八月十二日 花火大会
昨日、帰宅する車中で有香と晃志の二人が話題にしていたことがある。玲汰はその話について、寝る支度を進める咲野と栄太郎に聞いてみた。すると咲野と栄太郎はくすくすと笑って、玲汰にあるものを差し出した。
夕刻を迎え、玲汰は昨日二人に貰ったものを畳に置き、じっと眺める。
「玲汰くん、そろそろ準備してしまいましょうか」
隣の部屋の栄太郎が襖から顔を出した。
「栄太郎さん」
玲汰は栄太郎を見るなりパッと顔を輝かせた。
「これ、ぼく一人じゃ着れなくて……」
畳に置いていた贈り物をそっと腕に乗せ、玲汰は栄太郎に駆け寄る。
「大丈夫ですよ。私がお手伝いしますから」
栄太郎は優しく玲汰の持っている物を撫でつける。
「綺麗な柄ですね。きっと似合いますよ」
玲汰が腕に乗せているのは薄青と白緑の生地に小さな花が上品に描かれた浴衣だった。今日は町の方で花火大会が開催される日だ。有香たちが話していた話題。まさしくそれは花火大会のことだった。
手際のいい栄太郎に浴衣を着付けてもらった玲汰は小走りで咲野にその姿を見せに行く。
「まぁ、玲汰くん、とても素敵ですよ。一瞬誰だか分からなかったわ」
咲野は玲汰を見るなり笑顔の前で手を合わせた。
「本当によく似合ってますよ」
咲野の誇らしげな目に玲汰は胸がうずうずした。心臓のあたりがこそばゆい。褒められたのだ。ほのかに赤くなった頬を緩ませ、玲汰は口角を上げる。
「玲汰くんのための浴衣のようですよね」
栄太郎もゆったりと微笑む。
「咲野さんは行かないんですか?」
「有香ちゃんのおばあちゃんたちと、今日は女性たちだけでのんびりしようって、約束しているのですよ」
咲野は目を細めて待ち遠しそうな顔をする。
「こちらも年に数回のお楽しみなの」
「そうなんですね。それも、楽しそうですね」
玲汰は、まるで少女のように笑う咲野を見上げて唇で弧を描く。こんな風に笑えたら、きっと幸せ。咲野の笑顔を瞳に映し、玲汰の頭に有香と春乃の姿が浮かぶ。二人も咲野のように、歳を重ねてもこんな風に笑っている人になるはずだ。玲汰は咲野の笑顔が羨ましくなって、そんなことを考える。
「私たちのことは、澄郎さんが送ってくれるそうですよ」
栄太郎が玲汰を励ますように言った。
「私と一緒でも良いですか?」
「もちろんです。ぼく、栄太郎さんと一緒に行きたいです」
玲汰が前のめりになって頷くと、栄太郎は小さく息を弾ませた。
「ありがとうございます。私も玲汰くんと行くのが楽しみです」
「お気をつけて」
手を振ると、咲野も朗らかに手を振り返す。玲汰は栄太郎と一緒に澄郎の家に出向き、待ち構えていた澄郎の車に乗せてもらった。澄郎は花火大会の運営の手伝いをするようで、この後はずっと拘束されるらしい。屋台を一緒に回れないことを嘆いていた。
道中、玲汰は運営の話を聞いたりお勧めの屋台を教えて貰うことが出来た。話を聞いただけなのに、それだけで玲汰の心の中ではもうお祭りは始まっていた。
会場に着くと、オレンジ色に光る提灯が無数につるされ仄かな明かりが広がっている。色鮮やかな屋台が立ち並ぶ。メイン会場はもっと中心の方にあるようだ。玲汰たちにはまだその場所までは見えなかったが、軽快なお囃子は聞こえてきた。
澄郎と帰りの集合時間を確認し、玲汰は栄太郎に手を引かれ会場へと足を進める。色とりどりの浴衣を着た老若男女が、片手に綿あめや焼きそばを持ったり、お面を頭に付けたり。思い思いの形で祭りを楽しんでいた。賑やかな様子を目の前にした玲汰は不意に全く知らない町に迷い込んでしまったような感覚を覚える。それでも、向こう側に見える風景は見覚えのあるいつもの町に変わりない。不思議な感覚に浮足立つ。それでいいんだよ。まだ戸惑いが見える玲汰を祭囃子が背中を押してくれた。
「花火の時間まで、何か見て回りましょうか」
栄太郎はきょろきょろと屋台を見回した。
「気になるところがあったら、言ってくださいね」
「うん!」
玲汰は嬉しそうに頷く。提灯の明かりを受けて輝く瞳を見て、栄太郎は愛おしそうに微笑んだ。
屋台のテントがひらひらとなびいている。温かい光に映し出される賑やかな光景は、玲汰にしてみれば宙に浮いたような幻想郷だった。食べ物の匂いがあちこちから玲汰の空腹を誘う。
射的やヨーヨー釣りではしゃぐ子どもたちの隣では、大人たちもまた隠れることもなく同じように楽しんでいた。玲汰にはその姿も新鮮だった。ここに来た人は皆同じ気持ちを持った人たちなのだ。だから、こんなにも景色に溶け込んでいる。
玲汰は栄太郎の手をぎゅっと握りしめた。顔を上げれば栄太郎が優しい眼差しを向けていた。
「玲汰くん、何か気になるものがありましたか?」
栄太郎の問いに玲汰は首を横に振る。
「ぼくは、もう少し栄太郎さんと一緒にこの通りを歩いていたいです」
玲汰が迷いなく答えると、栄太郎は声には出さずとも十分に頷き、彼の心を汲み取る。この幻想の中で、玲汰は少しでも長い間、溶け込んだふりをしていたかった。
屋台を見た後、玲汰は買ってもらった焼きそばを食べながら花火の時間を待つ。少し味の濃い焼きそばを食べ終え、ごみを捨てに行こうとすると、背後から思い切り肩を叩かれた。
「玲汰!」
振り返れば聡と春乃がいた。二人とも浴衣を着て、頭にはキャラクターのお面をつけている。祭を満喫しているようだ。
「来てたんだな!」
「栄太郎さんと一緒?」
春乃は手に持った綿あめを頬張りながら訊く。
「そう。栄太郎さんは、いま、向こうで待ってて……」
幻想の中で見る見慣れた二人の顔に嬉しくなって、玲汰の頬が知らぬ間に緩む。
「春昭くんは?」
「春昭はお父さんと射的に夢中になってるところ」
「そうなんだ」
「玲汰も何かやったか?」
聡はヨーヨーを手で弾ませた。
「ううん。何もやってないよ」
「そうなの⁉」「いいの⁉」
あっさりとした答えに二人は目を丸くして驚く。
「うん。いいんだ。回ってるだけでも、ぼくは楽しい」
玲汰の控えめな笑顔に聡と春乃は顔を見合わせる。
「玲汰はほんとに謙虚だな」
「ほんと。もっとわがままになってもいいんじゃないってくらいだね。で、花火は見るの?」
「うん。栄太郎さんと一緒に」こくりと頷く。
「どこで見るの?」
「私たち場所取ってるんだけど、一緒に見る?」
春乃の優しいお誘いに対し、玲汰は意味ありげに、ふふふ、とほくそ笑む。
「ありがとう。でも、大丈夫」
何故か楽しそうに笑っている玲汰。春乃は首を傾げた。
「二人ともありがとう。お祭り楽しんでね」
玲汰は二人に手を振ってから、栄太郎のもとへと駆けて行った。
「おや? どうかしましたか? なんだか楽しそうですね」
栄太郎は戻ってきた玲汰の顔を見て、つられて頬を崩す。
「いいえ! なんでも。あ、さっき、聡たちに会いました。それで、花火を一緒に見ようと言ってくれました」
「そうですか。一緒に見なくていいんですか?」
栄太郎がおや、と目を開くので、玲汰は再び栄太郎の手を取った。
「はい。ぼくは、栄太郎さんのとっておきの場所に行ってみたいです」
明るい表情で栄太郎を見上げる。
「栄太郎さんのとっておきを、ぼくも知りたいです」
「ふふふ。気に入ってもらえますかね?」
栄太郎は玲汰の期待の目に照れながらはにかむ。
「きっとそうなります」
玲汰は栄太郎と繋いだ手を揺らす。そのまま二人はとっておきの場所へと向かった。焼きそばを食べている時、花火の時間をそわそわと待っている玲汰に栄太郎が囁いたのだ。
──玲汰くんにだけ教えてあげます。花火を見る、とっておきの場所があるんですよ
玲汰は魅惑の言葉に胸を躍らせた。いつまでも終わって欲しくないこの祭の時を、どうすれば少しだけでも長く続けることが出来るのか。そう考えていた玲汰にとってはまたとないお誘いだった。とっておきを知れば、きっとこれは幻想ではなくなる。その場所に、何度でも戻ってこられるはずだ。
玲汰ははやる気持ちを抑えながら栄太郎とともに秘密の場所へと近づいていく。
祭会場から離れ、ゆるやかな坂を上った。小高い丘の頂上まで来ると、そこからは祭会場や町を見渡すことが出来た。玲汰を迎え入れる数本の木のアーチを抜けると、目の前には空が広がった。真っ暗な空に星が瞬いているのが目を凝らさずとも見える。
玲汰がたくさんの星を見上げ、息を吸い込んだ時。
ドン!
力強く何かが打ち付けられる音が空に響く。音に続き、空一面にキラキラと輝く星が咲いた。その星は数秒の間懸命に輝いた後ですぐに消えてしまう。大きな大きな輝く星の花を瞳に映し、玲汰の目も一層と輝き点滅する。
「すごい……!」
思わず感嘆の声が漏れた。玲汰は次々と打ちあがる花火を食い入るように見つめる。周りには誰もいない。栄太郎が傍にいるだけだ。まるでこの花火を貸し切っている錯覚に包まれる。視界一杯に広がる夜空の宴に玲汰は背伸びをするほど魅入った。
「栄太郎さん、すごいです!」
興奮気味に栄太郎を振り返る。
「ここ、本当にとっておきですね!」
玲汰の声に栄太郎は安堵したように頷いた。
「ふふふ。内緒ですよ?」
「はい……!」
飛ぶように息を吐いて返事をする。玲汰は再び空を見上げた。先ほどの春乃の言葉が花火の音とともに耳に蘇ってくる。
────もっとわがままでもいいんじゃない?
玲汰はいたずらに口元を抑えて笑う。
もう、ぼくはずっとわがままだよ。
栄太郎のとっておきを知ること。一緒に花火を見ること。
「玲汰くん」
花火が終わると栄太郎が玲汰に声をかける。
「いかがでしたか?」
「花火って、こんなに綺麗なんですね」
玲汰は栄太郎の問いに満面の笑顔で答えた。
「お祭りは、もう終わりですか?」
「そうですね。今日は終わりです。お祭りは終わってしまいますが……」
寂しそうな顔に移ろう玲汰に、栄太郎はかがんで向き合った。
「祭りは、名残惜しいくらいが程よいと、私は思います」
「どうしてでしょう?」
「お祭りがずっと続いてしまっては、そのありがたみが忘れ去られてしまいます。たまに思い出させてくれるから、私たちは、初めてお祭りに行った時のような、素直な気持ちをすぐに取り戻せるのです。終わるのは寂しいけれど、名残惜しいくらい楽しめたのなら、きっとまた同じように楽しむことが出来ます。そしてその気持ちを忘れることは、ないのでしょう」
栄太郎はじっと話を聞いている玲汰に微笑んだ。
「玲汰くんはもう、そのこころを見つけましたね」
ぽつりと、言葉の雫が胸に落ちるようだった。雫はやがて全身に広がり、玲汰の沈みかけた気持ちを軽くしていく。
「栄太郎さん」
帰ろうと歩き出したとき、玲汰は栄太郎の手を握りながら小さく声を出した。
「とっておきを、ありがとうございます」
純朴な感謝の言葉。「はい。よろこんで」栄太郎は花火とは対照的な繊細な微笑みで受け止める。