八月二十七日 ボトルシップ
玲汰は今日もペチュニアの前で正座して水をやる。予想よりも長く咲いてくれるこの花に、玲汰は感謝の気持ちでいっぱいだった。いつ見ても微笑んでくれる姿が愛おしくてたまらない。
「玲汰くん、お客様ですよ」
そこへ咲野が玲汰を呼びに来た。
「待っていました!」
玲汰は嬉しそうに立ち上がり、急いで玄関まで駆け抜けた。
ようやくお披露目できる。この時を待ちわびていた。
「いらっしゃいませ!」
勢いよく飛び出してきた玲汰の圧に押され、靴を脱ごうとしていた来客は思わずよろけてしまう。
「玲汰くん、今日も元気だね」
来客は優しい目元を緩ませ、壁についた手を離す。
「リューちゃん、こんにちは」
玲汰は来客のリューちゃんに近寄ると、小さく跳ねる。
「お邪魔するね」
「はい!」
今日のリューちゃんは眼鏡をかけていなかったせいか表情がよく見えた。いつもより明るい雰囲気だ。
「おやおや、リューちゃん、お久しぶりだね」
部屋から顔を出した栄太郎が会釈する。
「栄太郎さんお久しぶりです。今日は、玲汰くんのお花を見に来ました」
「そうですか、それは楽しみですね」
「はい」
「ということは……ボトルの方は、完成したのかな?」
「そうなんです! この後、玲汰くんを僕の家まで招待しますね」
「それは良いですね」
リューちゃんは栄太郎と会話を交わしながら、隣でニコニコしている玲汰をちらっと見やる。
「今回は、最近の中でもなかなか良い出来なんだ」
「ふふふふ。楽しみです!」
玲汰がリューちゃんを見上げると、リューちゃんは照れたような笑顔を滲ませた。
居間へ向かうと咲野がリューちゃんのお茶を出す。
「また出かけるのでしょうから、ちゃんと飲んで行ってね」
「ありがとうございます」
リューちゃんは遠慮なくコップを手に取ると、一気に半分まで飲んだ。
「リューちゃん」
その間に玲汰はペチュニアを机まで持ってくる。
「わぁ、綺麗な花!」
それを見たリューちゃんは華やかな声を出した。
「こんなに綺麗に咲くんだね」
「えへへへ」
「玲汰くん、筋がいいんじゃないの?」
「そうだったら嬉しいです」
目を大きく見開き、ペチュニアをよく見ようとするリューちゃんの姿が嬉しくて、玲汰はくすくすと小さく笑う。
「ほんと、玲汰くんみたいに可愛い花だね。思った通り」
「ぼく?」
「そう。初めて玲汰くんをお花屋さんで見た時、周りの花がよく似合うなって思ったんだ。小さな玲汰くんに、ぴったりな花たち。玲汰くんも紛れちゃいそうだった。花と同じくらい可愛くて」
リューちゃんはその時を思い出すように黒目を斜め上に動かす。
「あの時、玲汰くんってまだ小さくてかわいいなーって思ったんだけど、でも玲汰くんは、本当はつよくて、優しくて、 このペチュニアと同じくらい、 しっかりと自分を咲かしていたんだよね」
「ぼく弱いけどな」
「はははは。そんなことないよ」
リューちゃんはもう一度ペチュニアを覗き込む。
「だからこのお花も、玲汰くんにぴったりだよ」
「本当?」
「うん。ちゃんと、自分の芯でそこにいるよね」
リューちゃんの話を聞いていた咲野は穏やかに微笑んだ。
玲汰はじっと自分のペチュニアを見つめる。
この花と自分は同じ。そんなこと考えたこともなかった。けれど一緒に過ごしてきた時間はペチュニアと共有してきた日々だ。そういうことならば、やっぱり似てくるのかもしれない。
玲汰は難しいことは考えず、家族のようなその花に笑いかける。
「ぼくたち似てるって」
玲汰の嬉しそうな声にリューちゃんと咲野も笑顔を誘われた。
しばらくして、玲汰はリューちゃんの家に向かうために家を出た。歩いて十五分ほどのところにリューちゃんは住んでいるらしい。
「学校までは、自転車?」
玲汰は手をつないで歩くリューちゃんに尋ねる。
「そうだよ。玲汰くんもおなじみのハスさん製だよ」
「ハスさん、みんなの自転車の親分ですね」
「ははは。確かに。ハスさんにはお世話になっちゃうよね」
リューちゃんは楽しそうに笑った。
「あ、玲汰くん、ここだよ」
そして目の前に近づいてきた家を指差し、玲汰に教える。
「大きな家ですね」
玲汰は目の前に現れたモデルハウスのような大きな家に目を丸くした。
「二世帯だからね。おばあちゃんたちと住んでいるから」
リューちゃんはそう言うと家の門を開けた。
「さぁ玲汰くん。今度は僕がおもてなしをする番だね」
「……お邪魔します!」
玲汰はつないでいた手を離して丁寧に一礼する。
「はい。いらっしゃい」
リューちゃんはそんな玲汰の様子がおかしくて、くすっと笑いながら玲汰を迎え入れた。
部屋は二階にある。玲汰はリューちゃんに言われた通りに階段を上がった。ちょうどリューちゃんの母親がマドレーヌを焼いていて、家の中は洋菓子店のような甘い香りに満ちている。
「さぁどうぞ」
リューちゃんが部屋の扉を開ける。部屋の中も広く、玲汰はそのことにまず驚いてしまう。しかしよく見ると、壁に並んだ大きな棚には綺麗に整理されたボトルシップがびっしりと並んでいた。窓際に作業スペースらしき机が置いてあり、その上には道具が無造作に転がっている。棚がない方の壁にはいくつかの船のポスターや絵画が飾られていた。
「リューちゃん、ここがお部屋なの?」
まるで博物館か専門店に来たと錯覚する光景に玲汰は目を丸くする。
「そうだよ。完全に趣味が丸出しだよね」
リューちゃんは少し恥ずかしそうに頭を掻く。
「僕はもともと船が好きで、それが、こうなっていったんだ」
そう言って笑うと、ベッドの前に置いてある一人がけのソファに玲汰を誘導した。埋もれるようにソファに座った玲汰はもう一度部屋を見回した。大小さまざまなボトルシップの中には多種多様な船が納められている。
「これ、全部リューちゃんが?」
「うん。小学生のころから作り始めたから、変なのもいっぱいあるけど」
「でも、どれも凄いです」
「ありがとう。そう言ってもらえると、すごく嬉しい」
リューちゃんは棚から一つボトルを手に取った。
「これが、今回の新作」
ソファの前に机を置き、リューちゃんは慎重にボトルを置く。飾られたボトルの中で言えば中くらいのサイズの作品。透明のガラスの中に蒼く透き通る海の世界が広がっていた。煌めく青色の上に浮かんでいたのは美しい曲線の帆船だった。ゴンドラを模した船体の上にたなびく帆も一枚一枚美しい文様が描かれている。
「すごい! こんな船見たことないです」
玲汰は初めて見るボトルシップに見惚れていく。
「最初は海賊船をつくろうと思ったんだけど、やっぱりゴンドラをベースにしようと思ってね。たしかに、こんな船あんまりないかもしれないね」
リューちゃんは玲汰と向かい合うために床に座り、魅入っている玲汰に説明する。
「ゴンドラだけじゃ物足りないから、オリジナルの帆船にしたんだ」
「どうして海賊船はやめたの?」
「これまでも作って来たってのもあるけど、ちょっと気が変わってね。どこまででも旅をしたくなるような相棒の船をつくろうって思って」
リューちゃんはオリジナルの船を愛おしそうに見つめる。
「この世界って、海で大陸が繋がっているから船があればどこまでも旅していける。自由気ままに。そんな世界に憧れたんだ。実際は大変なことばっかりなんだけど。でも、それでもこの船には、たくさんの希望と出会いが待っているからさ。僕はボトルシップをつくることでそういう世界を描いていたいんだ」
「作るときに、いつも世界を描いているんですか?」
玲汰はきょとんとした顔で訊く。
「うん。物語を考えながらね。今回ももちろん考えていたよ」
「どんな?」
玲汰は興味津々の瞳でリューちゃんを見た。
「これから、どこへでも好きなところへ行ける。そんな旅の始まりだよ」
リューちゃんがにっこりと笑って玲汰に返す。
「そこで、たくさんの出会いと発見があるんだ。そうして、どんどん世界が広がって、多くの可能性を知る人へと成長していく。自分の世界を変えてしまえるほどの、素晴らしい心を持ってね」
「旅って、なんだか楽しそうですね」
「きっと楽しいよ」
ボトルシップに目を向け、リューちゃんは中央の一番上に張ってある帆を指差す。
「これは、玲汰くんをイメージしたんだ」
「ぼく?」
帆に描かれていたのは可愛らしい花だった。
「これは玲汰くんの船だよ」
「ぼくの?」
「玲汰くんに出会えた記念。僕にとっては挑戦的なデザインになったけど、最高の一作になった」
リューちゃんは玲汰の顔を見て得意気に微笑む。まだ少年の面影が残るリューちゃんの表情が、いつもよりきりっとして見えて少し大人びて見えた。
「僕に最高の作品をつくる機会をくれて、ありがとう、玲汰くん」
くしゃっと笑えば、またいつものリューちゃんの顔に戻る。
「繊細過ぎてあげられないんだけど、これは僕と玲汰くんの共作だよ」
「ぼく、何もしてないのに」
「玲汰くんがいなかったらできなかった作品だから、何もしてないわけじゃないよ」
リューちゃんがそう答えると、下の階から息子を呼ぶ母の声が響く。
「あ、お菓子ができたみたい。玲汰くん、食べに行こう?」
リューちゃんはお腹を押さえてはにかむ。
「うん」
立ち上がる途中、玲汰は机に置かれたボトルシップに視線を流す。美しいその作品に玲汰は心が湧いてくるのを感じる。
自分の船。瞳の中で、船が大海原に向かって動き出す。玲汰は旅をしたことがない。だから旅を知らない。けれど、そんなことは関係なく心が躍る。まるで、ずっとずっと旅を経験してきたような気がしてしまう。玲汰の思考が心地良い疑問に包まれる。リューちゃんはどうしてこんな船がつくれるのだろうか。
無性に懐かしくて、どこか素晴らしいところへと導いてくれるようなものを。
「リューちゃん!」
玲汰は部屋を出ようとするリューちゃんを呼び止めた。
「この船、とってもかっこいいです!」
玲汰の言葉に応えるように、リューちゃんは精悍な表情で親指を立てる。