第一夜
これは、私が見た夢の話です。
猿夢、という話がある。
掲示板で有名になった都市伝説の一つだ。
夢の中で、遊園地のアトラクションにある猿の電車に乗ってしまうと恐ろしい目に遭う話だ。
僕が見た猿が出てくる夢はそれとは毛色の違うものだった。
夏休みのうちの一週間を、僕は母方の実家に泊まっていた。
叔母さんの息子、つまり従兄弟の耀くんとは、よく気が合った。叔母さんは実家に住んでこそ居ないものの、近くの家に嫁いだとのことで、実家と同じ校区内に住んでいた。
その日も彼と、その友達と一緒に、ちょっとした山の上にある広場で遊んでいた。たった6人でのフットサル。3on3での対決は思っていた以上に盛り上がっていた。
「げっ」
ヨウ君の友達、昭夫が蹴ったボールが大きく逸れて飛んでいく。ボールは道路を横断して、その先の山肌を転がっていった。道路の向こう側は竹藪になっていて、10mほどの坂の先は少し平たくなっていてそこにボールは止まっていた。
「あちゃー、ご、ご、ごめんね」
昭夫はなんと言うか時折変な挙動をするし、よくどもる。今になって思えば軽度の知的障害だったんだと思う。
でも、田舎の子供たちの中では「どんくさい奴」くらいの印象で割と輪の中に溶け込んでいた。
「おい、お前ら拾いに行けよ」
敵チームの面々がそう言った。
まあ、蹴飛ばしてしまったのは昭夫だし、一人で行かせるのも気が引けたので3人で行くことにした。
「や、ヤバいって。森に入ると、い、い、犬になるって」
昭夫だけは嫌そうにしていたが、蹴り飛ばした張本人なので無理やり連れていくことにした。
どうせ親に山に入るなと厳重注意を受けているか、斜面で転ぶのが怖いかでビビっているだけだ。
斜面は確かに急だが、生えている竹をつかみながら気をつけて降りれば、行けないないことは無い。
ヨウ君が先頭を、その後を追うように昭夫が、その後ろを僕が着いて行った。
「よし、拾えた。戻ろうか」
ヨウくんはすいすいと進んでボールを拾い上げると、来た道を戻ろうとした。
「わ、わっ、さ、さる、猿」
昭夫がヨウ君の後ろを指さす。
「え、猿?」
ヨウ君も振り向いた。
その山に猿が出るなど聞いたこともない。
でも僕だけは、ヨウ君たちと知り合う前、初めて母の帰省に付き合った日を思い出していた。
「は、早く戻ろう!」
僕は思わず声を荒らげる。
あの日、納骨堂でお参りをしている母の目を盗んで森に入った僕は同じように猿に出会ったことがある。
あの時は確か――
「霧……?」
ヨウ君が訝しげな声を上げる。
先程までの晴天が嘘のように、数メートル先も見えない霧に包まれていた。山の天気は変わりやすいとはいえ、さすがに異常だ。
「キィッ! キィッ! キィーッ!」
甲高い声で猿が鳴く。一匹だったはずの猿が気付けば10匹近くになっていた。彼らは小猿と言っていいほど体が小さく、丸まったらサッカーボールより小さいだろう。
「ヒィッ!」
昭夫が悲鳴を上げる。
彼の足元を見ると、小猿が一匹、石で頭を潰されていた。
昭夫がやったんじゃない。僕はそれを経験したことがある。
「キィーーーッ!」
しかし、小猿たちはそれに激昂したのか、わらわらとこちらに向かって走り出していた。
「逃げよう!」
ヨウ君がサッカーボールを捨てて、走り出した。
僕たちも脇目も振らずそれに続いた。
そうだ、あの時もこうやって逃げた。そして、森を駆けて駆けて、抜けた時、気付けばお母さんに抱きしめられていたんだ。
だから、きっと。
「ここ、どこ?」
斜面を必死に駆け上がった先には、公園もアスファルトの舗装された道路もなかった。眼前に道はあるが、踏み固められた土の道で、その先には茂みが広がっている。
ヨウ君も昭夫も呆然と立ち尽くしていた。
小猿達は追ってきていない。
「ど、ど、どうする?」
昭夫の問いに僕は答える術を持たなかった。
「とりあえず、山を降りよう。こっちが下り坂になってるから、そのうち麓に出る」
ヨウ君は少し声を震わせながらも、左を指さして言った。僕らはただ頷いて、三人で歩き出した。
その山道は元の道と同じで、そう高くはないところにあったらしい。十数分歩けば、霧は晴れ、麓が見えてきた。
しかし、元はそれなりの住宅街やコンビニがあったはずの景色は様変わりし、地平線まで広がる水田と、歩いている道の先にある小さな集落のような家の集まりが見えるだけだった。
それでも僕らは建造物を見つけて少しほっとしていた。
集落にたどり着くと、一番手前の家を訪ねようということになった。
少し、古いが一般的な造りの平屋だ。
玄関の引き戸が磨りガラスと細木の格子を嵌めたものになっている。瓦屋根の木造で昭和の家、という風貌だった。
「ごめんくださーい」
僕が軒先で叫んでみるが、返事は無い。
「ごめんくださーい」
少し気が引けたが、引き戸を拳で叩いてみる。ガシャガシャというのに近い音がしたが、それでも返事は無かった。
「すいまむぐっ」
突然、僕の口をヨウ君が塞いだ。
振り向くと彼がゆっくりと首を振っている。そして、すっと上げた右腕の先、玄関の横を見た。
柳田敏夫と木彫りされた表札が掛かっている。
その下、本来なら「セールスお断り」などの張り紙がある所にそれはあった。
白い横長の長方形の紙に、縁から1cmほど空けて赤い枠線が描かれている。その赤枠の中には「すみませんお断り」と筆で書かれていた。そして、もう一枚「要らない物はいらない」とも。
「ひっ」
それを見た瞬間、磨りガラスの向こうに人影が現れた。
「うぉぉぉああ! 置いていけ! 出たいなら置いていけ! うぉぉぉああ!」
ガラスの向こうの人影が吠える。
ガラスに張り付いて、バンバンとその手の平で引き戸を叩きながら。
「置いていけ! 置いていけぇぇ!!」
僕らは逃げ出した。人影は引き戸を叩くばかりで追っては来なかった。
昭和の雰囲気を残す家々はどこも同じような張り紙がされていた。「土足厳禁」「不要物お断り」「返せ」「開放厳禁」といった様々な張り紙が掲げられていた。
「ね、ねえ、あ、あそこ」
昭夫が指さした先、そのには場違いにも、僕らが何度も見たことがあるドラッグストアがあった。
「ぼ、ぼく、き、き、聞いてくるよ」
それだけ言うと、止めるまもなく昭夫は駆けて行った。
「おい、昭夫!」
僕らは慌てて追いかけるが、昭夫の足が早い。あいつ、あんなに早かっただろうか。それとも、僕らが遅いのか。言われてみれば、周囲の景色が全然進んでいない気がする。
「昭夫!」
ヨウ君が叫んだ。
昭夫はもうドラッグストアから出ていた。
右手を握りこぶしにして、左手にはコップを持っている。
その後ろには高校生くらいの女の人がついていた。
昭夫はこちらに向かって歩きながら、右手に握りしめていた何かを口に含んだ。
「あっ!」
その瞬間、昭夫はつんのめって、前向きに倒れ込んだ。手に持っていたコップから透明の液体がぶちまけられる。
バシャン!
その音と共に、昭夫は溶けた。
「昭夫?」
今度こそ僕らは駆け寄る。
昭夫がいたはずの場所には、ブヨブヨした肌色の皮のようなものが落ちていた。1番上になっている所に、目と鼻と口らしき穴が空いていた。
「なんだよ、コレ。どうなってんだよ!?」
ヨウ君が声を荒らげる。その瞳には涙が浮かんでいた。
「おい、お前が薬飲ませたのか!?」
女子高生らしき人にヨウ君が問いかける。
彼女は何も言わずに首をブンブンと横に振った。
本来、顔と一緒に横を向くはずなのに、ずっと僕らと目が合ったままだった。
ヨウ君がドラッグストアへ駆けていく。
「お前か!? お前が昭夫をやったのか!?」
レジにいた店員らしき人に詰め寄る。
彼もまた、同じように首をブンブンと振った。
同じように目線をこちらに合わせたまま。
「何なんだよ、こいつら……」
ヨウ君が疲れ果てたような、涙声で呟いた。
「……行こう」
彼は僕の前に立って店の外に歩き出す。
そのまま、最初に訪ねた家の手前、村の入口の道までやってきた。
道の外はどこまでも水田が続いている。
「俺、行くよ」
ヨウ君は決心したように水田の方を向いていた。
「え、でも」
何となく、その先に行っては行けない気がして、そしてどこまで行けば良いのかも分からなくて、僕は彼を止めようとした。
「ここに居たって、しょうがないだろ」
それだけ言うと、彼は駆け出した。田んぼと田んぼの間にある細いあぜ道を走り続ける。
ずっとずっと走って、ゴマ粒みたいに小さくなっても走って、やがて見えなくなった。
彼は一度も振り返らなかったと思う。
僕はどうしようもなくなって、道の真ん中でうずくまっていた。
どれだけそうしていただろうか。
一向に日は暮れない。そういえば、最初から太陽は西に傾いているけど、明るいまま動いていないような気がする。
そうして空を見上げた時に気づいた。
大きい、大きい人影が僕を覗き込んでいる。
3メートルくらいはあるんじゃないだろうか。
黒い袈裟を着て笠を被っていることから、多分お坊さんなのだろう。
「おや、迷子か」
この変な出来事の中で、初めて聞いたまともな大人の声だった。
僕はこくりと頷く。
「ふむ、御仏の力で帰すことは出来んなあ。坊主、金は持っているか?」
ポケットに入っていたマジックテープ付きの二つ折りの財布を取り出す。中には1000円ちょっと入っていた。
「1000円くらいしか……」
「10円玉はあるか?」
「あります」
「よし、なら儂の言うことをよく聞いて覚えなさい」
そう言うとお坊さんは語り始めた。
「村の奥の方に神社がある。そこに行って、参道の右側から入りなさい。そして賽銭箱に10円玉を1枚投げ入れる。そしたら二礼二拍手一礼する。鈴は鳴らさない。そして『すみません』と言いなさい。『すいません』でも『すみませんでした』でもなく『すみません』だ」
念入りに強調するとお坊さんは続けた。
「その後は、神社の裏の生垣に人が通れるように切れ目があるからそこを抜けなさい。そしたら、裏手の森にはいるから、そこで目を閉じてじっとしていなさい」
「付いてきてくれませんか」
僕は心細くてそうお願いした。
「すまんな。日が暮れる前に送らねばならない者達がいる」
気がつけば辺りは夕闇に包まれていた。
「ではな、手順を間違えるなよ」
そう言ってお坊さんは大きな手で僕の頭を撫でると、どこかへ行ってしまった。
僕はお坊さんが角を曲がるまでぼーっと眺めた後、村の奥へ歩き始めた。
道なりに進み続けると、行き当たりに鳥居があった。
参道の右端から入り、三段の階段を登って、賽銭箱に10円玉を投げる。
二礼二拍手一礼して、手を合わせ「すみません」と呟いた。
そのまま。本殿の裏に回り、50cmくらいの生垣の切れ目を抜けて森に入った。
そこで体育座りになって目を閉じる。
風が全く吹かず、木々のざわめきも、虫の声も無い完全な無音の中、僕は意識が沈んでいくような感覚を覚えた。
「……きて、起きて!」
はっ、と意識が覚醒する。
そこに居たのは心配そうに、僕の顔を覗き込む母だった。
「良かった、良かった……」
涙ながらに母が僕を抱きしめる。
少し、ぼーっとする頭で周囲を見渡す。ここは、ボールが落ちていた森の中らしい。
隣では、叔母さんが声を上げて泣いていた。
その腕の中では焦点の合わない目でヨウ君が中空を見つめている。
「ヨウ、ヨウ! しっかりしてぇ……」
叔母さんの呼びかけにも、肩を揺さぶられても、ヨウ君は「うぁ……」と意味をなさない声しか上げない。
昭夫は居なかった。
「昭夫は……?」
僕の呟きにヨウ君が反応した。
「うぉぉぉああ! うぉぉぉああ!」
そうして、私は目が覚めました。