八月二十一日 ひまわり
「すごい! 綺麗ですね!」
一面に広がる黄色の世界に玲汰は目を輝かせる。
「こんなにたくさん!」
玲汰は両隣に立つ咲野と栄太郎の顔を交互に見上げ、興奮した声を出す。
「ふふふ。本当、綺麗ね」
咲野は嬉しそうな玲汰の顔を見て微笑んだ。
「玲汰くんにも見てもらえて、よかったです」
栄太郎も誇らしげに頷く。三人の目の前一面にはひまわりが広がっていた。ここは地元で有名なひまわり畑。今日は三人で少し足を伸ばしたお出かけだ。
◇
「玲汰くん、準備は良いでしょうか?」
家を出る前、咲野は玲汰の部屋をのぞいて尋ねた。
「はい! ばっちりです」
「そうですか。それでは、出かけましょうか」
咲野と並んで玄関に向かうと、既に栄太郎が靴を履いているところだった。
「栄太郎さん、今日はいつもよりお洒落さんですね」
栄太郎の服装を見た玲汰は無邪気に笑う。
「お褒めいただき光栄ですよ」
栄太郎は照れくさそうに笑うと、麦わら帽子を頭に乗せる。
「今日は電車で向かいますからね。まずはバスに乗りましょうか」
玄関に貼ってあるバスの時刻表を確認した咲野は家の鍵を手に取った。
「三人で電車に乗るのは初めてですね!」
靴ひもを結んだ玲汰は小さく跳ね上がる。
「ぼく、楽しみです!」
帽子を手に取り、明るい笑顔を見せる玲汰に対し、栄太郎と咲野は顔を見合わせて嬉しそうに肩をすくめる。玲汰の自然な笑顔はもう当たり前の光景になっていた。
バスに乗り込み、駅まで向かった三人は電車の切符とおにぎりを買った。目的地まで一時間かかる電車の中で食べるつもりだ。指定席の切符を手にした玲汰はその紙きれを失くさないようにポケットにしまう。
「玲汰くん、おにぎりだけで大丈夫ですか?」
売店で咲野がペットボトルの飲料を手にして訊く。
「はい。大丈夫です」
「そうですか? それでは買ってまいりますね」
咲野はペットボトルを掲げてレジに向かう。玲汰が目線を移せば、隣の棚には美味しそうなお菓子が広がっていた。そういえばこちらに来てからはあまりスナック菓子などを食べた覚えがない。いつも美味しい咲野のご飯が食べられるし、鈴谷さんで買うおまんじゅうも、澄郎がくれる少し硬いお菓子もあるからだ。それまで食べていたお菓子を食べたいと思う暇もなかった。
しかしこんなにたくさんのお菓子を目の前にすると、どこからともなくよだれが出てくる。ちょっと食べたいな。欲望が頭をよぎった玲汰はハッとして首を振る。もう咲野に大丈夫だと言ってしまった。今更ほかのものが欲しいなんて少しずるい気がする。玲汰は自分にそう言い聞かせ、その場から立ち去ろうとした。すると。
「玲汰くん、せっかくなのでお菓子も買いましょうよ」
いつの間にか隣に来ていた栄太郎がわくわくした様子で話しかけてきた。
「え?」
思わぬ提案に玲汰は驚きとときめきの混ざった表情を上げる。
「私、ポテトチップスとか好きなんですよ」
「食べてるところ見たことないです」
「いつもは咲野さんに怒られてしまいますからね。脂っこいし塩がたくさんあるからダメだって。でも今日は、玲汰くんがいるから買える気がします」
栄太郎はいたずらに笑う。
「玲汰くん、一緒に食べましょうよ」
「栄太郎さんも食べたいのなら、喜んで!」
「ふふ、これで共犯ですね」
栄太郎は一番ポピュラーなポテトチップスを手に取り、しーっ、と声を顰める。
「きょーはんですね!」
玲汰も口元を抑えてくすくすと笑った。ポテトチップスを買ったことはすぐに咲野にバレた。が、栄太郎が図った通り、玲汰が食べるということで許してくれた。
この駅が始発となる電車に乗り込むため、玲汰は咲野に続いて改札を通る。駅員に切符を渡すと、彼は検札鋏で小気味のいい音を鳴らし、穴をあけていく。
「ありがとうございます」
玲汰が穴の開いた切符を受け取ると、駅員が帽子に手を当てて会釈をした。指定の号車に乗り、切符に書かれた番号の席を見つける。二人掛けのシート。玲汰は咲野と三列目に座り、二列目の栄太郎が座席を回転させ三人向かい合わせにする。
「さぁ、そろそろ出発ですよ」
栄太郎の言葉に玲汰はうずうずとする気持ちを隠すこともなく大きく頷いた。
電車に揺られて目的地に着いた玲汰たちは、人気の少ない駅を降りて十分ほど歩く。車内で栄太郎と一緒に食べたポテトチップスはなんだか特別な味がした。玲汰は自然と弾む足取りに任せて、咲野と栄太郎に挟まれて歩いた。
高く青い空には目覚めるほどはっきりとした白く大きい雲が、そびえたつようにして浮かんでいた。もう夏も終わりが近づいている。玲汰は漂う夏の終わりの気配の中、堂々とした足取りで地面を踏みしめる。
「玲汰くん、見てください」
咲野が指差す方面を見やると、視界いっぱいにひまわり畑が広がっていく。
「わぁ!」
無意識に漏れた歓声に、咲野は嬉しそうに微笑んだ。玲汰はひまわり畑に駆け寄り両手を広げてくるくると回る。
「ひまわりって、背が高いんですね!」
ゆっくり歩いてくる咲野と栄太郎に分かるように、玲汰は背伸びしてみせる。
「ふふふ、そうね」
咲野は柔らかに頷き、玲汰の隣に並んだ。玲汰の顔ほどの大きさがあるひまわり。玲汰はひまわりの顔と見つめ合ってにっこりと笑いかけた。
「ここは、本当に素敵なところですね」
玲汰たち三人はひまわり畑の中を散策する。人が通れるように整備されてある道を選ぶ。玲汰たちはひまわりの海の中を辿る迷路をひたすらに歩いた。両側に広がるひまわりの黄の干渉で、世界が異様に明るく瞳に映る。玲汰は咲野と栄太郎の手を取り、ぎゅっと大事そうに握った。繋がれた二人の手は細く脆い。けれど暖かく、柔らかかった。
「へへ……」
思わず笑みがこぼれた玲汰は嬉しくなって顔を赤くする。気温のせいか。体温が上がったせいか。玲汰の手から伝わる弱くとも精一杯な力に、咲野と栄太郎は顔を見合わせて優しく目じりを下げた。
途中、玲汰よりも小さな男の子の兄弟が、両親と一緒にひまわりを見ているところに遭遇した。咲野と栄太郎は軽く会釈をし、彼らの両親もそれに応えてくれた。
玲汰は男の子たちのことをじっと観察する。家族みんなで幸せそうに笑い合っている光景。彼らを見ていると、玲汰は以前とは違う自分の気持ちをぼんやりと自覚する。
前は、あんな姿を一秒たりとも見ていたくはなかった。そもそも見ることができなかった。視界から遠ざけ、ずっとずっと見ないふりをしてきた。心が蛇に絡まれたように痛くて、息苦しかった。自分自身が引き千切れてしまいそうだったからだ。
けれど今はじっと見ていられる。楽しくて朗らかな彼らの様子を落ち着いた心で見ていられることができる。苦しくない。呼吸もちゃんとできる。
玲汰はこっそりと咲野と栄太郎を見上げた。この手をずっと握っていることは、今の自分には力がなくて不可能だ。家族も親もいないから、失うということが本当のところはよく分からない。それでもつなぎとめておきたいことがある。手放したくないものがある。その気持ちが、この手を繋いでいるとなんとなく分かる気がした。
再び男の子たちに目をやり、玲汰はきゅっと口角を上げる。その後しばらくひまわり畑を三人手をつないだまま歩いた。三人でこの場所を歩いているだけの時間が、何よりも嬉しかった。
帰りの電車の中から、玲汰は夕焼けに照らされるひまわり畑を見る。もしかしたら来るときにも車窓から見えていたのかもしれない。そう思いながら、案外自分は何も見えていなかったことに気づいた。あんなに見事なひまわり畑も意識をしていないと瞳に映らない。これまでも車窓の景色で見落としていたものがたくさんあったのではないかと玲汰は少しだけ焦る。
気づいたときには勿体ないという感情が先走って悔しさを感じる。だけど気づけたのだから、これからはしっかり見ていこう。
玲汰は窓にかぶりつくようにして外を眺めた。