

母親と同級生が話し込む時間はいつだってむずがゆい。この面倒なイベントをさっさと切り上げるべく、俺は二階の自室に戻ってぱぱっと制服に着替えた。時間はいつもよりだいぶ早いが、このまま登校してしまおう。

準備を済ませて一階に降りると、隠神はリビングに通されていた。「息子のエロ本の隠し場所についての考察」という最悪のトークテーマを展開する母親を引き剥がし、俺は隠神と連れ立って早朝の通学路へと繰り出した。


「もう少しおば様とお話したかったです。せっかく白熱した議論を展開していたところなんですよ?」

「ったく、うち来るたびに母さんと変な話しやがって……だいたいお前、最近の変な喋り方はなんなんだ。前はそんな感じじゃなかっただろ」

「前に和泉ちゃんが『もっと真面目に生きろ』って言ったから、それっぽくしてあげてるんじゃないですか」

「口調だけ真面目風になってもな」

「形から入るタイプなんですよ、私は」


昨晩とはうってかわって本日晴天。この時間では珍しいほどに日差しが鋭く、通学路のアスファルトが早くも乾きだしている。

陽の明るさが昨日の恐怖体験を少なからず和らげてくれた。じりじりと照り付ける太陽光が、今は強力な味方のように感じられる。


「それで、"壁になった女の子"の件は解決できそうなんですか?」

「まだなんとも言えないが、体育館裏の壁に顔が浮かび上がる現象はたしかに観測できた。一歩前進、と思いたいな」

「じゃ、あらためて見に行ってみます? 体育館裏に」


思わず「え゛?」と聞き返してしまった。実際、"壁になった女の子"の謎を解くにはもう一度あの場所を訪れる他ないだろう。だが、昨日の今日で体育館裏に足を運ぶのは非常に気が進まなかった。

けれども放課後の薄暗い時間に再訪するよりは、明るいうちのほうが心理的な負担は軽いかもしれない。今なら隠神というボディーガードもいるわけだし……。


「……行くか」


そうして、午前七時を少し過ぎた頃には学校に着いた。すでに正門は開放されていて、朝練の部活生がちらほら歩いている。とはいえ、スニーカーで砂利を踏みしめる音が響くほどに校内は静かだった。

正門をくぐり、教室棟を抜ければ、そこが体育館だ。見慣れた風景なのに、今日は体育館が視界に入るだけでぞくっとした。霊的な何かを感じたとかでは、断じてない。単に、昨日の出来事がトラウマになっているのだ。

俺は隠神を文字通り"盾"にして隠れ、その背中に先導されながら体育館裏へと向かった。


「どうだ隠神!? "壁になった女の子"はいるか!?」

「自分で確認すればいいじゃないですか。いつまで私の背中ばっかり見てるんです」

「馬ッッ鹿お前! 怖いからに決まってんだろ! 何のためにお前を連れてきたと思ってんだ! ホラ確認して! そこんとこの壁に女の子の顔が浮かび上がってるのか、いないのか!」

「まぁ、構いませんけど。和泉ちゃんがその女の子の顔を見たのって、このあたりでいいんですよね? じゃあ……」

「ちょ待っ! アレだぞ!? 結果はなるべく怖くない感じで伝えてくれよ!? 三歳児に語り掛けるようなスタンスでな! オブラートに包みまくれ! いいな!?」

「たいそう偉そうな怯え方ですねぇ」


みっともないのは百も承知だが、怖いもんは怖いんだから仕方ない。

俺からすればむしろ、爆弾級のトラウマを抱えながらこの場所に戻ってきたガッツを大いに評価してもらいたいくらいである。


「心配しなくても、顔なんてどこにも浮かび上がってないでちゅよ。三歳児ちゃん」

「……え、うそ。いない?」


恐る恐る、隠神の背後から顔を出す。場所はたしかに、昨日"壁になった女の子"を目撃したポイントで合っていた。

しかしそこにはまっさらなコンクリートの壁があるだけで、不気味な顔なんてどこにもない。あれだけ恐ろしげに浮かび上がっていた生首の影はきれいさっぱり消え失せていた。


「そんな馬鹿な……たしかにこの辺で見たのに」

「ビビりすぎて幻覚が見えたんじゃないでちゅか? ほぅ~ら、いないいな~い……ばぁ~!」

「ごめん、俺が悪かったから三歳児扱いはもうやめて」


少し離れてみたり、角度を変えてみたり。いろんな方法で壁を眺めてみたが、やはり結果は同じだった。どこからどう見たって、ただの壁だ。


「今日はお休みなんじゃないですか。オバケも週休二日制の時代ですよ」

「逆に言うとオバケも週五で働いてるのか。オバケにゃ学校も試験も何にもないって時代は終わったんだな、世知辛い」

「というのは冗談として。"壁になった女の子"には何か出現条件みたいなものがあるんじゃないですか? 伝説の剣が必要とか、パスワードを入力しなくちゃいけないとか」


「ゲームじゃないんだから」と返したものの、なかなか面白い着眼点ではあった。

"壁になった女の子"はある種の条件を満たした時だけ出現する? だとすると昨日は達成されていて、今日は未達成の条件とは一体なんだ?


「昨日と今日の違いは時間帯……あとは、天気か?」

「雨が降っているときだけ現れるってことですか? RPGの敵キャラにもそういうのいますよねぇ」

「隠神、ゲームなんかするのか」

「そりゃあしますとも。この現代、ゲームは紳士熟女のたしなみですから」

「紳士淑女な。にしても意外だ」

「和泉ちゃんが私をどう思っているのか知りませんが、これでもオタク文化には精通してるんですよ。絵だって描けます」


俺が「へぇ、すごいな」と素直に感嘆したところ、隠神はここぞとばかりに「そうでしょう!」と胸を張った。


「せっかくだから描いて見せてあげますよ。ラッカースプレーとかありませんか?」

「画材のチョイス。どこに描くつもりだ」

「ここにまっさらなキャンバスがあるじゃないですか」

「壁と書いてキャンバスと読むな」


昨日、レイバーン先生と一緒に落書きを消したことを思い出す。

油性ペンの落書きだって一苦労だったのに、スプレーなんかで描かれたらたまったものではない。


「落書きするほうは気楽なもんだけどな、消すほうは苦労するんだぞ。塗料ってなかなか落ちないんだからな」

「最悪、コンクリごと削り落とせばいけますって」

「下地へのダメージが深刻すぎるだろ」


壁に絵を描くといえば、無断で卒業壁画を制作しようとした先輩方の話があった。

彼らが描いた壁画は、一体どうやって消されたのだろう。画材にはペンキを使っていたそうだから、落とすのはそう簡単ではなかったはずだけど。

そんなことに考えを巡らせているうちに、「あ」と声が出た。卒業壁画。壁になった女の子。頭の中でいくつかの点が繋がっていく。そしてもうひとつ……ここで思い出したのは、先日の"血涙のヴィーナス"の一件だった。


「もしかして……卒業壁画の消し方が問題だったのか……?」

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