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八月三十一日 ふるさと


 「玲汰くん、準備、終わったのですね」


 咲野の穏やかな顔が部屋を覗き込む。


「はい」


 玲汰はリュックをちらりと横目で見て、瞼を落として答えた。


「晃志さん、夕方より前にいらっしゃるそうですよ」

「はい」


 立ち上がった玲汰は咲野のもとまで歩く。


「それまで、まだ時間があります。ぼく、何かお手伝いしたいです」


 純朴な眼差しで自分を見上げる玲汰に咲野は微笑みかける。


「そうですねぇ。玲汰くんは一杯お手伝いをしてくれましたからねぇ。何かあるかしら?」


 ふんわりと考える咲野は困ったように眉尻を下げた。


「ぼく、なんでもやりますよ!」

「ふふふふ」


 玲汰が両手を上げて気合を入れた時、ちょうど玄関が開く音がして澄郎が顔を出す。


「こんにちは」

「澄郎さんこんにちは!」


 玲汰が元気良く挨拶をすると、澄郎はニカっと笑った。


「薪、持ってきましたよ」

「あら、ありがとうございます」


 咲野が澄郎から薪を受け取ろうと歩き出すと、玲汰がそれを抜かすように急いで咲野の横を駆け抜けた。


「ぼくが運びます!」


 丸い瞳で澄郎を見上げ、玲汰は澄郎から薪を受け取る。


「気をつけてな」


 澄郎は玲汰が薪を抱え込むのを支えながらそう声をかけた。


「任せてください!」

「おっ、頼もしいな」


 澄郎はニコニコ笑っている玲汰を見て口笛を鳴らす。


「えへへへ。お風呂のことは、ぼくに任せてくださいね」

「ふふふ。すっかり上手になりましたね」


 咲野は薪を外に置くためにご機嫌な顔で玄関を出て行く玲汰を優しい眼差しで見送る。


「玲汰」


 薪を釜戸の近くに置いた玲汰の後ろを澄郎が追いかけてきた。


「お前、すっかり逞しくなったな」


 そう言ってしゃがみこみ、大きな手で玲汰の頭を優しく掴んで撫でる。


「澄郎さんに少しは近づけましたか?」

「ははは。うかうかしてられないな!上出来だ!」


 恥ずかしそうに笑う玲汰は澄郎の大きな手を見上げた。このごつごつとした澄郎の働く手にいつしか玲汰は憧れを抱くようになっていた。


「ぼく、澄郎さんに負けないくらいおっきくなります!」

「いいぞ玲汰。ここで待ってるからな」


 澄郎は立ち上がり、自分の目線に掌をかざしてニヤリと笑う。


「その前に聡を追い抜かないと」

「確かにな。でも、玲汰もすぐに追いつくさ」

「……はい!」

「元気でな、玲汰」


 澄郎は右腕を曲げてずいっと前に突き出す。


「澄郎さんも!」


 玲汰は筋肉質なその腕に向かって自分の右腕を同じように突き出し、精一杯の力でタッチした。

 澄郎と別れた後、玲汰が居間に向かうと栄太郎が本を読んでいた。


「玲汰くん、ちょうど良かった」


 栄太郎が頬を綻ばせたので、玲汰は軽い足取りで栄太郎の隣に座る。栄太郎の顔を嬉しそうに見ている玲汰。栄太郎は読んでいた本を渡そうと、そっと表紙を見せた。


「これ、玲汰くんのでしたよね。こちらに置いてあったので、ついつい読んでしまいました」


 差し出されたのは咲野に買ってもらった図鑑だった。


「あ!」玲汰は気が付いたように声を出す。

「ふふふ。たくさん虫のお勉強ができましたね」

「はい!  ぼく、とっても虫が好きになりました!  カブトムシも捕まえられて、本当に嬉しかったです」

「あのカブトムシさんも、きっと元気にしていますよ」


 玲汰が捕まえたカブトムシは虫相撲の後、山へと帰した。玲汰はその時のことを思い返して満足そうに首を縦に振る。


「この本、あちらでも大事に読みます」

「ええ、もっともっと詳しくなって、また私に教えてください」

「はい!」


 玲汰は図鑑をぎゅっと抱きしめる。するとまた来客の声が玄関から聞こえてきた。この声は恐らくハスさんだ。玲汰は栄太郎と一緒に玄関に向かった。


「よう玲汰!」


 やっぱりハスさんだった。相変わらずお洒落な髪型をしている。


「玲汰、こいつはどうだった?」


 玄関の前に置いてある自転車を見て、ハスさんは玲汰に尋ねた。


「最高でした。自転車のおかげで、莉久たちにも会いに行けたし、たくさん、この町を遊べました。乗り心地も良かったです!」

「それは良かった」


 ハスさんは玲汰の返事を聞いてニッと口角を滑らかに上げる。


「まぁ俺のところの自転車だから、性能がいいのは当然だけどな」


 誇らしげに自転車を撫で、玲汰の方を向く。


「この自転車、今日一旦俺のところに引き上げるけど、玲汰専用機として取っておくからな。また乗ってやってくれよ」

「え? でもいいんですか?」


 玲汰は当たり前のように言うハスさんを心配するように首を傾げる。


「いいんだって。売り物はたくさんあるし、もうこれは玲汰の物だしな。あー、でも……」

「でも?」


 玲汰はごくりと唾を飲み込む。


「玲汰がもう少し大きくなったら、このサイズじゃ無理かもな」


 ハスさんは困ったような顔をして笑った。声も困ってはいたが、どこか嬉しそうに聞こえた。


「その時は違う自転車で我慢してくれよな」


 玲汰はまっすぐに自分を見てくるハスさんの瞳をじっと見つめ返す。


「うん!」そしてまん丸の笑顔を見せた。

「じゃあ玲汰、またな」

「はい! またな、です!」


 玲汰はハスさんとグータッチする。大きく手を振り、爽やかな笑顔で帰っていくその姿を見送った。


「今日は、賑やかですねぇ」


 栄太郎は感慨深げに呟いて目を細めて微笑んだ。



 支度を終え、来客も帰ってしまった玲汰は縁側に座って空を眺める。両隣には咲野と栄太郎が同じようにして座っていた。はじめてここに来た日を玲汰は思い出した。

 もうずっと前のことのように感じる。今日ここを離れるなんて未だに実感が湧かなかった。それでも時間は刻一刻と過ぎ去り、もうじき晃志がやって来る。晃志のことも大好きだが、今日はその顔を見るのが惜しかった。


「玲汰くん」


 静かに流れる時の中、栄太郎の声が響く。玲汰は左を見た。栄太郎が青空を見上げて穏やかに微笑んでいる。


「今日も空が綺麗ですね」

「はい」


 玲汰は栄太郎の見ている空を追った。青い空と白い雲。そのコントラストが玲汰に強烈に突き刺さる。あの時と同じ、遥か高くに広がっていく空。


「ぼくは……」


 玲汰はぐっと自分の半ズボンの裾を握りしめる。


「ぼく、咲野さんと栄太郎さんのこと、大好きです」


 ぽつりと呟いた。不思議と心は落ち着いていく。


「一緒に暮らせて、ぼくはたくさんのことを貰いました。勉強もできました。ぼくは、この町で、たくさんのはじめてのことに出会いました。聡たちと遊んだりして、本当に楽しかった。澄郎さんやハスさんのことも、かっこよくて憧れました。だけど、何より、二人がいたから。いつでも帰ってこれる家があったから、ぼくは冒険ができました。どうしてだろうって思ったんですけど、やっぱり、二人の笑顔が見れるから、二人が見ていてくれるから、ぼくは、色々なことをやろう! って思えたんです。ぼくはできないことばかりだけど、何もできないけど、それでも、二人が傍にいてくれるから、何だって出来るって、そう思えて」


 すぅっと息を吸うと、胸が広がっていった。言いたいことがありすぎて言葉はうまくまとまってくれない。それでもこの気持ちのことはしっかりと伝えたい。


「ぼくは、貰ってばっかりだって、思ってました。ぼくは……」


 玲汰はもう一度空を見上げた。


「だから、ぼくは、ありがとうって言葉だけじゃ足りないって思うんです。だけど、ぼくはそれしか知らない」


 栄太郎と咲野の顔を交互に見て、玲汰は頬を緩ませる。


「それでもいい、それでも、ちゃんと伝わるのなら、それでいいでしょうか?」


 栄太郎と咲野は一生懸命に話す玲汰を優しい眼差しで見つめていた。


「咲野さん、栄太郎さん、本当に、ありがとうございます」


 玲汰は一歩後ろに下がって二人に向かって頭を下げた。


「玲汰くん」


 咲野が優しくその頭を撫でると、玲汰の瞳が温かくなってくる。


「こちらこそ、ありがとうございます」


 咲野の声が玲汰を包み込むように降ってきた。


「玲汰くんが来てから、ずっと、私たちの心はあの空のようでした。真っ直ぐに澄んでいて、まっさらで、それでいて凛とした力強さが漲り、心を弾ませてくれる。きらきらと、輝かせてくれていました」


 栄太郎は掌をかざし、愛おしそうに太陽を見上げる。


「玲汰くんのおかげです。とても、とても懐かしい、夏休みを過ごせましたよ」


 柔らかい表情にはどこか愁いを感じた。


「そうですよ、玲汰くん。私たち、玲汰くんと出会えて、本当に楽しかったです。玲汰くんから、私たちは元気を貰っていましたよ」


 咲野は穏やかに笑う。彼女の目元もまた、まだ名残惜しさを帯びていた。


「玲汰くん」


 まだ顔を上げられない玲汰に二人は優しく手を差し伸べる。


「私たちも、玲汰くんが大好きです」


 涙で濡れた瞳を玲汰はその手に向けた。暖かい温もりが、その表情から伝わってくる。玲汰は二人に思いきって抱きついた。受け止めてくれた二人の腕はとても細く、か弱い。しかしどんなに脆くとも、しっかりと玲汰のことを支えてくれた。



 晃志が来ると、玲汰は荷物を持って玄関に向かった。

 もう行かなくてはならない。玲汰は外に出て後ろを振り返る。

 見慣れた家。古いけれど、彼らの営みを見守ってくれている。


「晃志さん」


 玲汰は急いでリュックから何かを取り出した。


「撮ってもらえますか?」

「写真? はは、いいな」


 晃志は玲汰から快くカメラを受け取ると、家の前に並んだ三人の姿をファインダーに収めてシャッターを切る。


「うん、いい写真だと思うぞ。戻ったら現像しような」


 自画自賛しながら、晃志は玲汰にカメラを返す。咲野と栄太郎はその様子を嬉しそうに見ていた。


「それじゃあ……」


 晃志は見送りに外まで出てきた咲野と栄太郎を振り返った。晃志もどこか名残惜しい気持ちを隠せていない。


「はい。長旅でしょうから、気を付けてくださいね」


 栄太郎がいつものように微笑んだ。


「二人とも、向こうでも元気で過ごしてくださいね。無理はしないでね」


 咲野もにっこりと微笑む。


「はい。ありがとうございます。お二人も、お元気で。また来ますね。ほら、玲汰も」


 晃志に促され、玲汰は二人の前に一歩出る。


「……ありがとうございました! 行ってきます!」


 玲汰は精一杯の笑顔を見せた。大きな声。気合いの入った表情。咲野と栄太郎は顔を見合わせ、くすくすと笑う。


「はい、いってらっしゃい……!」


 愛おしそうに玲汰を瞳に入れ、優しく手を振る。玲汰も歩き出した晃志の手に引かれ、二人に手を振りながら前に進み始めた。

 少しずつ二人の姿が小さくなっていく。まだ手を振っているのが見える。玲汰は後ろを振り返りながらそれに返し続けた。


 また小さくなっていく。もうすぐ見えなくなってしまう。

 玲汰は目を凝らしてその姿を捉え続けた。もう二人からは見えていないかもしれない。けれど。豆粒となっていく彼方で、栄太郎が目頭を押さえているのが見えた気がした。それを見た玲汰の晃志とつないだ手にぐっと力が入る。


 二人の姿はもう見えない。

 玲汰は前を向き、とぼとぼと歩いていく。

 元気がなくなった玲汰に気づいた晃志は、その表情を伺うようにして玲汰を覗き込む。


「玲汰」


 明らかに落ち込んでいるように見える玲汰に晃志は声をかけた。


「いいんだぞ。我慢しなくて」


 さり気ない言葉が合図となり玲汰の目から大粒の涙が零れだす。次々に流れるその涙を玲汰も止めようとはしなかった。


「ほら、玲汰」


 晃志は前が見えなくなった玲汰を抱き上げ、そのぐしゃぐしゃの顔を優しく見守るように微笑んだ。


「よく見て見ろ」


 町がよく見えるように少し玲汰を上に持ち上げる。


「この町、楽しかったか?」

「…………うん」

「たくさん、遊べたか?」

「……うん」

「そうか……!」


  涙を服の袖で拭いている玲汰に向かって晃志は嬉しそうに笑いかけた。


「玲汰、ここはもう、お前の故郷だ」

「ふるさと……?」

「だから、いつでも帰ってきていいんだからな」


 晃志の励ますような表情に、玲汰はもう一度町を見渡した。たくさんの緑と広すぎるほどの空が無限に頭上を伸びていく。山に囲まれ綺麗に整備された畑が並び、小川と田んぼがきらきらと輝いている。古い家と新しい家が混ざり合い、そこからは誰かの生活音が聞こえてくる。

 ふと、爽やかな風が玲汰の頬を撫でた。玲汰は景色に吸い込まれそうなほど目を開いた。

 ふるさと。愛おしい景色を瞳に焼き付ける。

 ここでの記憶ひとつひとつが結びつき、どれもが宝物のようにきらめいた。


「……うん!」


 玲汰は真っ赤な瞳のまま、晃志に向かって誇らしげな笑顔を向けた。

 この町はいつだって心を弾ませてくれる。玲汰は強い自信を抱く。

 電車に乗り、玲汰は窓際に座る。もうすぐ発車時刻。玲汰はリュックから薄いラミネート加工された栞をおもむろに取り出す。


「なんだ? それ」


 残りの荷物を荷棚に上げた晃志が隣に座った。


「おまもりです」

「お守り?」


 晃志は玲汰が大事そうに見つめているそれを見やる。中には四つ葉のクローバーが挟まっていた。


「はい!」


 玲汰は幸せそうな笑顔で頷く。発車のベルが鳴り、電車は次第に動き始める。ゆっくりと流れていく車窓は少しずつ加速していった。

 夏を彩った情景がどんどん離れていく。

 玲汰はぎゅっと栞を両手で握りしめる。

 大丈夫。

 流れていく車窓を見ながら、玲汰は力を抜いて微笑んだ。

 この場所へ、また戻ってこよう。すぐには無理でも、きっと、また。

 心は何故だか穏やかだった。あんなに怖くて、寂しかったのが嘘のようだ。


 どうしてなのか、玲汰はもう分かっていた。

 明瞭に、玲汰を送り出す景色が教えてくれる。背中を押して、励ましてくれる場所。ここは、ぼくのふるさとなのだ。



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