07 ー 世界のこと、町のこと
ブラウスの両肩のリボンを決してほどけないようにがっちり結んで町へと繰り出す。昨日と同じように町を案内されるのかと思いきや、連れてこられたのは町はずれにひっそりと佇む小さな本屋だった。
彼は店に入るなり店主のおじいさんに挨拶をして、我が物顔へ二階へと上がる。二階にもたくさんの本が並べられていたが、机と椅子、更には黒板が用意されており、まるで教室のようだった。
セルジュは私に黒板前の椅子に座るよう促し、まわりの本棚からいくつか本や資料を持ってくる。そしてまず黒板に“世界地図”をはって、細長い棒である一点を示した。
「この世界は百四十九の国からできている。今君がいるのはメデルという国で、長い歴史を持ち、領土の広さだけで言えば十二番目に大きな国だ」
どうやら今日はこの世界について教えてくれるようだ。
この町・ディネルカが属する国・メデルは世界地図で見ると東の大陸に位置している。複数の国と国境を有しており、横に細長い形をしているため、一部海に面している地域もあるようだ。
次に世界地図の上から重ねられたのはメデル国の拡大図。
「メデルはよく言えば自然豊か、悪く言えば領土の四分の一がまともに住めない未開の地。そのせいで人口は首都近くに偏っている。ここ、ディネルカはメデル最東の町で、首都に出るのも一苦労だ」
セルジュが持っていた棒でディネルカの位置を指さす。彼の言う通りディネルカより東側に町はなく、深い緑で塗りつぶされているだけだ。ここら一帯は“まともに住めない未開の地”なのだろう。
簡単に地理の勉強をした後、黒板にはられていた地図は二枚とも取り払われ、目の前の机に絵本が置かれた。タイトルは“まじないと精霊”。
ページを捲って中を見ると、どうやらこれは子どもに読み聞かせるために分かりやすくまとめられた“この世界の歴史”なのだと分かった。
「過去我々は魔物に虐げられていたが、精霊から力を借りて抵抗するようになり、今では魔物をまじないで従属させている。例えば長距離の移動は魔物無しでは考えられない」
セルジュの大きな手が絵本に伸びてきたかと思うと、一気にページを捲る。そうして現れたのは馬車を引く馬に似た魔物の絵だった。
魔物を従属させるために精霊から借りた力、それこそが“まじない”だろう。この世界の魔法のようなもの。
不意にセルジュの手が絵本を閉じた。そして背表紙の上に一枚の写真を重ねる。そこに映っていたのはどう見ても自動車だ。――もっとも屋根がなく、座席も狭そうで、元の世界の教科書で見たことがあるような古めかしい作りであったが。
「一方で最近は技術革新も起こっている。大きな都に行けば馬車より自動車の方が多い」
なるほどこれがこの世界の最新技術で作られた自動車なのだろう。まじないが人々の生活に根付いていたからこそ、この世界の技術力はそこまで重要視されてこなかったようだ。
自動車なんて作らなくてもまじないを使えば一瞬で森の中の屋敷から町まで移動できるのだから。
「ただそれらはごく最近、異世界から持ち込まれたものだ。あまり歓迎していない国も多く、普及するにはまだしばらくかかるだろうな」
「技術の進歩は喜ぶべきことではないのですか?」
「急激な変化を恐れる者は多い。それに技術が進歩すれば、職を失う者も出る」
そう言ってセルジュは再び絵本を開いた。そして適当にページをパラパラとめくり、とある絵を見つけて指を止める。
そこに描かれていたのは光り輝く精霊だった。
「なによりこの世界の精霊はうんざりするぐらい潔癖で、自分のテリトリーを侵されることに敏感でな。本来この世界にはない異物……異世界の気配を嫌う」
なぜ異世界から持ち込まれた技術を歓迎しない国が多いのか、だんだんと話が見えてきた。
「精霊の機嫌を損ねれば、彼らの力を借りることができなくなり、まじないも使えなくなる。そうすると我々は魔物への対抗手段を失い、魔物に怯える太古の生活へ逆戻りだ」
セルジュの指が絵本を冒頭に向かって捲っていく。そうして開かれた最初のページには、悪しき魔物に苦しむ人々の姿が描かれていた。かわいらしい絵柄でデフォルメ化されているものの、魔物に虐げられる暮らしがどれほど過酷かなんて想像に容易い。
「精霊の力を借りずに済むよう、技術革新を推し進めるべきだという声もある。まじないではなく我々の技術で武器を作り、魔物を支配し、真の意味で“独立”するべきだ、と」
まじないか、最新技術か。
もしかするとこの世界は今、大きな岐路に立っているのかもしれなかった。
「まぁ、こんな田舎でそんな物騒な語らいが行われることはそうそうないから、今は気にしなくていい。ただ、異世界で育ったことは公言しない方が賢明だな」
セルジュは張り詰めた空気を緩めるように笑う。しかし私は笑い返すことができなかった。
(ここでも私は、“異物”なの……?)
この世界ならありのままの自分を受け入れてもらえるかもしれない――そんな期待がどこかにあったらしい。出生を隠さなければならないという事実に、思いのほかショックを受けてしまった。そしてショックを受けた自分に驚き、二重に落ち込む。
元の世界では容姿のせいで後ろ指を指され続けてきた。あらぬ誤解を受け続けてきた。それがないだけずっとマシだ。出生を隠すことぐらい、そう難しいことじゃない――。
俯いてしまった私に何を思ったのか、セルジュは今までになく優しい声で言った。
「心配しなくても、異世界人差別があるわけじゃない。ただ精霊様のご機嫌を損ねないために、ある程度の嘘……方便も必要というだけだ」
異世界へ繋がる扉があったり、そもそも異世界に駆け落ちできるぐらいだ。きっとこの世界の人々にとって異世界の存在は珍しくないはず。異世界から来る観光客もいるのではないかと思うのだが、異世界からの移住となると話は違ってくるのだろうか。
色々と考えたところで、この世界について、そして精霊について詳しくない私は、ただセルジュの言葉を信じて彼のアドバイスに従う他ない。出生は明かさず、異世界から来たなどと口を滑らせないよう気をつけよう。
言葉もなしに頷けば、頭上でセルジュが笑った気配がする。そして「それに」と彼が更に言葉を続けたので、私は顔を上げた。
「君が害されないよう守るのは教育係の役目だ」
――細められた瞳の中に、私は美しい夕焼けを見た。
見惚れるように数秒見つめて、それから吸い込まれそうな感覚に恐怖を覚え、慌てて目を逸らす。そして視線をどこに定めるか悩みに悩み、手元にあった絵本をこれ幸いと読み始めた。
驚いた。そう、驚いただけ。どきっとした訳じゃない。他人から守るなんて言われたことはなかったし、あまりに唐突だったから、びっくりした。ただ、それだけ。
逃げるように絵本を読み進める私に、セルジュは「今日は一日好きな本を読むといい」と言った。彼の言葉に従い、私は熱を持っている頬に気づかない振りをして、適当に本を取っては読み進めていく。
歴史書だったり絵本だったり、年頃の女の子が好みそうな恋物語だったり。昼食を挟んで、日が傾き出した頃には五冊ほど本を読み終えていた。
読み終わった本を元の場所に戻していた最中、ふと疑問が湧いてきた。なぜ私はこの世界の文字が読めているのだろう、と。
先ほど読み終わったばかりの絵本を再び開いた。描かれている文字はアルファベットに似ているが、文字の作りも文法も日本語はもちろん、英語ともまるで違う。それなのに私の目は引っかかることなくこの世界の文字を読み、私の脳は意味を理解する。自分のことながら意味が分からなかった。
翻訳魔法のようなまじないでも使われたのだろうか。そう思い、セルジュに問いかけようとして――
「なんだって!?」
私のものでも、セルジュのものでもない声。それは半分ほど開いた窓の方から聞こえてきた。
「……なにかあったんでしょうか?」
セルジュは私が向けた戸惑いの視線を受け止めると、窓の方へ駆け寄った。そして窓から身を乗り出して真下に声をかける。
「どうした!」
私も窓際に近づいて、セルジュの視線の先を追った。すると本屋の入口に複数人の男女が集まっているのが見えた。
セルジュの呼びかけに気づいた女性が顔を上げる。彼女を含め集まった人々は皆額に汗を浮かべており、その中に一際顔を青ざめさせた女性がいた。細い体も相まって、今にも倒れてしまいそうだ。
「リコが帰ってこないらしいの」
顔を上げた女性がセルジュの問いに答える。セルジュは「リコが?」と片方の眉を上げた。
――リコ。それはおそらく名前だろう。戻ってこないという言葉から察するに、小さな子どもだろうか。
「探しに行きます」
今にも倒れそうな女性が声を上げた。
「ちょっと、落ち着きなさい。娘が心配なのは分かるけど、まだ本調子じゃないんだから……。あなたは休んでなさい」
どうやらあの女性はリコという少女の母親らしい。今にも走り出しそうな母親を、町の人々は総出で止めていた。
「みんなで手分けして探そう」
町の人々は互いに顔を見合わせ頷きあう。
私は西の空を確認した。もう太陽は沈み始めている。暗くなってしまえば捜索は難しくなるだろうし、人手は少しでも多い方がいいはずだ。
気づけば私は窓から身を乗り出して叫んでいた。
「お手伝いします!」