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七月三十一日 図かん


 いつもの帽子を手に取り家の外に出る。


「咲野さん」


 外で待っていた咲野に声をかけると、咲野はいつものように微笑んだ。


「行きましょうかね」


 今日の玲汰は咲野と買い物へ行くことになっている。靴ひもを結び直し、咲野の隣に並んで歩き出す。


「今日はどこまで行くんですか?」

「バスに乗って、少し遠くのお店まで行きますよ」


 家の近くには大きなスーパーマーケットがない。普段の買い物は鈴屋や近所の農家直販所などで十分間に合っていた。しかし特別な買い物をする必要があるときは車やバスに乗って出かける必要がある。自家用車を持っていない咲野と栄太郎。そんな彼らは大体バスに乗って出かけることとなる。玲汰がこの地に来た時も駅からバスに乗ってきた。玲汰はバス停までの道のりを歩きながら、約一週間前に歩いたこの場所を思い返す。相変わらずアスファルトは焼けている。


「何を買うんですか?」

「少しお洋服とか、衣料品を買いたいですね」


 玲汰の問いに咲野は、ふふ、と頬を緩める。


「バスに乗るのは、久しぶりです」


 玲汰は見えてきたバス停に向かって呟いた。


「ここのバスは、目が良くないと緊張します」

「どうしてですか?」

「乗ったところと、降りるところで、お金が変わるので、目が悪いとその案内が見えません。最初に乗るときも、紙を取らないといけないので、しっかり気を付けないと」


 玲汰の唇が深刻な様子で尖る。


「あら、うふふ。そうですね」


 咲野はそんな玲汰を見てくすくすと笑った。少年の真剣な眼差しが愛らしく鋭い。


「玲汰くんのところは一律料金ですものね」


 玲汰は咲野を見上げてぽかんとする。意味がよく分かっていないようだ。だからといって追及することもなく、しばらく待つとバスが見えてきた。


「来ました!」


 玲汰は座っていたベンチから飛び上がる。


「紙を取ります……」


 バスに乗り、玲汰はぶつぶつと呟きながら慎重に機械から吐き出された小さな紙を手に取った。小さな細長い紙には番号が書いてある。この番号を頼りにして前方にある料金表に表示された金額を降車時に支払う。


「咲野さん」


 玲汰は二人掛けの席を指差した。

 バスの中はまばらに人が乗っているだけで混んではいない。咲野に促され玲汰は窓側に座り、咲野もその隣に座った。窓の外を見ると、バス停の反対側は一面田んぼや緑が広がっていた。バスが発車するとともに流れ出したその広い景観を玲汰は食い入るように眺める。途中、建物が増えてきた。新たな景色に玲汰の瞳孔が広がると、咲野が声をかけてきた。


「次で降りますね」


 気づけば目的地に近づいていたようだ。全く長くは感じなかったが、実際のところバスに乗ってから四十分ほど経過している。


「押しますか?」


 咲野は窓枠についている降車を知らせるボタンを見てから玲汰を見やる。


「はい!」


 玲汰は元気良く頷きボタンに手を伸ばした。バスの中に音が鳴り響き、ボタンが赤く光る。玲汰はその灯りを嬉しそうに見つめる。小さいのに眩しい。

 バスを降りると、すぐそばには大きな建物があった。ピンクの壁のショッピングセンターだ。


「はぐれないようにしましょうね」


 咲野は玲汰に目配せをしてショッピングセンターに向かって歩き出した。


「うん」


 玲汰は頷きながら咲野に駆け寄る。

 ショッピングセンターに入ってすぐの一階は食品売り場だった。あちこちから賑やかな声が聞こえてくる。咲野は中央にあるエスカレーターまで真っ直ぐに進むと、そのまま三階まで上がって行った。そこは生活用品が売っているフロア。咲野はタオルをいくつかかごに入れると、次に子ども服売り場まで足を運ぶ。

 玲汰は横に広いショッピングセンターが初めてだった。とても遠くに見える向こう側の壁を見て少しだけ気分が昂る。


「玲汰くんのお洋服も買いましょうね」

「えっ」

「玲汰くん、たくさんお手伝いもしてくれるから、着替えも多い方が良いでしょう」

「いいんですか?」

「ええ。買わせてくださいな」


 玲汰にいくつかの服を重ね、咲野は玲汰に似合う服を選ぶ。服越しに見える咲野は楽しそうだった。玲汰の胸はまた痒くなる。嬉しくて、でも少し照れてしまう。


「玲汰くんはどれが良いですか?」


 咲野は玲汰にも服を選ばせてくれた。玲汰は控えめに一枚のTシャツを手に取る。


「あら、ステキですね」


 玲汰の手にしたキャラクターデザインのTシャツを受け取り咲野は口角を上げた。


「それじゃあお会計しましょうか」


 結局、買い物の内訳はほとんどが玲汰のものだった。一階に下り食料品を少し見た後で時間を確認する。


「バスまでまだ時間がありそうですね。玲汰くん、何か見たいものはありますか」


 玲汰は少しだけ考え込んだ。お金を持ってきていない。ゲームをするにしても何かを買うにしても、結局、咲野に払ってもらうことになってしまう。たくさん服を買ってもらったのに。それは気が引けた。


「……ぼくは」


 玲汰がぽつりと口を開くと、咲野はその気持ちを察し穏やかに笑った。


「いいのですよ。気を遣わないで」


 そう言って玲汰の頭を撫でる。玲汰は小さく頭を下げる。


「ぼく、本が見たいです」

「あら、いいですね」


 咲野は手を叩いて目を開く。そのまま玲汰の手を引き本屋のあるフロアまで連れて行く。本屋に入った玲汰はきょろきょろと辺りを見回し、気になる本のコーナーを探した。咲野は黙ってその後ろをついていく。

 玲汰にとっては広い本屋の中。少年は夢中になって本を探した。すべてを買えるわけではない。けれど好きな本を探すことがとても贅沢に感じる。たくさんの本が玲汰のことを待ち構えてくれているようだった。

 たくさんの表紙と目を合わせ、玲汰は一冊の本を手に取る。


「図鑑ですか?」


 咲野もその表紙をそっと見下ろす。


「はい」その手には昆虫図鑑を持っていた。

「今の家では、たくさんの虫を見ます。でも、ぼくは全然知らないから」

「ふふふ。知ろうとするのはいい事ですね」

「ぼく、知りたいこと沢山あります。きっとぼくが知らないこと、たくさんありますよね」


 玲汰は咲野を見上げた。その無垢な瞳に向かって、咲野は微笑みを向ける。


「そうしたら、これは一つの扉ですね」


 咲野は図鑑を玲汰から受け取りクスリと笑う。


「私から玲汰くんに知識をプレゼントさせてくださいな」

「でも、服も、買ってもらって」

「これは私の我儘だから、いいのよ」

「……ありがとうございます。ぼく、毎日図鑑読みます」

「ふふふ、気負わなくてもいいのですよ」


 咲野は図鑑を抱えたままレジに向かう。玲汰はぎゅっと拳を握りしめる。お礼がいいたい。もっと気持ちを伝えたい。けれど玲汰はありがとうの言葉以外で喜びを伝える術を知らない。やるせなくて、拳の力は次第に抜けていく。



 帰りのバスに乗っている間も玲汰は図鑑を抱きしめて離さなかった。絶対に落とさぬよう図鑑を抱えている彼の姿が微笑ましくて、咲野からは笑顔が剝がれなかった。

 家に帰ると早速、栄太郎が箪笥にしまおうとする玲汰の新しい服を褒めてくれた。


「玲汰くんはいいセンスをしているんですね」

「……ありがとうございます」

「おや、その本は?」


 栄太郎は玲汰が抱えている本を見て首を傾げる。


「昆虫図鑑です」

「おお! かっこいいねぇ」

「……ありがとうございます」


 玲汰は照れながら俯いた。


「私も読んでいいですか?」

「はい!」


 玲汰が目を輝かせて返事をしたとき、玄関の外から声が聞こえてくる。


「すみませーん!」


 聞いたことのない男の人の声だ。


「どなたかしら」


 買い物の片づけをしていた咲野が、いそいそと廊下に姿を現す。


「私が出るよ」


 栄太郎が立ち上がって歩き出したので、玲汰も何となくそれに続いた。


「はいはい、お待たせしました」


 玄関の扉を引くと、目の前には一人の男性が立っていた。褐色の肌に白いタンクトップを着て、細身で筋肉質な身体をしている。一見無造作な印象を受けるお洒落な髪型。優しく垂れた優しそうな目元とは反対に、全身を見ればワイルドな雰囲気を醸し出す。


「おや、ハスさん」


 栄太郎はこの男性を知っているようだ。一目見るなり明るい声を出した。


「こんにちは栄太郎さん」


 ハスさんはニヤッと笑って返事する。栄太郎の後ろに動く影が見え、玲汰の存在にも気づく。途端に彼は目を輝かせてしゃがみ込んだ。


「君が玲汰くんか!」

「こ、こんにちは」

「こんにちは。俺は羽須美はすみだ。ハスさんって呼んでくれて構わないからな」


 ハスさんは人懐っこい笑顔を振りまく。


「は、ハスさん……」

「そうだ! よろしくな!」


 ハスさんは玲汰の頭をガシッと撫でよく通る声で笑う。


「ハスさん、今日はどうされましたか」

「あっ。そうだよ」


 栄太郎の言葉にハスさんは勢いよく立ち上がる。


「今日は玲汰に見せたいものがあって」

「おや、なんですか」

「これだ!」


 ハスさんはじゃーん、と、手を広げて栄太郎と玲汰に玄関の外に置いてある物体を示した。


「……自転車、ですか?」栄太郎が呟く。

「そうです。玲汰くん使うかなって思って。あ、俺、自転車の修理とか、そういうのやってるんだよ」


 ぽかんとしている玲汰に向かってハスさんは補足する。


「いいんですか、ハスさん」

「勿論! 自転車があった方が聡たちともっといろいろ遊べるだろうし、便利かと思いまして」

「ありがとう、ハスさん。あなたは本当に気が利きますね」

「栄太郎さんほどじゃないよ」


 ハスさんは照れくさそうに歯を見せて笑う。


「玲汰くん、どうですか」


 栄太郎は会話に取り残されている玲汰を振り返って微笑みかける。


「あっ、玲汰、自転車乗れるよな?」


 黙ってしまった玲汰にハスさんは慌てて訊く。


「はい。でも……いいんですか?」


 恐る恐る玲汰が口を開いた。


「当たり前だろ。何言ってるんだ」


 ハスさんは玲汰の目線に合わせて膝を曲げてしゃがみ込む。ニッと笑えば真っ白な歯が覗く。


「俺からのウェルカムプレゼントだ」

「……プレゼント」


 本日二回目のプレゼント。玲汰は艶々とした自転車に視線を向けた。


「あらあら、ハスさん、ありがとうございます」


 玄関から聞こえてくる賑やかな会話に誘われ、いつの間にか咲野も玄関まで来ていた。


「いいえ。いつもお世話になっているので!」

「ふふふ。嬉しいわ」


 咲野とハスさんの穏やかな会話が始まった。玲汰はぎゅっと服の裾を握りしめる。


「あ、あの……!」


 少しひっくり返った大きな声。一同は同時に視線を玲汰に移す。


「ありがとう、ございます。ぼく……大事にします」


 普段は出さない声の大きさに自分でも驚いた玲汰は、そのまま少しずつトーンを落として話した。


「不具合あったらすぐに調整してやるから、いつでも言ってくれよな」


 ハスさんはこくこくと頷きながら玲汰の顔の前に拳を突き出した。


「うん!」


 その大きな拳に、小さな拳をこつんとぶつける。ハスさんは頼もしい眼差しを玲汰に向けて満足げにウインクした。


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