10+7 わかれ!
「……んだよ」
スッポンが出てきた。
「見張り」
スッポンは至極真面目な顔でそんなことを言う。
「何の?」
「あんたの」
あれ以来、スッポンからは『あんた』呼ばわりされている。
「帰るだけだべや」
リクガメはうんざりして吐き捨て、踵を返して廊下を歩くが、
「ちゃんと部屋を出てくところまで見とかないと心配だから」
スッポンはしつこくまとわりついて来る。
「帰るって」
「信用できない」
「しろや!」
「お姉ちゃんの個室の前、通るし」
「いつの話だよ」
「たった一年前」
スッポンは『たった』の部分を強調する。
「……もうしないっつうの」
「信用できない」
「しろや!」
リクガメはついに立ち止まって振り返った。
「しつこいんだよ、いつまでもいつまでもいちいちいちいち! 根暗なんだよ!」
「当たり前でしょや! 心配だもん。お姉ちゃんはあんたがいる限りずっと危険に晒されてるし、お兄さんがいない時に限ってあんたはうちに来るし」
スッポンも応戦する。
「おっちゃんに呼ばれたのが今日なんだよ!」
「別の日にしてもらえばいいだけでしょや!」
「すったら二度手間できるかよ。おっちゃんは忙しいべや!」
「でも……、したらおじいちゃんをあんたのところに呼べぶとか…」
「駅の頭首ば呼び出すって俺、どんだけ偉いと思ってんだよ!」
「それは……、けどなんか……」
自分の矛盾に気付いてきたのか、スッポンの口撃が弱まってきた。リクガメは畳みかける。
「大体お前、やってることが変だべや。俺を部屋に入れたくないっつうなら『あのこと』ヒメちゃんにばらせばいんでないの?」
何故かスッポンは、あの日のことを誰にも口外していない。
「したら間違いなく俺は出禁になんだべ? 万々歳っしょ、お前にとっては」
スッポンは俯く。
「それとも何? 俺の弱み握って奴隷にでもしたいわけ? 悪趣味ぃ~! 性格悪いねえ、スーちゃんは」
スッポンは唇を噛む。
「『スッポンさま~、お肩をお揉みしましょうかぁ? お荷物お運びいたしますか~?』」
「うるさい…」
「『お御髪がお綺麗でございますねえ。お顔はそうでもございませんがねえ~?』」
「うるさい!」
「『怒るとより一層、お顔がお醜くおなりになります…』」
「うるさい! 強姦魔ッ!!」
「ばっ!!」
調子に乗ってスッポンをいじめていたリクガメは、その口から飛び出してきた禁句並みの単語に慌てた。
「お前、それは言わないやくそく…」
「強姦魔、強姦魔、強姦魔! 変態弱虫女の敵!」
「スー!」
「お姉ちゃぁーん! ここに強姦魔ぁー!!」
リクガメは思わずスッポンの口を両手で塞いだ。勢い余って壁に押し付ける。スッポンはリクガメの両手首を掴んで押し上げ応戦する。手首が痛い。リクガメは押し負ける。
「離してよ」
「言うなやそれ以上」
「言ってほしいんでしょ? あんたが言えって言ったんだべさ!」
「わかった、わかったから…」
「離してって、」
言いながらスッポンはリクガメの両手首を握ったまま、片方をその喉元に押し付けてきた。襟が巻き込まれる。リクガメはその手を見たがもう遅い。
「言ってるべさあ!!」
足を払われ首元を支点にして、リクガメは一回転して廊下の床に叩きつけられた。衝撃で壁際に飾られていた陶器が揺れて、棚から落ちる。乾いた音を響かせて陶器は粉々に砕け散った。
「こ…んの怪力女ッ!」
「悪いのはどっちさ!?」
「あんたたち、」
地響きのように静かな、しかし不穏な声色に、リクガメとスッポンは同時に振り返る。仁王立ちしていたのはスッポンの、
「お母さん…」
「外でやりな外で!!!!」
「「はい!!」」
鬼の憤怒に背を向け廊下を駆け抜けた。
改札を駆け上がって地上に出る。夜明け前の静かな寒さが汗まみれの肌を優しく冷やす。
「おばさ…、……怖すぎんだよ!」
膝に手を置き息を切らしてリクガメは悪態を吐く。
「あの花瓶、確かチドリのとこからもらってきたやつで…、お母さんの、お気に入りだったから……」
スッポンも胸に手を当てて呼吸を整えている。
「……それやばいっしょ」
リクガメは恐怖に顔を引き攣らせ、
「あんたのせいでしょや」
スッポンはふくれっ面で言い切った。かわいくない。
リクガメは大声をあげながら砂の上に倒れ込む。大の字になって寝そべり空を見上げて息を吐くと、白い靄が視界いっぱいに広がった。
静かだった。二つの呼吸以外は何も無い。うるさい子どもたちも何かと茶々を入れてくる男たちも緊張を強いられるヒメウミガメも誰もいない。
「……あのさあ、」
リクガメは意を決してスッポンに話しかけた。返事はない。
「……スー?」
「何さ」
やっと返事をした。おそらく自分の頭の上の方にいるのだろう。顔も影も見えないけれども会話をする気はあると思う。
リクガメは息を吐いた。吐ききってから次は肺が苦しくなるまで目一杯に吸い込む。それから数秒息を止めて、
「…………ごめんな」
ようやくその一言を告げた。苦しかった息を吐きだすと、先よりも濃い靄が白く視界を埋め尽くした。
「……何に対して」
スッポンが言う。若干声色がいつもよりも和らいだように感じる。今なら聞けそうだ、そして言えそうだ。
「あの時のこと」
言ってリクガメは起き上がった。スッポンの姿はない。背後にいる。ちょうどいい。
「あの後考えたんだけどさ、多分、お前が正しいわ。だから、ごめん」
「何に対して」
もう一度同じ詰問。リクガメは少し言い淀んでから、
「ヒメちゃんにしたこと」
言ってからもう一度、
「……しようとしたこと」
言い直す。
「私に言うことじゃないしょや。謝る相手間違ってない?」
スッポンの声色がまた刺々しくなった。しかしまだ静かに話してくれている。
「お前しか知らないべや」
何も知らないヒメウミガメに教えるべきではないだろう。
「だから代わりに聞いてや。ごめ…」
「勝手だね」
いらっときたけれども耐えようと思う。多分八割くらいは女の言い分の方が正しい。多分。
「でさ、」
ここからが本題だ。
「なんであの時、助けてくれたの?」
「誰を?」
何となく言いづらくて押し黙ると、スッポンはこれみよがしに息を吐いた。そして、
「あんな状況、ほっとけるわけないべさ」
吐き捨てるように言う。
「お姉ちゃん、私と違っておっとりしてるしおしとやかだし」
あくまで姉のためだったと強調する。
「でもさあ、」
リクガメは首筋を手で擦った。
「もしあそこで寝てたのがヒメちゃんだったら、お前が俺を止めたのもわかるよ。でもあの時あそこにいたのはヒラタ君で、お前もそれは知ってたんだべ? お前言ってたっしょ。俺なんてヒラタ君に殺されればいいって」
「言ってない!」
「似たようなこと言ってたべや」
スッポンは押し黙る。リクガメは胡坐をかいた自分の脚を見つめて、鼻で深呼吸した。やはり白い息が広がったが、先よりも規模は小さい。
「考えたんだけどさ、あの後。もしあの時、お前が匿ってくれなかったら、俺今ごろ半身不随か下手すりゃこの世にいなかったと思うんだよね」
言いながらヒラタウミガメの笑顔が想起されて、股間が寒くなった。
「だからさ、あの時お前が助けてくれたのって、俺ってことにならない?」
返事はない。
「だからさ、その……」
リクガメは顎を引く。ここまで来て怖気づくな。行けよ、行けって!
「やー………、だからあ、」
唾を飲み込み顔をあげた。
「怖い思いさせてごめんな! それと助けて…、止めてくれてありがとうッ!!」
一息に言って立ちあがった。心音が鼓膜を揺さぶって頭の中で響いている。単に謝るだけなのに、大した運動量でもないのに酷い発汗だ。でも言いきった。言ったぞ、言った!
「そんだけだから。じゃ!」
スッポンの方を見向きもしないで早口で足早に、その場を逃げようとしたが、
「……すー…、っぽん、さん?」
スッポンが泣いていた。わけがわからなくてリクガメの足は止まり、時間差で慌てふためく。
「え?? え゛、スー? なしたお前!?」
泣くところあったか??
「いやだから、その……、ごめん! ごめんって!」
「……ならざあ!!」
「はい?」
「そ、こまで、…わがっただらさあ、だん…で、なんで?」
「なにが?」
何を言っているんだこいつは。リクガメは軽く混乱している。
リクガメの困った顔を見つめてスッポンはさらに咽び泣き、鼻の奥から高い音まで出す始末だ。
「スー?」
「だんでわがんないのさあ!!」
「だから何がぁ!?」
「あだしのぎもぢぃ!!」
「お前の気持ちい!?」
リクガメは混乱の中、スッポンの謎なぞよりも目の前の女を泣きやませる手段を探し始めた。
「とりあえず落ち着きな、な? 鼻紙持ってっか? お前、ひっどい顔してる…」
「そうじゃだくでえ!!」
「ごめん! ごめんって!!」
もう謝るしかない。
だがスッポンは謝罪程度では許してくれない。
「あやまっでほし…だ、なぐて……、だんでえ? なんでさぁ…」
ついに膝をつき、泣き崩れてしまった。リクガメは重度の混乱に陥る。
「『なんで』なんだよ、何言ってんだよ、何の話だ…」
「だからあ、」
「なに!」
「すきだからあ!!」
「ああそうかい!!」
怒鳴り合ってからとんでもないことを聞いたことに思い至った。
「……はい?」
呆けたリクガメは幾分か冷静さを取り戻す。しかし先とは別の混乱が押し寄せる。
スッポンは泣きじゃくる。泣きじゃくりながらも堰を切って喋り出す。
「……しでほじくだがったのお。でぃ、り…っくんに゛ぃ、はんだいしゃに、なって、ほしぐなかっだ。やだのお。やだよお。やだ…、…めてよぉ……」
リクガメは完全に冷静さを取り戻していた、表面上は。内面は混沌と化していた。混乱し過ぎていて上手く表層に反映出来なくなっていたに過ぎない。新しい問題が未体験の構造をしていて、分解しようにもどこから手を付ければいいかわからず途方に暮れている感じとも言うべきか。真剣そうな顔に反して頭の中は真っ白だ。
「ぼう、じない?」
スッポンが上目遣いで尋ねる。リクガメは無反応だ。
「ねえ!」
「……へ?」
スッポンの怒鳴り声にリクガメは我に返る。何の話かやはりわからない。
「もうしない? しだい!!?」
「う、うん。しない? し、ない…」
「やくそく!!」
「う、……はい。します、はい…」
「ぜったい!?」
「はい! ぜったいぜったい!」
「……だら、いいよ」
「はい?」
「おねえぢゃんにあっでも。ゆるず」
本気でずっと見張っていたらしい。
「………はい」
「それだけ?」
「はい?」
突然スッポンが顔をあげてきた。リクガメは後ずさりする。涙で濡れている癖に怖ろしい形相だ。
「ほかにだいの!?」
「なにが?」
スッポンが歯を食いしばった。リクガメは構えようとしたが間に合わなかった。
スッポンの平手打ちが頬に直撃する。さすが怪力女。目がちかちかして頭がくらくらした。
「わかればかぁ!!」
叫ぶとスッポンは改札に駆けこんでいった。
リクガメは斜めを向いた首を戻す。明け始めた空の下で、油を差し忘れて放置されていた古い機械みたいに、ぎこちなくスッポンが去っていった方を見る。頬に手を当てるとほんのり熱い。
「………わ、」
わかるかああああああーーーー!!