10+9 答え
リクガメは走る。息を切らせて腕を大きく振って、駅の構内の長い廊下をひたすら走りに走った。
ミスジハコガメが速い。すでに後ろ姿を見失っている。しかし行く先はわかる。スッポンのいる場所、オサガメの部屋だ。
『ごめんください』も『おっちゃんいるー?』も全て省いて、玄関の扉を押し開けた。と、すぐ先にミスジハコガメ。その向こうには頬を赤らめたスッポン。首を伸ばしてリクガメの姿を確認すると、物凄い勢いで目を逸らす。
ミスジハコガメが振り向いた。リクガメの姿を見つけるとがばりとスッポンに向き直り、その肩に手を置く。スッポンがびくりとしてミスジハコガメを見上げる。リクガメは唇をわななかせ、慌ててどたばたと駆け寄った。
「なんだよ」
肩を掴まれたミスジハコガメがリクガメに凄む。リクガメはまだ息が切れていて声が出ない。
「てめぇ関係ねえべや」
首を横に振る。
「……関係、あるの?」
スッポンの質問に、今度は首を縦に振る。スッポンが大きな胸をさらに膨らませた。
「おい、リク!」
ミスジハコガメが怒鳴る。リクガメの手を振り払い、向き直り、その胸座を掴み上げると顔を近付けてきた。
「言ったべや。散々こいつをないがしろにしてきたお前に、俺を邪魔する資格はないって…」
「ぃ……」
ようやく呼吸以外の機能も取り戻し始めた気道から、リクガメは音を絞り出す。「『ひ』?」と首を傾げたミスジハコガメの胸座を掴み返して、もう一度息を整えると、えづかんばかりに咳込んでから顔を上げた。
「し……、資格…は、……けど…、」
ミスジハコガメの眉間に皺が寄る。
「そい…、す、…は、」
スッポンが息を呑んで身を乗り出す。
「おれの……」
「お前の?」
「リッくんの?」
ごくりと息を飲む三重奏の後でリクガメは一言、
「……ほ、」
保留だから。
ミスジハコガメがぽかんと口を開けて固まった。リクガメの荒い呼吸だけが辺りを包む。
ミスジハコガメの横から俯き加減のスッポンが歩み寄ってきた。ミスジハコガメとリクガメの間に立って男たちの腕を下ろさせるとリクガメに向き直る。
リクガメは死にそうな息使いだが真剣な気持ちでスッポンを見つめた。途端に眼前に拳。最短距離で繰り出された女の鉄拳は屑男の頬に直撃した。よろめくリクガメ、呆気にとられるミスジハコガメ、そして怒り狂ったスッポン。
「なぁ?」
頬を押さえてリクガメは顔をあげた。肩で息をするスッポンの顔は酷い。年頃の女のいじらしさも糞もあったものではない。
「お、おま…! な…」
「言うに事欠いて『ほりゅう』?」
スッポンの野太い声にミスジハコガメがその横顔を二度見する。
「事実だべや」
ようやく声が出るようになってリクガメは反論する。しかし殴られた衝撃で頬の内側と舌が痛くて上手く発音できていない。その腑抜けた発声に腹が立ったかのように、スッポンは耳まで真っ赤にしてリクガメの襟ぐりに掴みかかった。ミスジハコガメは半歩退く。
「この状況わかんない!? 告白されてんの、私! そこにしゃしゃり出てきたの、あんた! もすこし気の利いたこと言えないのかいッ!!」
リクガメの首を前後に振りながらスッポンは怒鳴り散らす。
「気の利いたことぉ!?」
頭を揺さぶられながらリクガメも反論する。
「回りくどいんだよ、お前は! 言いたいことあるならはっきり言えや! 『わかれわかれ』ってわかんねから聞いてんのにそれもだめって言われちゃ…」
「わかるべさ普通! 鈍感! ばか! ほんっとに気ぃ利かないわ、この最低男!」
「かわいくねぇなぁお前は! わっかんねえよ! わかるわけねえべや!」
言いながらスッポンの手からようやく逃れる。襟首を緩めるが息をつく間もなく、
「あんたにかわいいって思ってもらうために生きてるわけじゃないですうー! 男の理想を押し付けないでくださいぃい! 差別主義者さんッ!」
スッポンからの怒涛の口撃が降り注いだ。もちろんリクガメも負けていられない。
「腹立つでや! 何なね、お前!! ミスジに色目使っときながら女は使ってないとか言うわけ?」
「色目ぇ!? 何言ってんの? すったらもん使ってないわ!」
「使ってるべや! ここんとこずっと見つめられてるっつってたぞ! 男ばその気にさせてこうやって連れ込んでんだろ? やらしいー! たらしー! はしたねぇー!」
怪訝そうに眉根を寄せたスッポンは、何かに思い至ったようで「違うちがう!」と首を横に振った。
「違う!! あれはミスジくんがでっかい鼻くそつけてたからで!」
「はな…?」
ミスジハコガメは、より目になって自分の顔を見ようと難しい努力を始める。
「鼻の下にでっかいのついてたんだもん! でも次の日もその次の日も同じところについてたからほくろかな? って思ったけどやっぱり鼻くそだったから…」
「くそくそ連呼すんなよ!」
リクガメは叫ぶ。
「鼻くそはどこまでいっても鼻くそだべさ!!」
スッポンも叫ぶ。
「目くそ耳くそみたいに目やにとか耳垢とか別の言い方ないんだから仕方ないしょや! それともはあんたは知ってるの? 知ってるなら教えてよ、博識差別主義者の男尊女卑男!」
「悪口が長いわ! 勘違いさせた時点で色目なんだよ!」
「だから使ってないってば! 差別主義者!」
「黙れ! 自分のことは棚に上げてこの色目女!」
「うるさい! ごうかん…」
「だああーッ!!」
リクガメはスッポンの口を正面から手で塞ぐ。しかしスッポンはその両手をするりと払い、くるりと背を向けるとリクガメの襟と袖を握りしめた。
浮遊感。まずいと思った時には背負い投げを食らっていた。背中から床に叩きつけられてリクガメは数秒、息が止まる。非情なまでに無慈悲なスッポンは、身動きが取れない男の耳の真横に足を踏み鳴らした。鼻くそが取れたのか変な形で両手を持ち上げたままのミスジハコガメが、スッポンを凝視している。
「気安く触んないでよ」
自らの膝に腕を置き、リクガメを覗きこむようにして見下ろすスッポン。それを充血した目で見上げながら呼吸の再開を待つリクガメ。
「もういい、もういい!! もう知らないッ!!!」
鼓膜に響く声で叫ぶとスッポンは腰を伸ばした。ようやく息をし始めたリクガメを一瞥すると、ゆっくりとミスジハコガメに振り返る。ミスジハコガメはスッポンと対峙して、後ずさりして壁に貼りつく。
「騒がしくてごめんね」
瞬時に切り替え、しおらしくいじらしく、もじもじとミスジハコガメに語りかけるスッポンに、ミスジハコガメは目を瞬かせる。
「ミスジくんの気持ち、凄くうれしかった。ありがと…」
「あーーーー!!」
突然ミスジハコガメが発声練習を始めた。スッポンはきょとんと首を傾げる。それはもう、可憐に健気に。
「ミスジく…?」
「あぁのさ、あれだ! あれあれ! 俺、勘違いだったかなあ?」
「え?」
「やー…、やっぱしもっとお互いのことをよく知ってからじゃないと。こういうのって、ほら、なんつうか失礼っしょ! ねえ?」
今さら前言撤回する方が失礼だとは思われるが。
「リク!」
ミスジハコガメはスッポンを壁伝いに移動して首を伸ばした。リクガメは目だけで応える。
「お前、スッポンとあれだろ? なんかその……、あれだべ?」
考えていることが透けて見える。
「悪かったな! 横入りしたみたいになって。俺、いいからさ、な? こういうのはそうだよな!」
先と言っていることが一八〇度反対な気もするが。
「ってことだから、」
ミスジハコガメは起き上がってきたリクガメの肩に手を置きごくごく小声で、
「譲るわ」
「ミスジくん?」
「したっけ!」
スッポンの呼びかけを完全に無視して、ミスジハコガメは逃走した。遺されたスッポンはぽかんとして佇む。
「振られたな」
廊下の床に胡坐をかいてリクガメが言った。「え?」と首をかしげるスッポンに、「お前、振られたんだよ。気付けや」と説明してやる。
「……だって、今さっき告白されたばっかり…」
「あんな怪力がさつおばけ見たら、誰でもどん引きするべや」
「それは! あんたが変なこと言うから…」
言いかけてスッポンが下を向いた。
「どうしてくれるの。せっかく初彼できそうだったのに」
唇を尖らせるスッポンにリクガメは苛立つ。
「ミスジと付き合いたかったの?」
「そうじゃなくて!」
「誰でもいかったの?」
スッポンが押し黙った。
押し黙ったまま踵を返す。そのまま本当に無言で立ち去りかけたから、リクガメは慌てて立ち上がり、その手を掴んだ。
「……触らないで…」
「聞いてるべや。誰でもいいのかよ」
スッポンは奥歯を噛みしめる。それからきつく睨み上げてきて、
「これ以上、何言わせたいの? あんた、ほんっと最低…」
「俺でなかったの?」
リクガメは至極真面目に問いかけた。しかし意に反してそれは火に注ぐ油となる。
「最ッ低! 自惚れにも程があるしょや! 気持ち悪い自信過剰! もういい離して…ッ!」
「俺はお前が…!」
スッポンの動きが止まる。泣きそうな顔を数段階に分けてぎこちなく持ち上げる。
「………なに?」
リクガメはスッポンから手を離して後ろを向いた。その顔を覗きこもうとスッポンは回り込む。
「ねえ、なんて言ったの?」
「……わかれや」
「わかんないから聞いてるしょや」
「嘘つけ! わかるべや!」
「……私のこと、……」
肝心の二文字は声量が弱すぎてほとんど吐息だった。しかし、リクガメにはしっかりと届いていた。どもり気味になりながら、照れ臭さに体温を上げながらリクガメは、
「…………むぃ、ミスジに、取られたくない程度には」
精一杯の言葉で答えた。
答えたつもりだったが、遠回し過ぎたのだろう。スッポンの上気した口元はすっと下がり、顔を背けてため息をつく。
「……おい」
背を向けて答えない。
「呼んでるべや」
無言で俯いている。
「おい、スー!」
「それってさぁ、」
肩に手を置かれたままスッポンが語り始める。
「ミスジくんが私のことば好きって言い始めたからなんかいきなり惜しくなってきたって感じっしょ。それまでそこら辺に散らかしてほっぽといてたのに、他の子が遊び始めたらいきなりそのおもちゃで遊びたいって言いだす子どもと同じだべさ」
言われてみると妙に腑に落ちる。
「単に独占欲でないの?」
心当たりがなくも無い。
「そういうのいいから」
「どんなのならいいんだよ!」
頭をかきながらリクガメは声を荒らげた。
スッポンは唇を尖らせて黙りこむ。しばらく無言でいたが観念したようにぽつりと一言、
「お兄さんとお姉ちゃんみたいなの」
わかんねえ。
「具体的に」
「……もしも私のこと、ほんとに……なら、ちゃんと言ってほしい」
言ってスッポンは振り返った。
「私はちゃんと言ったよ?」
上目遣いで見上げられる。
なんだこの時間は。リクガメは唇を固く結ぶ。我慢大会か根比べか? それとも何かの試練なのか?? 見つめられれば見つめられるほどリクガメ唇を固く噛みしめ、堪え切れなくて瞼も結ぶ。沈黙が息苦しくて薄眼を開けると、正面にスッポンがいた。
「はっきり言って。私のこと嫌い?」
「嫌い……、じゃあない、け、ど…」
「じゃあ、……好き?」
顔面が発火する。その顔は嫌いじゃない。
「私は……、………好き」
「か、」
かわいい。
「え?」
真っ赤な顔を背ける。
「リッくん?」
スッポンの潤んだ視線が、ますますリクガメを赤くする。
「ねぇ」
「……うん」
押し負けた。
*
スッポンの言うとおり単なる独占欲に過ぎなかったかもしれない。本当は気持ちなんてあってなかったようなもので、ほぼほぼ成り行きだったかもしれないが、なんやかやでスッポンの謎なぞは解明され、紆余曲折を経てそうなった。
同盟への加入条件を満たさなくなったリクガメが、後日男どもからぼっこぼこにされたことは言うまでもない。