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八月二十二日 カブトムシ


 その日、玲汰は朝から歓喜の声を上げた。


「栄太郎さん!」


 急いで栄太郎のもとに駆け寄り、玲汰は虫かごを得意げに見せる。


「ついに! やりました!」


 玲汰の嬉しそうな声は、声に出すのも惜しいといったくらい高々だった。


「おお、ついに、来てくれましたか」


 栄太郎は虫かごの中を見ると、玲汰に負けないくらい明るく笑う。


「はい! カブトムシです!」


 虫かごを大事そうに掲げた玲汰は、中にいる焦げ茶色の胴体を光らせたカブトムシを見やる。


「えへへ、やっと捕まえられました」

「そうですねぇ。なかなか来てくれませんでしたものね」


 栄太郎は木に蜜を塗り続けた日々を思い返す。塗り忘れた日もあったが、なかなかカブトムシは思うようには姿を現してくれなかったのだ。


「玲汰くん」


 そこへ咲野が手を拭きながらやってきた。台所で洗い物をしていたようだ。


「時間に遅れてしまいますよ」


 優しく教えてくれた咲野の顔を見ていた玲汰はハッと表情を開く。


「そうでした!」


 玲汰は虫かごを机にそっと置き、ばたばたと自分の部屋へと戻っていった。慌ただしい玲汰の様子を見て、咲野と栄太郎はくすくすと笑った。

 もうすぐ聡たちとの約束の時間だ。今日は莉久たちも一緒に遊ぶ予定になっている。玲汰は急いで支度して自転車を走らせた。

 恭平の寺に着くと、まだ聡は来ていないようだった。


「玲汰、こっちきて涼もうぜ」


 恭平が手招きして寺の本堂に呼ぶ。中に入ると、莉久と春乃が右側の濡縁に座ってカードゲームをしていた。


「玲汰、待ってたよー!」


 春昭がとてとてと走ってきて玲汰に抱きつく。


「玲汰も一緒に折り紙しよう?」


 そのまま玲汰の手を引いて中央の机まで連行する。


「折り紙してるの?」

「うん。ぼく、手先が器用だって褒められてうれしくてさ。だから恭平にいろいろ教えてもらってるんだ」

「俺、こう見えてもこういうの得意なんだよ」


 恭平は鼻高々に得意げに頬杖をつく。


「玲汰は折り紙得意?」

「うーん。そこまででも……」

「じゃあぼくが教えてあげるね!」


 玲汰の返事に春昭は自信満々に胸を叩いた。


「お、はじめてのお弟子さんだな」


 恭平は赤色の折り紙を手に取ると、春昭を囃し立てるように言う。


「ぼく、やっとししょーになれる!」

「お手柔らかにお願いします」


 春昭の誇らしげな表情に向かって玲汰はそっと頭を下げた。


「知ってる? 折り紙で虫も作れるんだよ」

「そうなの?」

「うん。カブトムシとかオオカブトとか」

「かっこいいね」

「玲汰は何が折りたい?」

「ぼくは、カブトムシかなぁ」

「じゃあ、好きな色の折り紙取ってね」


 春昭は三十枚近くある折り紙を指差す。


「えっと……」


 玲汰はその中から、今朝捕まえたカブトムシをイメージした色を手に取った。


「じゃあはじめましょう!」


 春昭の言葉に従い、玲汰は折り紙を折り始める。


「ぼくも虫相撲してみたいなぁ」


 折りながら春昭がぽつりと呟く。


「はるくんも捕まえてくる?」

「でも捕まえた虫が傷つくのも嫌な気もするんだよね」


 恭平の言葉に春昭は複雑そうな顔をした。


「聡とか莉久の相棒は、とてもかっこいいんだけど、ぼくは見てる方が楽しいかもしれない。でも、やってみたいんだよなぁ」

「はははは。どっちなんだよ」

「玲汰は?」春昭は顔を上げて玲汰を見る。

「ぼくは……」


 虫かごの中に入っていたカブトムシを思い出し、玲汰は天井を見上げた。


「今日ね、カブトムシ捕まえたんだ」

「えっ⁉」玲汰の発言に春昭は手を止めた。

「やったな玲汰」


 恭平はにっこり笑って玲汰を称え、ささやかに拍手する。


「ありがとう。ぼくは、どうだろうなぁ。せっかくだし、一回くらい挑戦してみたいかも」

「いいぞー。玲汰」


 恭平はけらけらと笑いながらもあっという間にヘラクレスオオカブトを完成させた。


「恭平、はやい!」


 春昭は羨望の眼差しで恭平に注目する。


「はるくんの師匠は俺だからな」

「玲汰、こっちも負けないよ」

「了解です」

「ははは。競争じゃあないんだから」


 恭平はスイッチが入ったように急ピッチで折り紙の作業に取り掛かる二人を見て、眉尻を下げた。

 カブトムシを折り終えた頃、元気のない足取りでようやく聡が本堂に入ってきた。


「どうしたの?」


 しょんぼりと肩を落とし、暗い表情の聡を見て春乃が心配そうに声をかける。


「いや……」


 聡は顔を上げて春乃を見る。隣にいる莉久の顔が視界に入り、表情が歪んでいく。ぎょっとした莉久と春乃は慌てて聡に駆け寄った。玲汰たちは机を囲ったまま、その様子をじっと見守る。


「トリケラが…………死んだ」


 絞り出てきた聡の声に本堂は一斉に沈黙した。


「え? なんで?」


 春乃が恐る恐る口を開く。


「俺が悪いんだ。かご開けっ放しにしてて。母さんが、間違えて……つ、つぶし……」


 聡は声を震わせる。今にも泣きそうな瞳は、彼が持ちうるすべての力を総動員して、涙がこぼれるのをどうにか堪えていた。


「そ、それは……」


 かける言葉が見つからなかった春乃たちは困惑の表情で固まってしまう。


「聡」ただ一人恭平が立ち上がる。

「トリケラ、今はどうしてる?」

「布に包んで、箱に入れてる。……どうしていいかわからなくてさ」


 聡は淡々と答えた。


「連れてきたのか?」

「うん」



 静かに頷く聡の肩を恭平が優しく掴む。


「ちゃんと供養してあげようぜ」


 そう言って穏やかな表情を見せる恭平の顔を見て、聡の顔から力が抜けていく。


「…………うん」


 もはや泣くことは避けられなかった。仕方のないことだ。大事な相棒を失った。寂しさと悲しみが堰を切る。

 外に出た一同は、聡が自転車のかごに入れてきた小さな箱を目にした。真っ白い箱の中に、あの勇敢だったトリケラが入っている。玲汰の胸の根元がぎゅっと締め付けられた。自分で捕まえたものではないけれど、その雄姿は何度も目にしている。トリケラに憧れてカブトムシを捕まえた。


 恭平の後に続いて寺の裏へと向かう途中、聡のことをちらりと見る。すっかり意気消沈しているようだ。莉久も気を遣っているのか何も言わない。せっかくカブトムシを捕まえられたというのに、トリケラとの戦いはもう望めなかった。

 なんて儚いのだろうか。あんなに強かったのに。玲汰は聡の悲しみが痛いほどに伝播し、俯いたままみんなについていく。


「ここに埋めるか」


 恭平は花がいくつか咲いている地面を示す。聡は指定された場所に座り込み、そっと土を掘り始めた。ずっと黙っている莉久も手伝った。


「じゃあ、埋めるぞ」


 恭平の言葉に聡は静かに頷く。箱の上に土をかけていく様子を聡はじっと見ていた。最後に目印の花を植え、一同は恭平に倣って手を合わせる。

 皆の祈りは同じだった。戦士の魂が安らかでありますように。

 玲汰はトリケラのお墓を見下ろしたまま悲しそうに顔を歪めている聡の手を取り、みんなと一緒に本堂へと戻った。


「トリケラは、カッコよかったよね」


 本堂ではトリケラの思い出話で盛り上がり始める。


「うん。ぼく、本当にあこがれた」


 玲汰も素直にトリケラへの想いを語った。


「ただひとつ、悔しいのが……」

「なんだよ」


 聡にちらりと見られた莉久は怪訝な表情で聡を見やる。


「ピナコに勝てなかったこと」


 聡は大きなため息を吐いた。


「なんだよ。そんなことか」

「そんなことか、じゃないだろ。お前は勝ってるからいいけどさ、俺はトリケラと打倒ピナコを達成したかったんだよ」

「そう言われてもな」


 莉久は呆れたような顔をし、首を回してふと玲汰を見た。


「そうだ」

「どうした?」


 莉久の表情が晴れていく。聡は彼の視線の先の玲汰をなぞる。


「玲汰、お前カブトムシ捕まえたんだろ?」

「う、うん……」


 玲汰はギクッと肩を上げた。


「そいつで、トリケラとこいつの悲願を叶えてやれよ」

「え……?」


 莉久は流し目で聡を見るとニヤッと笑う。


「どうする?」

「えっと……」


 玲汰は聡を見た。聡は少し驚いた表情をしていた。けれどその眼差しは次第に玲汰に希望を見るように移ろう。

 これが憧れのトリケラの供養になるのだろうか。玲汰は聡の眼差しを受けてそんなことを考えた。

 もし勝てれば、トリケラの悲願を果たせるのかもしれない。

 玲汰の胸にぼんやりと光が差し込む。


「わかった。やるよ」


 玲汰はきりっとした表情でそう答えた。対戦の承諾に、聡の表情にもやわらぎが広がる。


「じゃあ、明日な」


 莉久は左手の小指を出す。


「うん!」


 自分の左手の小指を絡ませ、玲汰は莉久と指切りをした。

 思いもよらない対戦の火蓋が切られる。


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