八月十六日 いってらっしゃい
玲汰が家の外に出ると、ちょうど有香が家の前で打ち水をしているのが見えた。
「有香ちゃん」
玲汰は麦わら帽子を被った有香に話しかける。
「玲汰くん、こんにちは」
有香は柄杓で水を地面に打ち付けるのを止めて、きらきらと笑った。
「玲汰くん大文字焼って知ってる?」
「焼き?」
玲汰がぽかんとした顔をしたので、有香は人差し指を前に出す。
「今日はお盆のおしまいだから、送り火をするんだよ。それでね、大きな市のほうでは大文字焼って言って、山に大きな文字の炎を照らすの」
「山で炎を燃やすの? 危なくないの?」
玲汰の不安そうな顔に、有香は眉をくすりと笑う。
「大丈夫だよ、もちろんちゃんと管理してあるんだから」
「それなら大丈夫なのかな……」
「玲汰くんは見たことないんだよね。たぶんテレビで中継があると思うよ」
「有香ちゃんは見たことあるの?」
「一回だけ、近くで見たことがあるよ。川沿いとか高台でみんな見てるの」
有香はその時のことを思い出しているのか空を見上げた。
「大きいっていう漢字と、あと他にもいくつかあるんだよ」
「迫力ありそうだね」
玲汰は頭の中でどうにか想像をしてみる。
「咲野さんたちも、送り火するんじゃないかな?」
「え? 文字を燃やすの?」
「あはは。違うよ。お家ではもっと小さくやるんだよ」
有香は柄杓で水をすくった。
「それっ」
「……わっ⁉」
玲汰の足元近くに水をかけ、有香は楽しそうに声をはね上げる。
「あははは。冷たい?」
「冷たいよ!」
玲汰はそう言いながらも笑い声をもらす。
「もっとかけてあげる!」
「え⁉ 待って……!」
玲汰は柄杓とバケツを持って追いかけてくる有香から逃げるように小走りでその辺りを駆け回る。有香は逃げる玲汰を軽快に追いかけた。時折足にかかる水しぶきが冷たくて、二人は笑い合いながらしばらくの間追いかけっこを楽しんだ。
送り火。玲汰にとっては初めての言葉だ。きっと今日も新しいことを学べる。玲汰は密かにそれを楽しみにしていた。
◇
有香と遊んだ後、家に戻った玲汰は縁側で涼んでいる咲野に声をかける。
「咲野さん、今日は送り火なんですか?」
咲野は玲汰の突然の問いに驚きながらもにっこりと微笑んだ。
「そうですよ。玲汰くんは物知りね」
「有香ちゃんに教えてもらいました。山に文字を燃やすってことも」
「あら。それはいいですね」
咲野は、ふふふ、と笑う。
「お家でもやるんですか?」
「ええ。夕方頃に」
「ぼくもお手伝いしたいです」
「ありがとう、玲汰くん」
咲野は少し寂しそうな瞳で玲汰の頭を撫でる。いつもと変わらない穏やかで優しい眼差しだったが、玲汰はその声が気になった。
「咲野さん……」
玲汰は咲野の隣に座りなおし、空を見上げて雲を指さす。
「あれ、象に見えませんか?」
指さした先には小さな象のような形をした雲が浮かんでいた。
「あら、本当」
咲野は目を見開き指先を追う。
「あっちは猫ですね。あ、あれはなんだろう? 宇宙船かな?」
玲汰は絶え間なく雲を指さし続け、その形を何かに見立てていく。
「雲って、不思議ですね」
「そうですね。空は、色んなものを見せてくれるから、見ていて飽きませんね。雲もその彩の一つといえば、面白いものですよね。ねぇ、玲汰くんは、空を飛んでみたいですか?」
「雲の近くを飛べるんですよね」
玲汰は空を見上げて考え出る。頭に浮かぶのは飛行機。地上から見る真っ青な空はとても鮮やかで眩しい。常に光り輝いている空の世界に玲汰は思いを馳せた。
「きっと飛べたら気持ちがいいと思います。なんでも見渡せるし。でも、ぼくは雷も怖いし、まだ空とは遠くでいいかな」
玲汰は恥ずかしそうに答えた。
「もっともっと空と仲良くなれたら、飛んでみたいです」
玲汰の控えめな笑顔に咲野は目を細める。ここにいたいから空を冒険している時間はまだない。玲汰は本心を飲み込み、ほんのり頬を赤らめた。
「いつか、一緒にお空を冒険できるといいですね」
咲野はそう言ってゆっくりと空を見上げた。つられて空を見上げた玲汰は有香の言葉を思い出す。
お盆はもうおしまい。今年のお盆がもう終わろうとしているのだ。ということは、みんな帰ってしまうのだろう。玲汰は隣で穏やかな顔をしている咲野をそっと見上げる。
咲野と栄太郎の愛娘も、また。
玲汰は再び空に意識を向ける。相変わらず眩しいその世界の向こうに、彼女は何かを求めているのかもしれない。一体、そこには何があるのだろうか。
玲汰は目を細めた。庭からは虫の合唱が聞こえてくる。
◇
夕方、栄太郎に渡された苧殻を手に玲汰は玄関に向かった。栄太郎は焙烙を玄関の前に置き、玲汰を振り返る。
「玲汰くん、こちらにお願いします」
栄太郎に言われた通り、玲汰は苧殻を焙烙の上に置いた。
「玲汰くん、大文字焼のことは聞きましたか?」
栄太郎は苧殻を置く玲汰に向かって話しかける。
「はい。ぼくも一度見てみたいです」
「現地に行くのは難しいけど、中継なら見られますかね」
「有香ちゃんもそう言ってました」
「ははは。そうですか。連れていけなくてすまないねぇ」
「いいえ! ぼくはどこでだってかまいません」
玲汰が立ち上がると、同じタイミングで咲野が玄関から出てきた。
「あら、準備はもうできているみたいね」
咲野はマッチを手にしていた。
「そうしたら、もう始めてしまいましょうか」
玲汰と栄太郎はゆっくりと頷く。咲野はマッチに火をつける、そっと苧殻に火を移す。静かに燃えはじめた苧殻が仄かな明かりを灯した。見る見るうちに明るくなっていく灯りは、玲汰の瞳にしっかりと映される。
「これで、迷うことなく帰れますかね」
ぽつりと、玲汰が呟く。
「また、来てくれるんですよね……?」
玲汰の寂しそうな声に、栄太郎は玲汰の視線まで屈みこんだ。
「ええ、もちろんです」
「……ぼくがいて、邪魔じゃなかったかな?」
「とんでもないです。きっとみんないつもより楽しかったと思いますよ。玲汰くんもいてくれて」
栄太郎は玲汰の頭を撫でる。
「私たちもそうです」
栄太郎の優しい微笑みが送り火に照らされて暖かくなる。
「玲汰くん、みんなをお迎えしてくれてありがとうございました」
咲野も玲汰のそばにやってきて肩を撫でた。
「今年のお盆は、とても賑やかでしたよ」
玲汰は栄太郎と咲野の顔を交互に見やる。二人とも優しい眼差しで玲汰のことを見つめていた。玲汰はふと何かに守られているような感覚を覚えた。
「さぁ、火が燃え尽きるまで、お見送りを続けましょうか」
咲野が灯りを向く。玲汰も小さく頷き、そっと薄暗くなってきた空を見上げる。細かな火の粉が空に向かって舞い上がっていく。不思議な気持ちのまま玲汰は空を見つめ続けた。
いつか空へと舞い上がるとき、彼らに会えるような気がする。玲汰は何かにぼうっと包まれるような感覚の中、胸の奥で呟く。
それは不快なものではなかった。心が温まって少しずつ強くなる気がする。その場所からこの地のことを見ていてくれると嬉しい。玲汰は願望を込めてきゅっと胸の前でこぶしを握りしめる。
咲野さんと栄太郎さんの笑顔を一番に守っていてくれますように。
玲汰は目を閉じ静かにお願いをした。しばらくすると、火は燃え尽き、辺りは出てきた時よりも暗くなっていた。
「さぁ、お夕食の後にテレビの中継を見ましょうか」
栄太郎はそう言ってにっこりと笑う。
「今日は、ちらし寿司ですよ」
咲野も片付けをして家へと戻っていく。玲汰は二人が家に入った後も少しだけ外に残る。
見上げた空はいくつもの星が瞬き始めていた。