38:領主と教育係
「おめでとう、と言うべきかな。よく決心した」
笑顔で迎えてくれたセルジュは開口一番にそう言った。報告するまでもなく、彼は私が領主の座に就くことを知っていたらしい。
「正直まだ不安です。領主らしい仕事は何一つしていないし……本当に私でいいのかと」
パーティーではしゃいでいるリコたちを見つめながら答える。横顔に視線を感じて目だけでセルジュを見れば、彼の瞳に心配の色はなく、爽やかな笑顔のままだった。
自然と私の口元にも笑みが浮かぶ。今度はセルジュに真正面から向き合って言った。
「でも、決めたからにはできる限りの努力をします。私を受け入れてくださった皆さんのために、よりよい町にしていくために」
「君らしい答えだ」
満足げに頷いてくれたセルジュの装いを今更ながらじっと観察する。
黒のシンプルなタキシード――と思いきや、裾元に控えめな装飾が施されており、まるで星が輝く夜空のようなデザインだ。遊び心を感じるデザインはセルジュに良く似合っており、セットされた漆黒の髪は相変わらず惚れ惚れとする美しさだった。
三か月間、セルジュは教育係としてこれ以上なく力を貸してくれた。ようやく教育係から解放される彼はせいせいとしていることだろう。けれど正直な話、すぐに独り立ちできるかと言われると私には自信がなかった。
ぎゅ、と体の前で組んでいた手を握りしめる。これから私は迷惑なお願いをしようとしている。断られるかもしれない。嫌われるかもしれない。けれど今ここで言い出さなければ、きっと後々後悔するだろうと思った。
「それで、あの……お願いがあるんですが」
俯き、人々の喧噪を遠くに聞きながら切り出す。
「これからも、時間があるときでいいんです。無理にとは言いません。嫌なら断ってくれて構いません。いつか必ず、独り立ちします。だから、その……」
そこで一息ついて、勢いよく顔を上げた。
「これからも、力を貸してくれませんか?」
夕焼け色の瞳がじわじわ見開かれていく。返事を待たずに目をつむって逃げ出してしまいたかったが必死に耐え、私はセルジュの答えを待った。
もし断られても言い縋らず素直に受け入れよう。罪悪感を与えないように笑顔で返事をして――
断られたときの心構えをしていると、セルジュの表情が優しく解けた。
「先に言われてしまったな。そもそも俺は、あの町を出ていくつもりはないよ」
笑みを深めて彼は続ける。
「こちらこそ、これからも君さえよければ、傍においてくれ」
目の前に差し出された大きな右手を、数秒唖然と見下ろす。
――つまり、これは、私のお願いは受け入れられたということだろうか。……本当に? いくらセルジュがディネルカで暮らし続けたいからといっても、私の教育係を続けることになんの利点もないはずなのに。
自分に都合の良すぎる返答に喜びよりも先に驚きが湧いて出る。差し出された右手はそのまま、唖然とセルジュを見上げた。そうすれば私の背を押すように、ゆっくりと彼の瞳が瞬く。
セルジュの顔と右手を数度見比べて――押し寄せる喜びに身を委ね、私は彼の大きな手に飛びついた。
「も、もちろん! よろしくお願いします、セルジュ」
目と目を合わせてかけた言葉に返答はなく、その代わりなのか握手をしたままの右手をぐいと引っ張られる。あ、と思ったときにはセルジュの胸元に飛び込んでいて、
「好きだよ、チカ」
耳元で落とされた声に、再び思考が止まった。
――好きだといった。誰が? セルジュが。好きって、どの好き? 人としてではなく、一人の特別として?
ぐるぐる、ぐるぐる。思考が回って、目も回って、これ以上何も考えられなくなった私は入ってくる情報全てを遮断しようと、目を閉じて耳を両手で塞いだ。このままでは思考がオーバーヒートして倒れてしまう。
私は何も聞いていない。聞き間違いだ。もしくは空耳。だって、そんな、セルジュが私のことを好きだなんて、ありえない。そんなことになったら明日からどんな顔で彼と会えばいい? 領主と教育係として、一日中一緒にいることも多いだろう。それなのに、好きだなんて言われたら心臓が持たない! だって、だって――
だって私も、彼のことを特別に思っているのに!
「……なぜ耳を塞ぐ」
「聞いてません」
「さすがにその逃げ方は無理がないか、顔が真っ赤だぞ」
両耳を塞いでいる私の手をセルジュが掴んだ。そしてぐぐぐ、と力づくで手を外されそうになる。
当然彼に力で勝てるはずもなく、私は咄嗟に叫んだ。
「ま、待ってください! ちょっと、今は領主になることでいっぱいいっぱいで、恋に現を抜かしている暇はなくて……キャパオーバーです!」
そう、今は無理だ。まずは領主としての勤めをしっかり果たせるようになるまでは、邪念や雑念に気を取られている暇はない。だって今まで領主の勤めも恋もしたことがないのに、初めてのことを同時に行うなんて、悲しいかなお世辞にも要領がいいとは言えない私にできるはずもない!
それに初めての恋に現を抜かして領主の仕事がおろそかになるようなことがあれば、私を温かく迎えてくれたディネルカの人々に申し訳がない。一生の後悔になるだろうし、その原因となった恋も諦めなければならなくなるだろう。
「振られたのか、俺は」
「違います! ただ、ちょっと時間が欲しいというか、今じゃないというか」
セルジュが悲しそうに眉尻を下げたので咄嗟に否定してしまった。これでは私も好きだと言っているようなものだ。実際好きだから何も問題はないけれど、途端に嬉々として目を輝かせたセルジュに羞恥心が募る。
すっかり元気を取り戻した彼は、暴れたせいで乱れた私の髪を整えてくれた。その指先の動きが優しくて、私はいたたまれない気持ちになった。
「今はこれ以上ない絶好のタイミングだっただろう。ここで告白しないでどうする。さすがに俺もそこまで腑抜けじゃない」
目の前にセルジュの顔が迫ってくる。そのまま身を委ねてしまえば楽だと思いつつ、私は逃げるように俯いた。
「ごめんなさい、本当に、あの、しばらくは領主の仕事に集中したくて、だから」
「もうしばらくは領主と教育係の関係でいたい?」
頷けば、小さなため息が頭上から降ってきた。彼が呆れるのも無理はないだろう。
早い話が我儘なのだ、私は。初めての領主の勤めも、そして恋も、両方手に入れたいと思っている。しかし一気に二つは難しいからと、片方を後回しにしようとしているわけで――後回しにされたセルジュが気分を害するのも当然だ。
先ほどまでうるさいぐらいに早鐘を刻んでいた心臓が落ち着きを取り戻す。それと同時に舞い上がっていた心も沈んでいった。
「……わがままを言っているのは分かっています。嫌なら、離れていってもらってかまいません。先ほどの教育係の話もなかったことに……」
不意にセルジュの両手に優しく顔を包み込まれる。抵抗しないでいると、そのまま上を向かされた。
見上げた先、セルジュは眉尻を下げたまま、仕方ないというように苦笑していた。
「君の真面目なところは長所だからな。それに仕事の邪魔をしたいわけじゃない、いくらでも待つよ」
「セルジュ……」
両頬を包む手が心地よい。迷いなく待つと言ってくれたセルジュの心の大きさにどう感謝すれば釣りあいが取れるのか分からなくて、セルジュの手のひらに擦り寄った。
これからどうセルジュに恩返ししていこう。彼を大切に思うのはもちろんのこと、領主としての勤めをしっかり果たすことも恩返しの一つになるだろう。だって彼は私の教育係なのだから。教え子が立派に育つ姿を見るのは嬉しい――はずだ。たぶん。
明日からの新しい日々に想いを馳せる。やることも、学ぶことも今まで以上にたくさんあるはず。毎日忙しくなるだろう。壁にぶつかる日だって多いはずだ。けれど私はもう一人じゃない。困ったときには助け合い、力を合わせ、どんなことにだって立ち向かっていこう。
そして領主の勤めをしっかりと果せるようになったときには、セルジュに――
「ただ――」
不意に顔に影が落ちた。何かと目を開けた瞬間、額に感じた柔らかな感触。
――キスをされたのだと気づくのに、優に十秒はかかった。
「俺は君が好きだから、それ相応の扱いをされる覚悟をしてくれ」
「は……」
悪戯好きの少年のように笑ったセルジュに、私は言葉を失った。同時に足から力が抜けて大きくよろけたが、セルジュが支えてくれたため事なきを得る。
――額へのキスが、“それ相応の扱い”?
こんなのどう考えても領主と教育係の距離感じゃない。いくらでも待つなんて殊勝なことを言いつつ、これは本当に待ってくれていることになるのだろうか。
耳まで真っ赤にして固まる私はさぞや間抜けな顔をしていたのだろう、セルジュは喉を鳴らしてさも愉快だというように笑った。
「顔が真っ赤だ。足元も心許ないな。リコたちの許までエスコートしようか?」
「け、結構です!」
胸板を力いっぱい押せば、思ったよりも簡単にセルジュの体は離れていった。すかさず距離を取って、うるさい心臓を落ち着かせようと体全身を使って深呼吸する。その様子を見てか、セルジュは体を折り曲げて“爆笑”していた。
――や、やっぱり意地が悪い! 好きな相手を振り回して、その様子を笑って見ているなんて!
眉も目尻も吊り上げて力いっぱい睨んでやれば、セルジュは視線に気が付いたのかしゃんと背筋を伸ばす。そして先ほどまでの悪戯好きな少年のような笑顔を引っ込ませて、夕焼け色の目を眇め、口元に薄く笑みを敷き――こちらを愛おしむような表情をするものだから、私は面映ゆい気持ちに襲われて咄嗟に目を逸らした。
だめだ。今のセルジュに真正面から向かい合ってはいけない。心臓に悪すぎる。とにかく今は離れよう――。
そう判断し、私はくるりとセルジュに背を向ける。そしてリコたちの許へ駆けだそうとしたのだが、
「領主様、明日からもよろしく頼む」
走り出す前に、背後から声がかかる。
私は振り返らずに答えた。
「……こちらこそ、明日からもよろしくお願いします、教育係さん!」
――明日からも、よろしく。
鼓膜を揺らし、私も返した言葉を口の中で繰り返す。明日からも。その約束があるだけで、私の心は幸福で満たされた。




