33 - 決意
肉にうずもれた目がこちらを見下ろす。そして大きな口を開けて、精霊ゲッコラは言った。
『キサマを、クッテやる』
――エヴァ伯爵曰く、彼が納得すればこの地で再びまじないが使えるようになるという。つまり。
「私があなたに食べられれば、全て元通りになるんですね」
“それ”が精霊ゲッコラが納得するための条件なのだろうと思った。
「チカ! 話を聞くな!」
『ウルセー!』
後ろでセルジュが叫ぶ。それに応えるように精霊ゲッコラも咆えた。
不思議と恐怖はなかった。求められていることがはっきりとしていたからだと思う。そしてもたらされる結果もまた、明らかになっている。
エヴァ伯爵と、セルジュに対する信頼もあった。きっと彼らなら精霊ゲッコラが約束を反故にしないよう見張ってくれるだろうし、私なんかより立派にディネルカを治めるだろう、と――。
けれど振り返る勇気はなかった。振り返って、セルジュの姿を見てしまえば、未練がうまれてしまうかもしれないから。
『でもオレ、イきたニンゲンクうのキラい。ウゴかれるとタべづらいから』
そう言って精霊ゲッコラが差し出してきたのは、いつの間にその手に持っていたのか――まじないでセルジュから奪ったのかもしれない――エヴァ伯爵の銀のナイフだった。
生きた人間を食べるのは嫌い。動かれると食べづらいから。つまり――動かないように自分でどうにかしろと、精霊ゲッコラは言いたいのだろう。
「……分かりました」
彼の言わんとしていることを理解して、私は銀のナイフを受け取った――が、掴み損ねて一度地面に落としてしまう。私は慌ててしゃがみ込み、落ちたナイフを拾おうと腕を伸ばして、自分の指先がひどく震えていることにようやく気が付いた。
――だめだ。恐怖を自覚するな。私が食べられればリコもルールーも助かるし、ディネルカの人々の生活ももとに戻る。仕方のない犠牲だ。安い犠牲だ。私を受け入れてくれた人々のために、これ以上何ができる。喜ぶべきことだ。大切な人々のために、死ねることを――
『こんなバケモノがセイレイだと知って、ゼツボウしたか』
俯く私に、頭上から声が落ちてきた。精霊ゲッコラの巨体からすると頭上といっても一メートル以上の距離があるのは間違いないはずだが、不思議なことに、すぐ耳元で囁かれているように感じた。
投げかけられた問いは正直思い至りもしなかったもので、私は一瞬恐怖も忘れて顔を上げた。
確かに精霊ゲッコラは恐ろしい外見をしている。それこそ何も知らずに見たとき、化け物だと震えあがったぐらいだ。しかし精霊だと聞いてからはそれを事実として受け止め、精霊らしからぬ化け物だとか、そもそも嘘じゃないかとか、そういった感想は抱かなかった。
それはなぜか。――自分が見た目で判断され、苦しみ続けてきたからかもしれない。見た目で判断しないで欲しいと強く思い続けてきたからこそ、自分が偏見の目を相手に向けることを無意識下でもよしとしなかったからかもしれない。
「見た目で判断されることの苦しみを、私は知っているつもりですから」
見上げたまま小さく首を振る。すると僅かにだが、肉に埋もれた目が見開かれたような気がした。
私は再び足元に視線を落とし今度こそ銀のナイフを拾い上げる。そして鞘から引き抜いた。
『オソろしくはないのか』
「……それで全てが元通りになるなら」
冷たいナイフを胸元にあてて瞼を閉じ、自分に言い聞かせるように言った。
恐ろしくはない。それですべて元通りになるのなら。恐れてはいけない。これで全て元通りになるのだから。
そうだ、小倉チカは数か月前に両親と共に死んだのだ。そう考えればいい。ディネルカには領主見習いの小娘なんて来なかったし、これからはエヴァ伯爵とセルジュが町を治め、全て元通り――
『ツマンネー女だな』
ぽつり、と精霊ゲッコラが呟いた。あぁ、同じようなことをルールーにも言われたなと思い出す。瞬間、脳裏を走馬灯が駆け巡っていった。
短い人生だった。辛いことの多い人生だった。悔いばかりだ。けれど最後の数か月、私は確かに幸福だった。身に余る幸運を手に入れた。だから――
「チカ!」
閉じた瞼の裏、光が瞬いたような気がした。
目を開ける。目の前には精霊ゲッコラの巨体。そして――精霊の背後に、鬼気迫った表情のセルジュが光を纏って“現れた”。
瞬間移動だ。かつての愛猫ナナの力を借りて、苦しい状況下でどうにかまじないを使ったのだろう。見るからにセルジュは疲弊していたが、それ以上に私の目が吸い寄せられたのは、彼の右手に握られていた銀のナイフだった。
なんで。どうして。一体何を。
何も分からない。ただセルジュが精霊ゲッコラを害そうとしているのは確かで。
「セルジュ! だめ!」
私はセルジュのナイフがゲッコラの体を引き裂くよりも先に、とナイフを握っていた両手に力を入れ、そのまま胸に突き立てる――と、切っ先が服に触れた瞬間、パン! と軽快な音をたててナイフが“弾けた”。
衝撃としては些細なものだった。例えるなら、そう、手元でクラッカーを鳴らしたときのような、そんな微細な振動。しかし私はまさか自分が持っていたナイフが弾けるとは思っておらず、驚きのあまりその場に尻餅をついてしまった。
どすん。そして――沈黙。
何が起きたか分からない。ただ唖然と自分の手のひらを見つめ、
『こんなマズソーな娘、食うつもりネェよ!』
突然響いた精霊ゲッコラの悪態に、脳が言葉を理解するよりも早く、体が半ば反射的に緊張を解いた。
「そもそも精霊は人を食べられないでしょ」
続いて鼓膜を揺らしたのはエヴァ伯爵の声。彼女はやれやれと言いたげに肩を竦めて、ゲッコラの足の付け根当たりをぽんと叩いた。
「私の言った通りだったじゃない。この子はあなたの思い通りにはならないって」
『フン』
「異世界人一人如きでへそを曲げないで頂戴。偉大な精霊ならそれらしく、どんと構えているべきではなくて?」
美しい笑みを浮かべるエヴァ伯爵。すっかりいつも通りの優雅な彼女だ。
――何が何だか分からない。けれど伯爵の笑みに、先ほどよりも明らかに纏う空気を柔らかくした精霊ゲッコラに、私の体からはどんどん力が抜けていく。
『試してやったんだ。コイツがココでやっていけるかどうか』
「だったら次からは事前に教えて欲しいわね。まったく、人騒がせなんだから……」
『ウルサイウルサイ、ウルサーイ! まじない使えなくするぞ!』
「今使えなくしてるでしょ。ほら、賭けは私の勝ちなんだから、戻して頂戴」
試した? 賭け? エヴァ伯爵の勝ち? ――鼓膜が断片的に拾う単語から、徐々に話が見えてきたかもしれない。
エヴァ伯爵が指先で精霊ゲッコラの顔を突き出した。美しく切りそろえられた爪先がゲッコラの頬と思われるあたりを執拗に突いて、しかしゲッコラは拗ねてしまったかのようにそっぽを向いたまま何も言わない。
先ほどまで命を捨てる覚悟をしていた私は、目の前で繰り広げられる和やかともいえるやり取りを見て、じわじわと涙腺が緩み始めた。たぶん、きっと、私が死ぬ必要はなくなった。
「なぁに? 偉大な精霊様は約束を御破りになるの?」
『あー! ムカツクー!』
精霊ゲッコラが叫んだ瞬間、暗く淀んでいた森に一筋の光が差した。かと思うと一気に空が明るくなり、私は眩しさに目を細める。
日の光が目に染みる。ますます涙で滲んだ視界に焦りを覚えて、私は伯爵たちに背を向けて目元を拭った。――と、そのとき。
「どういうことか説明してもらおうか、魔女伯爵」
「あらあら、怖いわね」
背後から聞こえてきたのは地を這うような低いセルジュの声と、それを揶揄うエヴァ伯爵の声。
しっかり涙を拭ってから振り返れば、セルジュと目が合った。夕焼け色の瞳は一瞬泣きそうに揺れて、しかしすぐに逸らされてしまう。もしかするとセルジュは私に怒っているのかもしれない、と直感的に思った。




