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七月二十五日 せみ


 蒸し暑い季節。太陽は眩しく、空を見上げてもその姿を捉えることは出来ない。

 目の上に手をかざし、真上に構える強烈な眼差しの正体を見ようと試みた。大きな白い陽の源が見えたような気がした。


玲汰れいた


 自分の手を引く青年の声に、玲汰は空から目を離し斜め上に視線を移す。


「ほら、ここだよ」


 青年が指差す先には、築年数を積んでいそうな昔ながらの木造の日本家屋があった。家屋の前には外界から隠れるように生垣で囲われたこぢんまりとした涼やかな庭が見える。玲汰はその家屋を緑色の家と名付けた。

 玲汰が瞬きをすれば、家の前には老夫婦が出てくる。ゆっくりと、彼らの時間をかけて。女性は和服を着ていて、男性の方はシャツにモンペを穿いていた。


「行こうか、玲汰」


 青年が歩き始めたので玲汰もそれに続いた。見慣れない夫婦に向かって歩いていく。玲汰の歩幅も大きくはない。小さな足で、太陽がじりじりと延々に焼き続けているアスファルトの上に転がった小石を踏む。つないだ手には汗が滲んでくる。


「こんにちは、わざわざありがとうございます」


 夫婦の目の前で立ち止まった青年は、朗らかな声色で二人に話しかけた。


「いえいえ。お待ちしておりましたよ」


 女性がにっこりと微笑んだ。たおやかな動きで皮が表情筋についていけば、細い線が皺となって濃く浮かび上がる。お団子に結ばれている白髪の髪の毛は染めることをやめていた。シルバーヘアーの美しさが惜しみなく太陽に輝く。


「こちらこそ、わざわざすまないねぇ」


 男性も女性と変わらず朗らかに微笑んだ。こちらもまた、柔らかそうな白髪が風に揺れていた。顔に刻まれた皺を見れば、彼らのこれまでの人生の穏やかさが垣間見えるようだった。

 玲汰は二人の顔を交互に見て、その優しさの化身のような雰囲気と表情にぽかんと口を開ける。触れたら綿あめのように溶けてしまうのではないか。小さな胸の中に少しだけ怯えを潜ませる。


「この子が、玲汰さんかな?」


 男性は腰をかがめて玲汰の顔をじっと見た。二人ともまだ足腰は丈夫なようだ。痛がる様子も苦も見せず、滑らかに身体を動かす。


「はい。ほら玲汰、ご挨拶は?」


 青年が玲汰を促すように繋いでいる手を揺すった。


「……黒葉玲汰くろばれいたです」


 玲汰は恥ずかしそうに青年の手に顔を隠そうとしながら挨拶する。


「こら玲汰」


 青年は後ろに下がる玲汰を優しく諭す。玲汰の手をもう一度揺さぶり、前に出るよう促した。


「ふふ。いいのですよ。玲汰くん、よろしくね。私は崎谷咲野さきたにさくや。こちらは旦那さんの栄太郎えいたろうさんですよ」


 咲野と栄太郎は玲汰に向かって丁寧にお辞儀をした。


「……よろしくおねがいします」


 玲汰はお人形のように畏まる彼らのことをもう少しだけよく見ようと前に出る。二人と目が合い、応えるようにお辞儀を返す。


「あら、お上手ね」


 咲野は玲汰のぎこちない動きを微笑ましく見守り、くすくすと笑った。


「それでは、もう少しお話を……」

「あら、ごめんなさいね。気が付かなくて……」


 青年が話題を変えようと口を開いたので、咲野は申し訳なさそうに眉尻を下げる。さあさあ、と急かすように玲汰たちを家の中に招き入れた。


「相変わらず素敵なお宅ですね」

「ふふふ。お世辞でもうれしいわ」


 青年が感心した声を出すと、咲野は恥ずかしそうに微笑んだ。家の中は、外見の佇まいに引けを取らず、年季の入った趣のある作りだった。一本の大きな柱が玄関に入ってすぐ玲汰のことを迎える。玲汰の知るどの家よりも広い靴を脱ぐ空間。玲汰はその場に座り込み、靴ひもを解く。木で造られた屋敷だからだろうか。さっきまで火照っていた身体が、中に入るとたちまち冷えていく気がした。


「さぁ、どうぞ」


 脱いだ靴を揃え、玲汰は男性と一緒に奥へと進む。


「玲汰、少しここで待っていなさい」

「はい」


 途中、青年に言われ玲汰は縁側で手を離す。ぽつりと立ち止まり、更に奥の部屋へと進む三人の背中を見送った。

 背負っていたリュックをその場に下ろし、玲汰は縁側に座り込む。ふと視線が向かったのは目の前に広がる庭。一番大きな木に蝉が止まっていて、今にも鳴きだしそうなのが見えた。

 玲汰は姿勢よく正座してじっとその蝉を見つめる。爽やかな風に草木が静かに歌い出した。伸ばした背中の背後から漂うイグサの匂いが鼻を通り、体内に清涼感が広がっていく。またしても体温が下がり、顔の赤みも引いた。


 膝に手を置き、夢中で蝉を見つめても一向に鳴きだす気配はない。それでも玲汰は蝉を見つめ続け、青年たちの話が終わるまで三十分近く待っていた。

 痺れた足が再び感覚を取り戻したころ、久しぶりに青年の声が聞こえてくる。結局、蝉の声を聞くことはできなかった。


「玲汰、お待たせ。ごめんな」


 青年が玲汰に声をかけると、玲汰はハッとしたように庭から目を逸らす。


「いいえ。待っていません」

「ははは。何を言ってるんだ」


 青年は上の空な玲汰の頭を優しく撫で軽快な笑顔を見せた。


「さっ、大丈夫か?」

「……うん」


 玲汰は照れながら頷いた。撫でられることには慣れていない。むずむずと鼻が痒い。小さな手のひらをぎゅっと丸め、青年の目を真っ直ぐに見つめる。


「そっか。それじゃ、俺はそろそろ行くけど、また来るからな。いい子にしてるんだぞ。何か問題とかあった時は、いつでも連絡しろよ。連絡の仕方、分かるよな?」

「うん。大丈夫」

「よし! さすが玲汰だ」


 青年は玲汰の肩をぎゅっと力強く自分の方に抱き寄せた。玲汰は恥ずかしそうに笑う。


「またな、玲汰」

「うん。ありがとう」


 そのまま青年は、名残惜しそうにすくっと立ち上がる。自分の動きを追いかける玲汰の視線に対し、彼は手を振る。玲汰が小さく手を振り返せば、青年は明るい笑顔でその場を後にした。

 青年が去り、玲汰は再び庭に目を向ける。その瞬間、蝉が元気よく鳴き始めた。さっきまでうんともすんとも言わず静寂を守り続けていたのに。壊れたおもちゃのようにけたたましい声が炸裂する。


「わぁ……」


 玲汰は思わず身を乗り出して爆音の源を見た。

 耳をつんざく鳴き声も、うるさいとは思わなかった。こんなに近くで蝉が鳴いたことなど一度もない。


「あらあら。今日もお元気ね」


 玲汰が前のめりになっていると、廊下の向こうから咲野が歩いてきた。青年を見送った後のようだ。玲汰と目が合うと、彼女は目元を緩めて優しく微笑む。


「玲汰くんは虫がお好きですか?」

「えっと、今まであんまり見たことがなくって」


 玲汰はたどたどしく答えた。


「そうなのですか。それでしたら、これから好きになれそうですか?」


 咲野は玲汰の斜め後ろに正座して優しく問いかける。


「はい。好きに、なれたらいいな……」


 玲汰がはにかみつつ控えめな笑顔を見せた。不器用な少年の笑顔。咲野はふふふ、と嬉しそうに笑う。彼女の陽炎のような笑顔は玲汰には何だかこそばゆい。思わず咲野から目を逸らした。


「玲汰くん、お腹、空きましたか?」


 そっとお腹に手を当てる。今日は新幹線で買ってもらった朝ごはんしか食べていない。そして今はもう夕方になろうとしている時間。今の今まで意識していなかった空腹が、待ってましたとばかりに目を覚ます。


「……空きました」


 恥ずかしそうに答える玲汰。咲野は少し身を乗り出して、彼の顔を窺うように見る。

 玲汰は、近くなった彼女の表情を恐る恐る上目で見ようとした。


「そうしましたら、ご飯にしましょうか」


 彼女の口から出てきたのは優しい誘いだった。玲汰は声を出さずにこくりと頷く。

 この家で食べる、初めての食事だ。


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