10+5 加害者の言い分
「お兄さんッ!!」
スッポンの声にヒラタウミガメが扉の方を向く。と、その顔めがけて何かが命中。布切れ? ヒラタウミガメの顔はそれに覆われる。
「なんだこれ…?」
寝起きのかすれた声でヒラタウミガメがぼやく。顔に巻き付いた何かを両手で手繰り寄せ、視界を取り戻そうとしている。側頭部から床に倒れ落ち、悶絶しながら苦悩していたリクガメは誰かに手首を掴まれた。
「立って、早く!」
スッポンがごくごく小声で囁く。その顔と真意を確認する前にリクガメは無理矢理立たされ、スッポンに導かれるようにして扉を目指す。
「す…」
「しーッ!!」
唇の前で指を立てて振り返ったスッポン。その目が見開く。今度は何だ?? と思った時にはリクガメの体は浮遊感の中にいた。スッポンの豪腕に振り回されて首から上だけ廊下に出る。転ばないように踏ん張ったのに、背後から物凄い力で尻を押されて顔から床につんのめる。
「スーちゃん?」
顔が露わになったヒラタウミガメがスッポンを呼ぶ。息を切らせたスッポンは廊下口で振り返り、起き上がりかけたリクガメを足蹴で押しやって笑顔を作った。
「何してんの?」
「お、お姉ちゃんが! お手洗いにいたから…」
「ヒメが?」
ヒラタウミガメの怪訝そうな声。リクガメが顔を上げようとすると、さらにスッポンに後ろ蹴りされた。
「お姉ちゃんてば、ほら起きて。個室着いたよ、お姉ちゃん!」
廊下の壁にもたれかかるようにして座らされていたヒメウミガメの肩をスッポンは揺する。ヒメウミガメは「ヒラタくん…」と、まだ男の名を呼びながら夢の中だ。その目がうっすらと開いてこちらを見たようにリクガメは感じた。
「すっかり酔い潰れちゃってて。お兄さん、お願いできますか? あたしじゃそこまで運べなくて」
どの口が何つった? リクガメはスッポンを凝視する。俺をぶん投げた怪力女が。
「ごめんね。いつ出てったんだべ。全然気付かなかったわ」
すっかり覚醒したヒラタウミガメの声が近づいて来た。リクガメは四つん這いの情けない格好のまま慌てる。そこにまた助け舟。
「そこ入って」
スッポンがほぼ唇の動きだけで言った。リクガメは「はい?」と首から上を突き出したが、
「そこ! その扉! いいから入ってて!」
ほとんど叱りつけられる。リクガメは小刻みに頷きながら指された扉に縋りつき、ばたばたとその中に逃げ込んだ。
扉に背中を押しつけて外の様子を耳だけで窺う。また心臓の音がうるさいが、先までの静寂とは異なり、今度はすっかり話し声も聞こえてくる。
「あちゃあ、ぐっすりだねえ。ごめんね、スーちゃん」
「いえ、いつものことなので」
「おい、ヒメ、ヒメ! 起きろって、風邪引くぞ」
「飲んだ後はいつもこうなんです」
「ミナミちゃんの花嫁衣装に興奮してたしねえ。調子こかせた俺も悪かったわ」
「いえ、あたしもちゃんと見てなくて…」
「スーちゃんはしっかりしてるしょや」
ヒラタウミガメには姿を見られていなかったのかもしれない。リクガメはほっと一息をつきかけたが、
「ヒラタくん、」
「やっと起きたか。ほら、立て」
「お姉ちゃん、布団で寝よう?」
「リクは?」
心臓が止まった。確かに一瞬、何も聞こえなくなったからきっと止まっていた。直後に狂ったように隆起と陥没を繰り返す胸郭の動きに、リクガメは死を覚悟する。
「リクぅ?」
ヒラタウミガメの怪訝そうな声。
「な……に言ってるの? お姉ちゃん、夢でもみてたんだべさ」
無暗に明るいスッポンの声が何一つ隠せていなくて、むしろ自白に近い。
「リクいたべさ。おじいちゃんところかなあ?」
「駄目だこいつ、夢の中だわ。スーちゃんあとはいいよ、俺が運んどっから」
「すみません」
「なんもなんも。かえってごめんね」
「リクいたっしょ。あの子何してたんだべ…」
「お兄さん、お願いしますね! おやすみなさい!!」
スッポンの早口が聞こえたと思ったら背中がすっと寒くなった。扉が開かれたのだ。まさかそこにリクガメがいるとは思わなかったスッポンは驚いた顔を見せたが、リクガメも腰を下ろしていた。上手く反応出来ないままスッポンがリクガメに躓く。リクガメは腕を伸ばす。倒れ込んできた女を滑り込みながら受け止めて、半回転して衝撃から守る。目を開けた時にはまるで夜這いに挑むような体位になっていた。
「スーちゃん大丈夫? なまらすっごい音したけど」
ヒラタウミガメは紳士だ。交際相手の妹にもその態度は崩さない。
リクガメに覆いかぶさられていたスッポンはその顔を掌底打ちで押し退け、
「大丈夫ですッ! 転んだだけ! ちょっと躓いただけだから!」
取って付けた言い訳をする。
「そうかい?」
ヒラタリクガメは紳士だ。交際相手には裸を見せてもその妹の部屋を覗きこむようなことはしない。扉の後ろから声をかけてくるに止めていたが、
「手ぇ貸そうか?」
その爪先が踏み出された。リクガメは血の気が引く。
その血の気の引いたリクガメの腹にスッポンの膝がめり込んだ。リクガメは思わず呻く。その声さえも覆い隠すようにスッポンの気合の声が響いて、リクガメは投げ飛ばされた。
「スーちゃん??」
「ごめんなさい! 受け身取ったら気合入っちゃって!」
どういう言い訳だ、と内心悪態を吐きながら、リクガメは腹を押さえて部屋の隅で蹲る。
「そ、そうかい……?」
ヒラタウミガメは扉の手前で立ち止まった。よほど自分を部屋には入れたくないのだろう、と交際相手の妹を慮る。そういう年頃だしな、と自分に言い聞かせつつ、昔はもっとなつかれていたのにな、と半分寂しい気持ちになりながら、「わかったよ」と声をかけた。
「気をつけな。おやすみ」
「おやすみなさい!」
ヒラタウミガメの影と声が遠ざかり、隣の部屋の扉が閉まる音を聞いて、リクガメとスッポンは同時に息を吐いた。スッポンが振り返る。リクガメは腹を押さえたまま腰を上げかけたが、
「スーちゃん、半纏忘れてってないかい?」
再び隣の部屋の扉が開く音とヒラタウミガメの声。スッポンは床に手をつき大股の三歩で廊下に至ると、「お兄さんが裸だから!!」と叫んで半纏をヒラタウミガメの手からむしり取り、物凄い剣幕のまま自室の扉を勢いよく閉めた。
乱暴に閉じられた扉の前でヒラタウミガメは立ち尽くす。自分が思うよりもスッポンには嫌われていたのかもしれない。
「下はちゃんと隠してるっしょや……」
自分の体を見下ろし、上半身も隠さないと駄目だったかと落ち込みながら、ヒメウミガメの部屋にとぼとぼと帰っていった。
*
スッポンの息が荒い。修羅場を回避するためとはいえ、かなりの大立ち回りだった。息も切れるだろう。半纏を胸前で握りしめ、呼吸を整えている。
リクガメは肩身が狭い。スッポンに蹴られた腹と、投げ飛ばされた時に打ち付けた肩と背中と腰と顎も痛かったが、胸の痛みはそれ以上だった。
「「あのさ……」」
同時に声を発した。スッポンは唇を閉じてリクガメに促し、リクガメも首を横に振る。何度か同じやり取りを繰り返した後で、「ここはお前の部屋だから」という理由でリクガメの遠慮が通った。
「リッくん、……男が好きだったの?」
「ち! 違うちがう! 誤解だ…」
「声、おっきい」
注意されて口を噤む。それからばつが悪そうに上目遣いでスッポンを見遣り、やっぱり決まりが悪くてリクガメは顔を背けた。
「ヒラタ君がいるなんて思わなかったんだよ。まさか裸で寝てるなんて」
まさかそんな関係だったなんて。
「ヒメちゃんの部屋だべや。なんでヒラタ君が…」
「やっぱり知らなかったんだ」
スッポンが呟いた。「やっぱりって?」とリクガメは顔を少しだけ上げる。
「お姉ちゃんとお兄さん、……ヒラタ君。もう五年くらい付き合ってるし、駅中みんな知ってるよ」
「五年!?」
声が大きいと再び窘められる。平静を保とうと試みるが気持ちの落ち込みは変わらない。
「五年ってもう結婚してるようなもんでしょや……」
「だからみんな知ってると思ってたって言っるしょや。むしろなんでリッくん知らなかったの? 気付かなかったの? なんで? 見てたらわかるっしょ」
畳みかけられてリクガメはさらに落ち込む。
「……お姉ちゃん以外、何も見えてなかったんだ」
スッポンがぽつりと呟いた。
「うるせえ」
弱々しくリクガメは返した。
「でもさ、」
スッポンは半纏を握りしめて俯く。
「もしあそこに寝てたのが、お姉ちゃんだったらどうしてたの?」
「そりゃ、告白して…」
「こんな昼間に?」
「ちゃんと起こして…」
「布団に乗ってたのは?」
「いや、だから…」
リクガメは首をすくめる。当然、下心はあったわけで、あわよくばと思わなかったと言えば嘘になるわけで。
スッポンが大きく息を吐いたから、リクガメは恐るおそる黒目だけでそちらを見た。自分の浅はかな下心を見透かされたと思ったのだ。だがスッポンの眼差しは呆れているわけではなかった。
リクガメはその視線から逃げられなかった。顔を合わせる度に後追いをしてきた子どもは、すっかり女の顔になっていた。そしてその目は今、侮蔑の念を含んでいる。
「違うべさ」
スッポンが言う。何が? リクガメは本当に何のことかわからなくてそう尋ねる。
「リッくんのは強姦だよ」
「ごぅッ!?」
全く思ってもみなかったどぎつい単語で頬をぶたれて、リクガメは目を白黒させる。
「な…っ!? おま、ちょっ……。ち、違うって! すったらことやるわけ…!」
そこで言葉に詰まる。あの現場を傍から見たら、スッポンでなくともそう思うだろうと過ぎったのだ。だがここで肯定するわけにもいかない。
「誤解だ、スー。そんなつもりでヒメちゃんの部屋に行ったわけじゃなくて、」
この駅には夜這いという風習があって、
「俺はただ、ヒメちゃんに俺の気持ちを聞いてほしくて…」
「すったらもん、夜起きてる間にすればいいべさ」
仰る通り。
「こんな真っ昼間に、あんな酔ってべろんべろんのお姉ちゃんとこに、ましてや部屋まで押しかけてってすることでない」
反論の余地がない。
「でもさ? でも、」
この駅には、
「出てって」
スッポンは立ちあがると、部屋の扉を開けた。廊下から西日が射しこんできてリクガメは目を細める。
「早く行って」
「スー……」
「二度と来ないで。お姉ちゃんの前に姿現さないで、近づかないで、話しかけないで!」
そこまで言わなくても……。
「わかんないの?」
「……何が?」
「自覚ないの? 最低なことしようとしたんだよ!? あそこにいたのがお兄さんでほんとによかったってあたしは思ってる、お姉ちゃんでなくてよかったって。だってもし……」
そこでスッポンは身震いした。リクガメは暑いくらいなのに。
「スー…?」
「リッくんなんてお兄さんに叩きのめされちゃえばよかったんだよ」
本気で怒っているスッポンを見たのが初めてで、その怒りが本物過ぎて、年下なのに子どもだったのに、リクガメは気圧されて動けない。
「でなきゃあたし…!」
言いかけてスッポンは俯いた。リクガメは声さえかけられない。酷く怒らせてしまったし自分が痛々しくやらかしたことは骨身に染みたが、この時のリクガメは本当の意味でスッポンの怒りの理由を理解していなかった。
「……出てって」
スッポンが俯いたまま呟く。リクガメは何か言わねばいけない気がして、しかし何を言うべきかわからなくてその場を動けずにいると、
「くず。とっとと出てきな」
涙目の顔を上げてスッポンが恫喝した。リクガメは何も言えずに逃げるように退散した。
* * * *
それ以来、ヒメウミガメに自分から話しかけることはなくなった。ヒラタウミガメとは目を合わせられなくなり、対面した時には縮こまっている。スッポンには何か言わねばと思い続けているが顔を見ると肝心なことは何も言えなくなって、悶々としたまま鬱々と一年が過ぎた。