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壁になった女の子 ——その8

生徒会室へ走る間にも、雨は無情に強くなっていく。ようやく学生カバンを回収した頃、外はすっかり土砂降りになっていた。まだ日没には少し早い時間だが、青黒い闇が空を覆っている。

「どうやって帰ろう」と独り言ち、なにげなくズボンの右ポケットに手を入れる。空っぽの感触。そこにあるはずのものがなく、血の気がさーっと引いていった。


「あれ!? 鍵がない!」


右ポケットに入れておいたはずの、自宅の鍵が消えていた。

よくよく中身を探ってみると、人差し指が布を突き抜けて太ももに触れた。どうやらポケットの底に穴が開いていたようだ。


「うーわ、最悪……一体どこに落としたんだ……?」


とりあえず来た道を戻りながら探すしかない。生徒会室のあるB棟三階から、先ほどレイバーン先生と一緒に落書き消しをしたA棟一階まで、地面に注意を向けながらそろそろと歩いて戻る。

突然の豪雨にみな慌てて帰ってしまったのか、その間に誰かとすれ違うことはなかった。人の気配がしない。不自然なまでに白く光る天井の電燈が、誰もいない廊下をじっと照らしている。ざあざあと雨音は響いているのに、耳鳴りがするほど静かだった。


先ほどの消火栓のところまで戻ってきてみたが、残念ながらカギはどこにも落ちていなかった。あと、今日行った場所といえば……体育館裏だ。

ここから体育館裏までは、ほんの一分とかからない。外は相変わらずの豪雨だが、庇のある壁伝いに行けば濡れるのも最小限に抑えられるだろう。しかし。


「一人であんなとこ行きたくないなぁ……」


体育館裏。すなわち"壁になった女の子"の出現ポイントだ。

レイバーン先生の証言のおかげで"壁になった女の子"の信憑性は著しく下がったが……。こんな薄暗い中、あんな辛気臭い場所に一人で行くのがそもそも嫌だった。


「ま、まぁ、アレだ。鍵が落ちてないか見るだけだから。サッと見て、サッと通り過ぎればいいわけで」


あえて口に出して、自分に言い聞かせた。これしきで挫けていては、すべての百鬼椰行の解明なんて夢のまた夢だ。きっとこの先、一人で恐怖に立ち向かわなければならない局面はいくらでもくる。

俺は「よし」と一声出して、一大決心のもと外へ出た。体育館に最も近いA棟一階から抜けて、なるべく屋根や庇の下を通るように体育館裏へと近づいていく。

壁伝いに歩けばさほど濡れないだろうという目算は外れた。ごうごうと唸る強風が雨粒を纏い、洗車機のように壁を打ち付けていたからだ。ものの数十秒で俺の全身は水浸しになり、濡れずに歩こうという考えまですっかり洗い流されてしまった。


「やっと着い……え?」


濡れ鼠になりながらもなんとか辿り着いた体育館裏には、とんでもない光景が広がっていた。

山側の擁壁から大量の雨水が流れ出し、幾本もの滝となって体育館裏に降り注いでいたのである。排水溝はとっくにキャパオーバーを起こし、通路には雨水の川が流れていた。

さて、どうしよう。薄暗い上に足元は大洪水。水の中を手探りするなんて御免だ。そもそもこんな場所に落としたのだとすれば、鍵はとっくに排水溝へ押し流されているかもしれなかった。


「……母さんが帰ってくるまで玄関で待つしかないか」


俺は早々に鍵探しをあきらめ、ざぶざぶと水をかき分けながら教室棟に戻ろうとした。視界の端に何かが映ったのは、その時だった。

ほんの一瞬だけ見えた壁に、何かがいたような気がする。雨で体温は下がりきっているはずなのに、ぶわっ、と全身に汗をかいたのがわかった。

きっと勘違いだ。先入観からくる思い込みだ。自分にそう言い聞かせていなければ、おかしくなってしまいそうだった。だって一瞬だけ見えたそれが、不気味な笑顔を浮かべていたような気がしたから。


……"壁になった女の子"? いやいや、あり得ない。ついさっき、みんなで確認したばかりじゃないか。

体育館裏の壁には何の変哲もなかった。きっと今もそうだ。壁に女の子の顔が浮かび上がるなんてことはあり得ない。俺の横には、今もまっさらなコンクリートがあるだけだ。

冷静さを保とうと、必死で考えを巡らせる。しかしその間にも、何かに見られているような悪寒を感じていた。頭が痛い。足が動かない。すべては恐怖心からくる思い込みだ。それはわかっているのに、体がうまく動いてくれなかった。

いっそ、思い切って壁を直視してみようか。大丈夫、何も問題はないはずだ。ほんのちょっと勇気を出すだけ。あぁ、やっぱり何もなかった、怖がりすぎだった、と胸をなでおろせる。よし、見よう。さっさと見て、気分よく帰宅しよう。

何度も何度も自分に言い聞かせて、俺はとうとう決心した。は、は、は、と短く息を吐いて、思いきりよく壁に視線を向ける。


そして、"それ"と目が合った。


「ひっ」


真っ黒な目をした女の子が、壁の中からこちらを見て笑っていた。

パレイドリア効果? 壁のシミがそれっぽく見えただけ? これが? そんな馬鹿な。第一、人の顔そっくりのシミなんてさっきまでなかったじゃないか。

ざんばらに乱れたオカッパ頭。顔面に不釣り合いなほど大きな目。醜く歪んだ口からは、血が滴っている。壁に浮かび上がっているのは、そんな不気味な生首だった。とてもじゃないが、偶然できた壁の汚れだとは思えない。


ぱしゃ、ぱしゃ。


ふいに、背後から水を蹴る音が聞こえた。誰かがこちらに近づいてきているのだ。

雨脚はさらに強まり、数メートル先も見えないほどに暗い。どうしても嫌な想像をしてしまう。ほとんどの生徒が帰宅したはずのこの時間、土砂降りの中を近づいてくる"誰か"は果たして生きた人間なのだろうか、と。


――もしも一人で体育館裏を通るときは必ず目を伏せてくださいね? "壁になった女の子"と目が合った人は、壁の中に引きずり込まれてしまいますから。


蟷螂坂の言葉が頭をよぎる。

いやいやいや、そんな。ねぇ? あり得ないでしょ。あり得ない……よね?


ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃ。


水たまりを踏む音が鮮明になっていく。"誰か"は明らかにこちらに近づいてきていた。足音の主はもう、曲がり角のすぐそこにいる。

大丈夫、きっと見回りの先生か、居残っていた生徒だ。そう思いながらも、心臓はばくばくと音を立てていた。向こうから"壁になった女の子"が現れるのではないか。そんな疑念が頭にこびりついて離れないのだ。


ぱしゃ、ぱしゃ、ぱしゃぱしゃぱしゃぱしゃ。


足音がどんどん近くなる。俺の精神状態も限界に近づいていた。

目の前には不気味な顔が浮かび上がった壁、曲がり角からは謎の足音。そして――


「みつけた」


女性の声でそう聞こえた瞬間、俺は弾けたように走り出した。

「っうわぁぁぁあぁあぁ!!」と絶叫して豪雨の中を駆け抜ける。俺はパニック状態で学校を飛び出し、そのままの勢いで帰途についたのだった。


「和泉ちゃーん……って、あれ? なんで逃げるんですか」


情けない絶叫と共に走り去っていく俺の背中を見やり、不機嫌そうに呟いたのは隠神だった。

生徒会室の近くに落ちていた俺の家の鍵を、隠神が拾ってわざわざ届けに来てくれていたのだと知るのはこの翌日のことである。

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