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悪夢、郷愁、贈り物

「アリア」アルケーは赤く染まった雪の上を這いながら言う。「私のことを、置いていくのか。いったい、どこへ行くというんだ」


 アリアは狼狽し、立ち竦む。裸足の指先から雪の冷たさが、血管を伝って心臓へ近づいてくるのを感じる。

 違うと言いたいのに声が出ない。アルケーの元へ駆け寄って彼を助けたいのに、凍りついたみたいに足が動かない。なにもかもが、思うようにいかない。


 アルケーは続ける。「この街の外に、きみの知っているものは何もない。きみを知っている者もいない。なのにきみは、ここを出ていこうとしている。いったいこれからどうしようというんだ。いまに肥大化した猜疑心が、微かに残った自尊心が、空の彼方のように深く暗い絶望が、きみを徹底的に打ちのめす。誰も助けてはくれない。誰も信じてはくれない。それでもアリア、きみは門の向こうへ行くというのか?」


 背後にある門の向こう側から、けたたましい咆哮が聞こえる。それがひとのものであるのか竜のものであるのか、判別がつかない。いずれにせよアリアには関係がなかった。五感を刺激するすべてのものが、アリアを恐怖に駆り立てる。呼吸が浅くなる。白い呼気が風にさらわれる。音は止まない。咆哮は怒号に変わり、無数の足音が近づいてくる。そしてそれらすべての音はまとまり、悲鳴となって響いた。


 振り返ると、街を守る堅牢な石壁に嵌め込まれた大門が、わずかにひらかれているのが目に入った。その向こうには、綿毛のように浮遊する小さな竜の姿があった。

 その幼竜は血に(まみ)れていて、右腕がなかった。

 怖気立(おぞけだ)って、もう一度アルケーに向き直ると、氷のように冷たい手が足首を掴んだ。


 じゃあ、とアリアは言う。今度は声が出る。「わたしはここで、死ぬべきだったの?」


「そうだ」と誰かが言う。


 背後で幼竜が吠えた。小さな体躯から発せられたとは思えないほどの轟音が、全身を震わせる。身を翻すが、幼竜は放たれた矢のように一瞬で距離を詰めてきて脇腹に喰らいつき、肉と内臓の一部を噛みちぎった。痛みはない。しかし流れ出る血と一緒に、体内にあった熱が失われていくのを感じる。身体から力が抜けて、雪の上に倒れ込む。すぐに指先ひとつさえも動かせなくなる。ついには視界も狭まっていき、瞳に映るのは瞼の裏の闇だけになった。


 誰かが、笑っている。

 わたしのことを、(わら)っているんだ。






 目を醒ますと、全身が汗で濡れていた。真夜中の冬の空気は刺すように冷たく、瞬く間に体温を奪おうとする。

 アリアはベッドの上に座り込み、毛布に(くる)まった。隣のベッドの上では、ヒノエが眠っている。

 だいじょうぶ、とアリアは自身に言い聞かせる。ここはフリスティングじゃない。アルケーも、もういない。


 深呼吸を繰り返していると、熱くなった心臓が冷えて、落ち着きを取り戻した。同時に、気が滅入った。


 また、悪夢を見た。


 悪夢の内容は概ねいつも同じだった。フリスティングの大門の前に立っていると、地を這うアルケーが縋ってくる。悪夢の中の彼はひどい言葉を浴びせてくる。門がひらかれて、何かが現れる。そこにいるのは竜であったり兵士であったり、自分自身であったりする。そしてそれに、殺される。

 これは自身が心の奥底で感じている不安や恐怖の表れであると自覚はしているが、あらためてこのような形で見せられると精神がすり減った。


 このままどこまで行けるのだろう、とアリアは思った。仮に追っている竜を見つけたとして、何をどうすれば自身が何者であるのかを解き明かせるというのだろう。仮に仮を重ねて、〈アリア〉が何者であるのか明らかになった後、いったい何を目標に掲げて生きていけばいいのだろう。

 これは以前、ゴールにも言われたことだった。ヒノエがいるうちは、ヒノエのために生きると言えるし、当然そうするつもりだ。でも、ヒノエもいつかはこの世を去る。その後は?


 溜息を吐いてベッドから下り、なるべく音を立てないようにして部屋の戸をくぐった。暗い廊下を抜け、階段を下り、外に出る。外気は部屋の空気よりさらに冷たいが、風はそれほど強くない。見上げると、いまにも消えて失くなってしまいそうな細い月が、微光を放っていた。

 なんだか、遠くを眺めたい気分だった。出来るだけ自分から離れたものについて見聞きしたり考えたりしたかった。だから、なるべく高い場所を目指して歩き始めた。


 オウセは階段の多い街で、丘というには勾配が大きく、まるでひとつの小さな山を覆うような形をしている。泊まっている宿はこの山の中腹にあるが、山頂まで行くのにそれほど時間はかからない。小さな街なのだが、見渡す限り石造りの家がひしめいていて、石畳の少路を歩いていると息苦しささえ覚える。これらの家のほぼすべてに生活があって営まれている人生があるのだと思うと、目眩(めまい)がした。そしてそのすべてがいずれ失われるということが、寂しく思える。


 目に付く階段を適当に上っていったが、袋小路にぶつかることなく、街の頂まではすんなり辿り着いた。頂上はひらけた場所になっていて街を一望できるが、この時間帯では暗くてよく見えない。ただ協会の屋根から突き出たシンボルが、夜闇よりも深い黒色に浮かび上がっていて、視界の端にちらついた。


 ここまで来ると、どこを見渡しても石の壁はなかった。心なしか、空気もきれいに感じられる。深く息を吸って、長く吐いた。白い呼気が頬にふれると、微かな熱を感じる。

 奥に木の柵が植えられているのが見えたので、そこまで歩いて街を見下ろした。街は、眠っていた。家々の中にいる人々が目を閉じ、心と身体を休めているのを想像する。それらの集合体である街は静かに呼吸をしていて、まるで生きているように感じられる。


「アリア?」


 声に振り返ると、ゴールの姿が視界の中心に入った。

 すこし驚いた。こんな夜更けに何をしているのだろうと訝ったが、それはお互い様かもしれないとすぐに思い直す。


 どうしたの、と訊ねると、ゴールは隣まで来て言った。「アリア。シエリは、どっちだ?」


「シエリ?」

「私の故郷。オービターの、シエリだ。どの方角にある?」


 アリアは頭の中に地図を思い浮かべ、南東を指差しながら、「あっち」と言う。


 ゴールは指差したほうを向き、固まった。そこには夜の闇だけが広がっている。


「なに、ホームシック?」とアリアはからかうように言った。


「そうだ」とゴールは言う。「もう冬になるというのに、慣れないものだ。たまに夜中に目が醒めて、故郷のことを思い出して、どうしようもなくなるのだ……おかしいだろう?」


「ごめんね、連れ出しちゃって」

「いいや、きみは悪くない。きみが連れ出してくれなければ、私はあの街で死んでいたのだ。感謝している」


 ゴールの言葉を最後に、沈黙が場を支配した。街からは物音ひとつ聞こえてこない。


 アリアは、シエリの砂浜でゴールと話したときのことを回想していた。

 あのときのゴールは、わたしにかけられた呪いのようなものを、ひとつ解いてくれた。アルケーに似ているからという理由だけで(かくま)った犯罪者だったが、わたしなんかよりもずっと立派な人間だった。でも、だからこその弱みが、ゴールにはある。人間であるという、弱み。


 ゴールを支えていたいくつもの繋がりは、街を出たことで物理的に断たれてしまった。この繋がりを完全に修復するのは、ほとんど不可能であると言える。ゴールは不安なのだろうと思う。表面上は毅然と振る舞っているが、夜の闇が、あるいは月の光が、心の内を暴き出してしまう。

 これも、一種の呪いのように思える。()()()()()()()()()、繋がりは必要ない。しかし、おそらくゴールが理想として掲げているのは、()く生きることだ。そのためには、隣人は不可欠なのだ。


 この呪いを解くのは、たぶん無理だろう。長年培われてきた彼の信念をへし折ることになりかねない。とはいえ、ほうってはおけない。呪いを解いてくれたあのときのように、今度はこちら側からゴールの苦しみをすこしでも和らげることができないだろうかと、アリアは考えを巡らせた。が、思考は煙のように頭の中を漂うのみで、はっきりとした輪郭を捉えることができない。


 しばらく立ったまま遠くを見つめていたゴールがその場に座り込んだので、隣に腰を下ろした。悪夢のことなどすっかり忘れ、ゴールのことで頭がいっぱいになっていく。それでも言うべき言葉は見つからない。自分の中には、他人を励ますことのできる言葉など最初からないのではないかという気がしてくる。それがすこし寂しかった。


 やがてゴールが口をひらく。「強いな、きみは」


 アリアは隣へ視線を滑らせる。視界に入る横顔は悲しげで、いまにも夜に溶けて消えてしまいそうだった。


 ゴールは続ける。「アリア。きみは私のように、故郷のことを考えて寂しくなったりしないのだろうか」


「たしかに、昔はそういう日もあった」とアリアは言う。「でも、いまはもうない」


「そうか。私も、いずれきみのようになれるだろうか」

「べつにいいんじゃない、ならなくても」

「しかし、六〇にもなってホームシックというのは……」

「あの街には、あなたのすべてがある。でもわたしの故郷には、わたしに関係のあるものは、もうなにもない。ただ、それだけのことよ」


 故郷のほうを向いていたゴールと、視線がぶつかった。


「やっぱり強いな、きみは」

「そんなことない。わたしだって怖い夢を見て、ここまで逃げてきたんだもの。あなたとそう変わらないわ」


 ゴールはすこし笑った。「子どもだな、お互いに」


「そうね」

「どんな夢を見たんだ?」

「……故郷の、夢」


 ゴールは黙ったまま続きを待った。


 アリアは続ける。「いつも同じような夢を見るの。血を流しながら雪の上を這うアルケーが、足首を掴みながらわたしを責めるの。後ろには大きな門があって、しばらくするとそこからなにかが現れる。それは見上げるほど巨大な竜だったり、身の丈ほど大きい剣を持った人だったりする。片腕のない小さな竜が見える日も、わたし自身が現れる日もある。それでいつも、わたしはそれに殺される」


「ひどい悪夢だ」

「うん。でもね、これこそがわたしの願いなのかもって、最近は思うの」

「それは、どういう意味だろうか?」

「夢の中のアルケーがいつも言うの。ひとりでどうやって生きていくつもりだ、って。でもそれは、わたしが感じていた不安そのもの。アルケーの言葉は、謂わば鏡写しのわたし。アルケーにひどい言葉を吐かせているのは、わたしなのよ。そうなると、わたしは潰れそうになる。その場から消えてしまいたいと、心のどこかで思ってしまう。それからなにかが現れて、わたしを殺す……つまり」


「きみは心のどこかで死にたいと考えている」とゴールは言った。「そういうわけか」


「うん。たぶん、そうなんだと思う」

「でも、きみはそれが怖い夢だと言う。なんだかおかしな話ではないか?」

「どういうこと?」

「死にたいという願いが、夢の中では叶う。なのにきみは、それが悪夢だと思っているんだろう。矛盾している」

「死ぬのは怖いわ」

「それは、死にたくないということではないのか?」

「ちょっと、違うかも……うまく言葉にできないけれど」

「そうか」


 アリアは誤魔化すように笑って言う。「ごめんね、変な(はなし)しちゃって。死にもしないのに、死ぬのが怖いだなんて」


「いいや、聞かせてくれてありがとう、アリア」

「うん……こちらこそ、聞いてくれてありがとう。すこし楽になった」

「ならよかった。私もきみと話して、すこし気が紛れた。冷えてきたし、戻るとしよう」


 ゴールは勢いよく立ち上がって、手を差し伸べた。アリアはそこに手を置いて、軽く力をかけて身体を持ち上げる。

 大きく、温かく、ごつごつとした手のひらだった。しばらくさわっているとゴールが不思議そうな顔をしたので、手を離して歩き出す。


 来た道とは別の道を選んで、宿へ向かって歩いた。見える景色は変わっているはずなのだが、大きな違いは見出だせない。ただ、行きよりも帰りのほうが、道が広く感じられた。何度かゴールが違う道へ行こうとしたので、その度に手を引いた。


 何度も階段を下り、いくつもの小道を曲がって宿の前に出た。宿の玄関に続く短い階段に、座り込む人影が見える。近づくと、それがヒノエであると分かった。


()()秘密の話ですか?」


 ヒノエはそう言いながら立ち上がり、階段を(くだ)ってふたりの前に立った。口先を尖らせて、すこし怒っているように見える。たぶん、以前もシエリでこのような夜更けにひとり置いていかれたのを思い出しているのだろう。


「アリアが怖い夢を見たと言うんでな」

「ゴールが故郷のことを思い出して寂しがるのよ」


「子どもですか」ヒノエは笑った。「それで、ふたり一緒にどこかへ行ってたんですか?」


「一緒にというか、私が行こうと思っていた場所にアリアがいたのだ」

「そう。ゴールは(あと)から勝手に来ただけ」


「ふうん」とヒノエは笑顔のまま言った。


「ヒノエは、なにをしてる?」とゴールが言う。「()()どこかへ行くつもりか? こんな夜更けに」


「わたしも眠れないだけです。というか、()()ってどういうことですか」

「シエリを出る前の晩……」

「そ、それは内緒にするって言ったじゃないですか」

「きみだって、私の昔話をアリアに話しただろう」

「なに。わたしに内緒の話があるの? ヒノエ」


 ヒノエが困った表情を浮かべながらゴールのほうを向いた。笑みがこぼれそうになる。


「怒らないわよ」とアリアは言う。「だからヒノエも、怒らないでね」


 はい、とヒノエは俯いて言った。


「さあ、寝るとしよう」


 ゴールが歩き出し、階段の一段目に足をかけたとき、ヒノエが勢いよく顔を上げた。


「どうしたの?」

「あ、あの……」

「怒ってないわよ。ごめんね、意地悪して」

「そ、そうじゃなくて……あの、これを」


 ヒノエは懐からなにかを取り出して、アリアに向かって差し出した。夜闇の中、小さな手のひらの上に、淡い金色が浮かび上がっている。


「これは?」

髪留め(バレッタ)、です。アリアさま、日付が変わって、きょうが誕生日ですよね? 前に言ってたから、それで……髪の長いアリアさまに、似合うかと思って、その……」


 階段を上りきったところでゴールは振り返ったが、なにも言わなかった。


「これを、わたしに?」

「気に入らなかったら、す、捨ててくれてもかまいません」


「ううん。そんなことしないわ」アリアはヒノエの手からそっと金色のバレッタを持ち上げて掲げた。三日月の微光を反射して、それは淡く宝石のように輝いた。「うれしい。ありがとう、ヒノエ」


 長い栗色の髪を後頭部でまとめ、バレッタで留める。(あら)わになった首筋を、冷たい風が撫でた。「似合う?」と訊くと、ヒノエはうれしそうに、「はい」と答えた。


 ヒノエはこういうことをする子だったんだとすこし驚いたが、それ以上に愛おしく思った。

 アリアは一歩前に出て、ヒノエを抱きしめた。

 ヒノエはどこに手を置いていいか分からないようで、指先を(ちゅう)彷徨(さまよ)わせていた。困らせてるな、と思いながら、さらにきつく抱きしめる。


「ありがとう、ヒノエ。憶えててくれたのね。すごくうれしい」

「は、はい。わたしも、うれしいです。よろこんで、もらえて」

「ほんとうに、ほんとうに、ありがとう……こんなにうれしいことはないわ……」

「……アリアさま?」


 ゴールに顔を見られないようにした。こんなことで泣いているのが、すこし恥ずかしかった。


 誕生日を祝ってもらうのは、いつぶりだろうと考えた。昔、アルケーが簡単に祝ってくれたというおぼろげな記憶があるのだが、それ以来だろうか。ゴールと出会うまで、ヒノエには過去の話をしたことがなかったから、こんなふうに贈り物を貰うということも起こり得なかった。


 きっと、長らく忘れていたというのもあるのだろう。生まれてきたことを肯定されるというのは、身体が張り裂けそうなほどの感情を胸の中に連れてくるのだと、新たに発見したような心地だった。

 この子にもよろこんで貰いたいという、ささやかな祈りのような火が胸の奥に灯った。きっとこの小さな熱と光が、悪夢から自分を連れ出してくれる。ヒノエにもそのときが来たら、同じようにしてあげようと、そう思った。


 ヒノエの服で涙を拭ってから顔を上げたが、ゴールはもういなかった。部屋へ戻ったのだろう。


「ヒノエ」とアリアはすこし震える声で言った。「きょうは、一緒のベッドで寝てもいい?」


「は、はい。きょうは、その……寒いですからね。震えるくらい……」

「うん。そう……そうなの」

「じゃあ、部屋に戻りましょうか」


 ヒノエはほほえみながら手を差し出した。もう一度涙を拭ってからその手を取り、繋いだまま階段を(のぼ)る。


 街にはふたり分の足音だけが響いている。冷たい夜風が、結い上げて垂れた長い髪を、さらさらと揺らした。

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