七月三十日 しけん
「玲汰! 迎えに来たぞ!」
聡の元気な声が玄関の方面から聞こえてくる。玲汰は咲野から水筒と帽子を受け取り、小さなかばんを肩から斜めにかけた。
「いってきます」
玲汰が顔を上げると、咲野は「いってらっしゃい」と微笑みを返す。今日は聡たちと近くの山に出かける予定だった。山とはいっても、子どもたちだけでも遊べるほどの小さな山。この辺りの子どもたちの遊び場の定番だった。
「お待たせ」
玲汰が外に出ると、聡と春乃、春昭がそれぞれ帽子を被って待っていた。聡はタオルを首から下げ、既に結構の汗をかいているようだった。
「じゃ、行くぞ」
聡の明るい笑顔に玲汰は頷く。
「玲汰は山とか行ったことある?」
「ないよ」
「東京だと何して遊ぶんだ? ゲームか? ゲームなら俺もやるぞ」
「外で遊んでいる子もいるよ」
「玲汰は?」
「ぼくは……あんまり」
「そっか。疲れたら言えよ」
聡は後ろを歩く春乃と春昭を気にかけながら時折歩を緩める。
「三人は、ずっと友達なの?」
「ん? 俺たちか? そうだな、家が近いから、ずっと一緒に遊んでるかも」
「へぇ……」
「玲汰も一緒な」
当たり前のように言う聡。玲汰は流れるままに自然と頷いていた。
「山って、遠いの?」
「いいや。学校の近くなんだけど、そんなに遠くないよ」
「大体三十分くらいだよー!」春乃が後ろから補足する。
「えっと、大丈夫だよな?」
聡が念を押すように玲汰に確認した。
「うん、大丈夫」玲汰は再び頷く。
「そこでは何をするの?」
「色々だな。でも今日はやること決まってるから。今日は玲汰をテストするぞ」
「て、てすと?」
玲汰は驚いた表情で聡を見上げる。
「そ。俺たちの秘密基地に入れていいか、テストするんだ」
「秘密基地?」
「なんだ、玲汰は秘密基地を持ってないのか?」
聡はピンと来ていない様子の玲汰を不思議に思い首を傾げた。
「クラスの子が、話してるのは聞いたことあるけど、ここにもあるの?」
「当たり前だろ。誰だって持ってるのかと思ってたぞ」
「そうなんだ」
「そしたらはじめての秘密基地だね!」
春乃の声が沸き上がる。
「玲汰ならいいじゃないの。なんでテストするの?」
「ばっか。決まりだろ。例外はなし」
聡は春乃を振り返り毅然とした様子で返す。
「えー。ケチ」「けちー」
春乃と春昭のブーイングも聞こえないふりをして、聡は玲汰に向き直る。
「いいよな、玲汰」
「ルールなんだよね」
「そ! ルールってものがないと、秘密基地も何もないよな!」
唯一の共感者を見つけ、聡は瞳を輝かせる。
「仲間でも、これだけは譲れないんだ」
「うん。ぼくやってみるよ」
「玲汰ー! お前、いい奴だな!」
聡は勢いよく玲汰の肩を抱く。玲汰の反応が相当嬉しかったようだ。春乃と春昭はやれやれと肩をすくめる。
春乃の言った通り、そこから三十分近く歩いた玲汰は、聡たちに連れられて小さな山に入った。たくさんの木の葉が頭上で揺れ、太陽の光が少しだけ緩んだように感じる。 木の影がとても涼しい。そよ風が服を揺らすと清々しい気持ちを覚える。
「玲汰、こっち!」
聡に呼ばれ玲汰は大木のそばまで走った。
「ほら、あそこ」
聡が木の上を指差したので玲汰はその指先を追った。見上げると、上の枝に黄色のリボンが結ばれているのが見えた。
「あのリボンを取る、それが秘密基地に入るテストだ!」
「木登りってこと?」
「そうだ!」聡はにっこりと笑う。
「聡、朝一でこのリボン結びに来たんだって」
春乃がリボンを見上げて呟いた。
「春乃、それは言うなって!」
「それもだめなの?」
「いいけど、できればだめ!」
聡の言葉に、春乃は納得できず眉をひそめる。
「玲汰、できるか?」玲汰の顔を覗き込む。
「やってみる」
そうは答えたものの、玲汰は木登りなどしたことはない。
「無理はしないでね」
春乃が心配そうに声をかけると、玲汰はゆっくり頷いた。鞄を下ろして聡に預け、玲汰は大木をじっと見つめた。
「がんばれ、玲汰。お前ならできる」
聡の声援を背に、玲汰は地面に飛び出している曲がりくねった大きな根に足を掛けた。木に足を押し付け、腕を伸ばして、どうにか届いた枝に飛び乗ろうとジャンプする。懸垂する要領で枝に乗り上げると、同じようにして丈夫そうな枝に次々と登っていく。
「玲汰いいぞ!」聡の声が下から聞こえた。
玲汰は下を見ようとしたが、怖くなりそうなので途中でやめた。上の景色だけに集中する。そのままリボンに向かって着実に、ゆっくりと登り続ける。
あと少し。あと一つ枝を登ればリボンが結ばれている枝に手が届く。玲汰は急ぐ気持ちを押さえながら慎重に枝に手をかけた。
「やったぞ!」
聡の声が下から響く。姿は見なかったが、恐らくガッツポーズをしている。そんな気合いの入った声に聞こえた。
玲汰はリボンの結びを解き、大事に握りしめて眼下にいるみんなに見せようとする。下を見てしまったが、もう怖くはなかった。
大木の下では三人が嬉しそうに飛び跳ねていた。それを見た玲汰の表情に喜びが滲む。リボンを握る自分の手をよく見ると汗でびっしょり濡れていた。こんなに汗をかいたのは初めてだ。玲汰は色が変わってしまったリボンを見てまた笑う。
はじめての秘密基地が待っている。まだ知り得ぬ興奮に心が躍った。
木から降りてすぐに、聡が嬉しそうに玲汰に抱きつく。
「これで玲汰も秘密基地のメンバーだ!」
やはりまだくすぐったい。玲汰は小さな声で、ありがとう、と答える。
「秘密基地はこの近くにあるんだ、早速行こうぜ」
「玲汰、おつかれさま。怪我はない?」
春乃と春昭も玲汰を歓迎する。春乃は黄色のリボンを右手首に結んでくれた。
「はじめてなのに凄いね」
「ありがとう……」
玲汰は結んでくれたリボンをしばらくじっと見た後で聡の後を追う。もうしばらく山の中を進むと、開けた場所に辿り着いた。木の数が少し少ない場所だからか少し視界が明るく感じる。それでも木の葉の影は途絶えなかった。空間抜けると、また大きな木が姿を現す。
「あの上だ」
聡がその大きな木を指差す。木は、中間よりも低い位置で二股に分かれ、近くのもう一本の木と一体化しているようだった。木の幹がぶつかり合った箇所にはぽっかりと空間が空いている。その空間に区切られた柵が見えた。よく見れば柵の向こうには木目の床がある。森の中のロフト。まさに大きな鳥の巣のような場所が作られている。
「もしかして……?」
「うん。あそこだよ」春乃が頷いた。
「すごい……」
想像もしていなかった木の中の秘密基地に玲汰は目を輝かせる。
「低いけど、木の上にあるから、木登りが出来ないと」
春乃が、へへへと唇を緩めて笑う。玲汰はそこでようやく試験の意味を知ったような気がした。
「玲汰、来いよ!」
聡が大きく腕を振り回す。玲汰は駆け足で木のそばに寄った。
「合言葉は“鬼ヶ島に連れてけ”だからな」
「合言葉?」
「それを言わないと、入れられないんだ」
「……鬼ヶ島に連れてけ」
「そらきた!」
すでに幹に足をかけていた聡はニヤリと笑い、真っすぐ手を伸ばしてきた。玲汰が首を傾げたので、聡は伸ばした腕を上下に小さく揺らした。
「これからよろしくな、玲汰!」
聡は眉をきりりと上げる。玲汰は差し出された手を取り握り返す。
「うん! よろしく……!」
そしてぎこちなく握手した手を揺らした。手首に結んだリボンも動きに合わせて揺れる。
はじめての秘密基地は、子どもであれば六人くらいは入れそうな広さがあった。誰かが作ってくれたのであろう木の床に、玲汰は足を下ろす。なんだか宇宙船に乗るような気分だ。この秘密基地に乗ってどこかへ行けるわけでもないが、玲汰の気が大きくなっていく。何故かこの場所なら何でもできるような気分になるのだ。気持ちがそわそわして、いてもたってもいられない。派手なものではない。でも確実に高揚感がある。
玲汰は柵から顔を出し外を見る。先ほどまで歩いてきた道が、まるで別物のように瞳に映る。見る角度を変えただけなのに、世界が全く変わってしまったようだった。
玲汰はその景色を宝物を見るような眼差しでしばらくの間見つめ続けた。