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10 - 読み書き



 リコの薬草摘みに同行させてもらう許可をもらった翌日、最低限知識をつけておこうと午前中を勉学に費やした。

 主に町の近くで採れる薬草の種類、効力、そして見分け方。薬草とよく似た毒草もあるようで、採取する際に見比べられるよう、持ち運び用のメモに書き写していく。

 勉強は嫌いではない。むしろ好きだ。努力すればするだけ結果が出る。結果は嘘をつかないし、他人から文句もつけられない。

 お昼の鐘の音を聞いて、今日はここまでにしようとセルジュが切り上げた。私は固まってしまった肩や背中をぐっと伸ばし、書き写したメモを見直していく。――と、確かに自分で書いたメモが“日本語ではない”ことに今更ながら気づいた。

 なぜ私はこの世界の文字の読み書きができているのだろう、と。



「どうして私、この世界の文字が読めるんですか?」


「……三時間ぶっ通しで勉強して、今更か?」


「はい」



 セルジュは私の疑問に目を丸くして、それから口元に苦笑を滲ませた。

 彼の言う通り今更ではあるが、それは尋ねる機会を逃してしまっていただけで、ずっと疑問に思っていたのだ。



「魔女の仕業だ」



 呆れつつもセルジュはしっかり答えてくれる。



「魔女って……エヴァ伯爵の?」


「奴は高名な呪師まじないしだからな」



 呪師――。

 初めて聞く単語ではあったが、イメージはつく。魔法を使える人を魔術師と呼ぶように、まじないを使える人のことをそう呼ぶのだろう。

 私を拾ってくれたエヴァ伯爵はとても腕のいい呪師だそうだが、理由もなく納得してしまう雰囲気を彼女は持っていた。そもそも魔女と呼ばれているぐらいだ。



「つまりはエヴァ伯爵のまじないのおかげで、私はこの世界の文字を読めるようになった……と?」


「精霊の粉と魔物の爪、大樹の皮と湧き水、その他様々な“世界の一部”をまじないで混ぜて相手に飲ませれば、この世界に“適応”するらしい」



 まじないも魔法も使えない世界で育った私には、理解の及ばない話だ。しかし実際異世界の言葉を話し、文字を読み、書いているのだから、信じないわけにもいかない。



「魔女が淹れた紅茶を飲んだだろう。奴はそこになんでも仕込む」



 思い出す。確かに葬式会場から屋敷へ招かれた際、エヴァ伯爵が淹れてくれた紅茶を飲んだ覚えがある。今思えばずいぶんと不用心な話だ。あの紅茶に入れられていたものがこの世界に適応するまじないではなく、毒だったら。今頃私は魔女の儀式の生贄にされていたかもしれない。

 自分が書いた異世界の文字を指先でなぞりながら呟く。



「なんだか不思議な感覚です。知らない文字のはずなのに、勝手に目が読んで、勝手に手が書く。私が私じゃないみたい」


「そのうち慣れるさ」



 投げやりな返答だったが、セルジュの言う通りだろう。実際もう慣れ始めている。

 この世界に適応した状態で、元の世界に戻ったらどうなるのだろう。普通に日本語は聞き取れるのだろうか。もしかして日本語が今の私にとっては異世界語になっていて、会話も満足にできないのでは――

 一瞬なんとも表現できない恐怖に襲われ、私はメモに自分の名前を漢字で書いた。小倉おぐら千佳チカ。大丈夫、まだ書ける。



「さて、勉強はここまでにして、リコに会いに行くんだろう?」



 適当にいくつか漢字を書いていたところに声がかかった。セルジュの言う通り、午前中の勉学はあくまで準備で、本番は午後。リコと薬草を一緒に採取しにいくために知識を詰め込んだのだから。



「本を片付けてくる。少し待っててくれ」



 そう言ってセルジュは薬草の図鑑を元あった場所に戻しに向かう――と、その前に、彼は懐から何かを取り出し、机の上にそっと置いた。とても繊細で優しい手つきに、私は思わず何を置いたのかと目を凝らす。



「……ガラスの鈴?」



 机の上に置かれていたのは、ガラスで作られた透明の鈴だった。

 思わず椅子から立ち上がって間近で眺める。照明の光を受けてキラキラと輝くガラスの鈴は、多少表面に擦り傷のような汚れが見受けられたが、とても綺麗だった。



「すまない、待たせた」



 見惚れている内に、セルジュが戻ってきた。

 彼の所有物をまじまじと観察していたところを見られたことがなんだか恥ずかしくて、一つ咳払いをしてから問いかける。



「これ、あなたのですか?」


「あぁ。普段は懐に入れているんだが、本を抱えたときに壊れてしまわないか心配でな」


「大切にしているんですね」



 それは素直な感想だった。

 壊れないようにと気遣っていることはもちろんのこと、そもそも壊れやすいガラス製の物を常に持ち歩いていることから、思い入れのある鈴なのだろうと想像がついた。だから世間話のような軽い気持ちで口にしたのだ。



「大切なあの子の忘れ形見だからな」



 ――まさか、そんな返答が帰ってくるとは思いもしないで。

 大切なあの子の、忘れ形見。

 セルジュはそれ以上何も言わず、そっと懐にガラスの鈴をしまった。そのときの手つきも、決して傷つけないように優しく、“あの子”のことを思い出しているかのように柔らかな笑顔を浮かべていて。



(……彼は、大切な人を失ったんだ)



 ショックを受けた、と表現していいのか分からない。ただただ驚いて、セルジュが言った“あの子”という言葉の響きが、彼の寂しそうな笑顔が、しばらく忘れられなかった。



 ***



「リコ」


「チカお姉ちゃん! 来てくれたんだ!」



 リコは自宅の庭で母親と二人、日向ぼっこをしていた。

 邪魔をしてしまうのが申し訳なくて、控えめに名前を呼べば、聞きつけた小さな体が反応する。そして私とセルジュの姿を見つけるなり、思いの他しっかりとした足取りでこちらに駆け寄ってきた。

 昨日は長時間迷子になっていたから体調が心配だったが、よかった、元気そうだ。



「チカ様! どうして我が家に!?」



 一緒に日向ぼっこをしていたリコの母親が娘の後を追ってこちらへ近づいてくる。どうやらチカから話を聞いていないらしい。

 驚きからか顔を青ざめさせた母親に、できるかぎり優しい声で、しかし薬草のことは伏せて説明した。余計な気を遣わせないためだ。



「突然申し訳ありません。リコとある約束をしていまして」


「チカお姉ちゃんたちと出かけてくるね! お母さんはゆっくりしてて!」


「で、でも……」



 母親はなおも食い下がってくる。リコと私、そして後ろに控えているセルジュの顔を順番に見つめて、それから戸惑いに瞳を揺らした。

 おそらくは昨日の今日で、娘が心配なのだろう。それも同行者は突然現れた前領主の孫ときた。笑顔で見送ることができないのも無理はない。

 心配性な母親の心境は察した上で、私よりもセルジュの方が付き合いが長く信頼に足り得るだろうと判断し、彼を小さく手招きした。そうすれば彼は素早く私の横に並び、その長い腕でリコを力強く抱き上げる。

 私はそのすぐ横に寄り添うように立ち、そっと目を伏せた。



「私のわがままにリコちゃんを巻き込んでしまっているだけなんです。お気になさらないで……いえ、むしろ、ご迷惑をおかけしてしまってすみません」


「と、とんでもありません! リコのこと、よろしくお願いします」



 母親は大きく頭を下げる。恐縮しきった様子に私は慌てて頭を上げてもらい、日が沈む前には戻ると目をみて約束した。そうすれば強張った母親の体からいくらか力が抜け、笑顔で見送ってもらうことに成功した。

 いろいろと儘ならないのだろう、と勝手に想像する。体が弱く、小さな娘と二人きり。町の人々の手を借りなければならない局面も多いはず。小さなリコでさえ周りの人々への迷惑を考え、遠慮してしまうぐらいなのだ。母親なら余計に周囲の目が気になってしまうはず――

 彼女たちのような住民をサポートするのも領主の仕事だろう。しっかりと勤め上げようと気合を入れ、未だセルジュに抱き上げられたままのリコに声をかけた。



「リコが探してる薬草はなんていうの?」


「え、えーっとね……コレ!」



 昨日、森の中で見せてもらった切り取られた一枚のページが差し出される。前回は暗い森の中だったのと緊急事態だったのとで、書いてある内容をほとんど読んでいなかったため、今日改めて文章に目を通す。



「グネイのおじさんが持ってきた薬草が、この絵によく似てたの!」



 リコの小さく柔らかそうな指がある薬草の絵を指さした。



(ハスラ草。……あれ? でもこれ、煎じて傷口に塗るといいって書いてあるけど……)



 どう考えてもリコの母親に適した薬草ではない。彼女が指さした場所が違うのかと思い、そのページに書かれた薬草の説明には全て目を通したが、いずれも切り傷や火傷といった外傷に効力を発揮する薬草だった。

 思わず、助けを求めるようにセルジュを見た。そうすれば彼は全てを察したように小さく頷いて、抱き上げていたリコをゆっくりと地面に降ろす。そして大きく腰を曲げ、できるかぎりリコと視線を合わせた。



「この薬草なら森の入口付近で採れたはずだ。三人で探そう」


「うん!」



 リコは大きく頷いて、軽い足取りで歩き始める。その後ろでセルジュは歩く速度を若干緩め、私を招きした。

 視線は前を行くリコに固定させたまま、セルジュの横に移動する。そうすれば彼は私の耳元でそっと囁いた。



「この町には学校がない。幼い子どもは育った家庭の環境によって、学力に大きな差が出る」



 町に学校がない。それは薄々察していたことではあった。

 そもそも子どもの数もそこまで多くない町だ。それに国内で最東の町に来てくれる教師を探すのは難しいだろう。

 ――そう分かっていたのに、想像がついていたのに、次の瞬間セルジュの口から放たれた言葉に私は思わず足を止めてしまった。



「リコは病気がちな母親につきっきりで……文字の読み書きができない」



 七つの子が、文字の読み書きができない。

 その事実は私に大きなショックを与えた。それと同時に、自分の想像力のなさを実感させられた。

 学ぶ場所がないのだから少し考えれば分かるはずだった。病弱な母親の世話をしているのだから、そんな時間はないと簡単に想像できるはずだった。それなのに私は、自分の常識にリコという異世界の少女を押し込み、彼女が文字を読めないことを不審に思い、危うく本人に間違いを指摘してしまうところだった。

 セルジュが教えてくれなければ、私は悪気なく小さな少女を辱め、傷つけてしまっていたことだろう。その事実にぞっとし、自身を恥ずかしく思った。



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