04 ー 領主たるもの
嫌味なぐらい時間をかけてコーヒーを楽しむ教育係を横目に、私ものんびり朝食を頂くつもりだった。しかしメイドのペルナさんが焼いてくれたスコーンは絶品で、あっという間に食べ終わってしまう。
食後の紅茶を堪能していると隣から視線を感じた。しかし気にせず紅茶を楽しみ、最後の一口まで飲み切った後、ソーサーにカップを置く――と、全く同じ音が隣から聞こえる。どうやら彼も同じタイミングでコーヒーを飲み終わったらしい。
思わずセルジュの方を見る。すると彼は片方の口元を持ちあげ、こちらに問いかけてきた。
「体力に自信は?」
「あります」
「それなら徒歩だな」
――かくしてよく晴れた空の下、街へ繰り出すことになった。
目的地があるのかないのか、セルジュは半歩先を行く。無言でその後に続くと、彼の“案内”が始まった。
「昨日会ったマダムが言っていた通り、ディネルカは高低差の激しい森を無理やり切り拓いて作ったせいで階段が多い」
そうこう言っている内に、目の前に階段が現れる。大きな百貨店のエレベーターのように上りと下りの階段が一か所に集められていたが、セルジュが選んだのは“上り”だった。
「気候は一年を通して過ごしやすい。ただ雨が多く、湿度が高いのは難点だな」
湿度の高さについては正直気にならなかった。日本の夏に比べればかわいいものだ。頬を撫でる風も涼しいし、階段を上って汗が出ても、あの全身を蝕むじんわりとした不快感はない。
「基本的なものは町で全て揃えられる。アマンドさんは一年のほとんどをこの町で過ごしていた」
セルジュが足を止めて右手を見た。そこには広い畑が広がっており、畑で作業をしている男性がこちらに気づいて手を振ってくる。おそらく彼は畑の主人で、セルジュと顔見知りなのだろう。
軽く手を振り返し、私が会釈したのを見届けてから、セルジュは再び歩き出した。
「領主の仕事は町の治安の維持と、二ヶ月に一度の税の徴収。アマンドさんは記録をつけてエヴァ・ダリ伯爵に報告していたが、あの魔女のことだ、読まずに捨てていただろうな」
エヴァ伯爵への不遜な物言いに、彼はどういった立場の人間なのか疑問に思う。
伯爵のことを魔女と呼び、言葉の節々から尊敬は一切感じ取れないが、嫌っている様子もない。生意気な部下なのか、それとも血縁者なのか、私には到底想像できない全く別の関係なのか――
しかしセルジュの身分よりもまず、“領主見習い”として尋ねたいことがあった。
「税ってお金ですか? それとも作物とか?」
「アマンドさんは用意しやすい方で構わない、と相手側に任せていた。税といってもほとんど形式的なもので、領主の生活が保証できればそれでいい」
税と聞くと私はどうしても金銭を想像してしまうが、どちらかというと年貢のようなイメージの方が近いかもしれない。代替わりをしたからといって下手に改革せず、祖父のやり方に乗っ取った方がスムーズだろう。
領主がどのような存在か、そしてどう立ち振る舞うべきか、徐々にイメージが固まりつつあった。思っていた以上に、領主はその地に住む住民たちに寄りかかった存在であるらしい。
「住民の皆さんから頂いたもので、領主が生活をする……」
「だからその分、領主は町の人々に尽くさなければならない」
不意に落とされた言葉にはっと顔を上げる。
「アマンドさんの口癖だ」
過去を懐かしむように瞼を伏せて、セルジュは笑った。その瞼の裏に、彼は祖父の姿を思い描いているのだろうか。
一度も会ったことがない、数日前まで存在すら知らなかった祖父の残したものを、少しずつ辿ろうとしている。父もおそらく幼少期はこの町で過ごしたのだろう。どんな少年だったのだろうか。母はなぜエヴァ伯爵のメイドになり、そして男爵である父と出会ったのだろう――
「キャー!」
今はもう会えない肉親たちに想いを馳せていたときだった。絹を裂くような悲鳴がどこからともなく聞こえてきた。
「なに!?」
「酒場からだな」
セルジュが素早く悲鳴の“出どころ”を振り返る。彼の視線の先を辿り、屋根に大きな看板を掲げている酒場を見つけた。
――このときなぜ自分は日本語ではないこの世界の文字を違和感なく読むことができたのか、今にして思えば不思議なのだが、一刻も早く悲鳴の許へ駆けつけなければと焦っていた私は疑問に思うこともなく、素早く地面を蹴った。
「おい! 一人で動くな!」
後ろでセルジュが声を上げたが無視して、酒場の扉を勢いよく開ける。
――瞬間、視界に飛び込んできたのは二人の男女の姿。おそらくはウエイトレスと思われる小柄な女性が、顔を真っ赤にした男に腕を掴まれていた。
どう見ても、酔っ払いが店員に絡まれている図だ。
「その人を放しなさい!」
反射的に叫ぶ。かつて生徒たちのいざこざに積極的に首を突っ込んでいた、学級委員時代を思い出した。
――今回注意した相手は生徒ではなく、屈強な酔っ払いなのだが。
「あぁ? 誰だァ、テメェ」
酔っ払いが真っ赤な顔をこちらに向ける。しかし視点が定まっておらず、睨みつけられても恐怖は感じなかった。
「ったく、邪魔されて興ざめだぜ……」
こちらに向かってくる足元もふらふらとしており、まさに千鳥足だ。体格の良さに一瞬怯んだが、これなら“イケる”はず。
ぐっと足を踏ん張り、両手を構え、準備する。
「お嬢ちゃん、首突っ込んでくるんじゃねぇよ――」
「反省しなさい!」
胸元と腕を掴んでぐっと引き寄せる。酔っ払いは踏ん張りがきかず、狙い通り前につんのめるようにして体勢を崩した。すかさず体重がかかっているであろう軸足を払えば、男は仰向けに地面に転がる――久しぶりで綺麗に決められなかったが、かつて柔道部だった私が得意技にしていた大外刈りだ。
ドシン!
大きな音と共に倒れた男は白目をむいていた。頭をぶつけないようしっかり胸元を引っ張り上げていたから、受け身がとれなかったとしても、大きな怪我はしていないはずだ。
気を失った酔っ払いを拘束したまま、私は顔を上げ、先ほどまで絡まれていた女性店員に声をかけた。
「大丈夫ですか」
「え、えぇ、ありがとう」
女性は目を点にしている。心底驚いている様子に、学級委員時代の癖で首を突っ込んでしまったことを若干後悔しつつも、ここまできたら後始末もするべきだろうと苦笑を浮かべて問いかけた。
「縄はありませんか。酔っ払いを縛らないと」
「こ、ここに!」
キッチンの方から声が上がる。縄を持ってきてくれたのは酔っ払いよりも更に体格のいい男性で、彼ならもっと穏便にこの場を鎮められていたのではないかと居心地の悪さを覚えた。
もしこの酔っ払いがこの店の常連で、この騒ぎが“いつものこと”だったら余計な真似をしてしまったかもしれない。今回のことが原因で常連客が寄り付かなくなってしまったら、助けたつもりで店に大きな損害を与えたことになるのでは。いや、でも、この男が常連客だったとしたら、拘束用の縄を店員が用意するはずはないだろうし――
自分の駄目なところが出てしまった。視野が狭くて、その癖咄嗟の反応は素早いから、状況を把握しきれない状態のまま突っ走ってしまう。一刻も早くトラブルを解決しなければど急ぐあまり、事態を悪化させてしまうこともしばしばあった。
――真面目過ぎる。頭が固い。優等生ちゃんに話は通じない。
かつて言われた悪口が鼓膜の奥に蘇る。
「すみません、お借りします」
男性が持ってきてくれた縄を受け取って、私は酔っ払いを縛るべく一度拘束を解いた。
人を縄で縛ったことはないが、なんとなくのイメージで、手首を後ろ手に拘束しようと思いつく。そのためにまずは仰向けに伸びた男を起こそうと肩に手をかけ引っ張ったのだが、体重差のせいかなかなか起き上がらない。
一人で唸っていると、突然酔っ払いの体が軽くなった。――違う、セルジュが手を貸してくれたのだ。
「驚いた。まさか男一人投げるとは」
セルジュは酔っ払いの背を支えつつ、夕焼け色の瞳を僅かに見開いて私を見下ろしていた。驚いたとの言葉は嘘ではないようだ。
「ただの護身術です」
「それにしては見事だった」
真っすぐ向けられた賞賛の言葉に面映ゆい気持ちになる。背筋がむずむずとして、緩みそうになる口元を俯くことで見られないようにした。
セルジュが酔っ払いの体を支えてくれている内に、私は背後に周り手首を縄で縛ろうと奮起する。両の手首を揃えて、ぐるぐると縄を巻いて、それから――それから?
ここからどう結べばいいのか分からない。固結びしようにも縄と手首の間に空間ができてしまって、簡単に縄抜けできてしまいそうだ。
何度も結び直して、手首をぐるぐる巻きにして、固く結んだあと、心もとないのでその上からリボン結びをして――?
「どうした」
苦戦している私に気が付いたらしい、セルジュが手元を覗き込んでくる。結び目がぐちゃぐちゃになって、最後どうにか形を整えようとリボン結びしてしまった縄を。
――絶対笑われる。
今朝の意地悪な態度を思い出し、一瞬誤魔化そうかと思ったが、私のプライドを優先した結果半端な拘束になって、酔っ払いを逃すようなことがあれば店側に迷惑がかかる。ここは何を言われようとぐっとこらえて、おとなしく頼るべきだ。
そう判断し、私はセルジュを見上げた。
「あの、人の手首ってどうやって縛ればいいんでしょう? 初めてで……」
数秒の沈黙。そして――酒場に響き渡る大きな笑い声。
想像通り、セルジュは笑った。しかし想像していた意地悪な笑い方ではなく、心底おかしくてたまらない、といったような、初めて見る豪快な笑い方で。
不思議と馬鹿にされた気にはならなかった。それどころか、彼はこんなに大声で笑うんだ、と驚いてしまった。
「こういうときのために俺がいる。任せてくれ」
セルジュは笑いすぎたせいで眦に浮かんだ涙を拭って、私のかわりに酔っ払いの手首を縛りあげてくれた。その横顔は、なんだかとても楽しそうだった。