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アイノナイバショデ  作者: 笛み
番外編
158/159

10+158 待ってる

 末子のおしめを変えながら双子と次男に騒がないよう注意するヒメウミガメは、左耳の後ろの辺りに感じる重たい頭痛に耐えていた。長男は部屋の隅で蹲って、自分の感情を整理している。幼いくせによく出来た子だ。我が子ながら長男の成熟ぶりには感心する。それに比べて自分は。おそらく息子の実年齢にも満たないだろう自分の精神年齢の低さに、ヒメウミガメはうんざりした。



 リクガメの訃報を聞いた時、胸を占めた重たさが何の感情だったのか、ヒメウミガメにはわからなかった。悲しい、哀しい、悔しい、寂しい。もちろんそれらのどれもあったと思うけれども、一番大きかったのは後悔だった気がする。取り返しのつかないことをしてしまったという恐怖、まともに謝罪もできず和解も叶わなかった無念。リクガメが亡くなった事実を悲しむ以上に、自分自身の問題が真っ先に浮上した薄情さが悲しかった。そして申し訳なかった。泣くに泣けなかった。


「母ちゃん、」


 長男に呼ばれた。長女を抱き上げながら考え事をしていたヒメウミガメは我に返る。一時期リクガメに世話になっていた長男は、目だけでなく顔全体も首も赤くしていた。


「大丈夫かい? スジ…」


「俺でなくて」


 長男は扉の方を指さしながら言う。ヒメウミガメが指された方に顔を向けると、長いこと仲違いをしている妹が俯いて佇んでいた。


「スー…」


 ヒメウミガメは長女を下ろしながら妹の名を口にする。


 妹は泣き腫らした目をしていた。髪の毛は乱れ肩を落として背を丸め、昨日生まれたばかりの子どもはどこに置いてきたのか、手ぶらで虚ろな目をしている。


「母ちゃん…」


 叔母の心配をした長男に弟妹たちを見ているよう頼みこみ、ヒメウミガメは妹を部屋の外に連れ出した。



 *



「あんたモドキは?」


 妹のただならぬ雰囲気もだが、ヒメウミガメがまず心配したのは生まれたばかりの甥のことだった。


「アカマタさんが見てるのかい? さっきサキシマハブさんが連れてった時から泣いてたよ? 多分おっぱいだと思ったけど。……あんたもしんどいかもしれないけど母親になったんだから…」


「お姉ちゃん、」


 小姑のように口うるさくまくしたてる自分を妹が止めた。ヒメウミガメは唇を閉じ、視線を泳がせる。


 妹がリクガメの訃報で動揺しているだろうことは容易に想像がついた。既に別の男と家庭を持ったとはいえ、交際期間は長かった。精神的打撃は避けられないだろうし思うところもあるだろう。けれども妹には夫がいる。子どもも生まれて円満そうに笑っていた。失った者に代われる物はないけれども、別の者に支えてもらうことは可能だと思う。自分のように。


「……なに?」


 ヒメウミガメは俯き気味の妹の顔を見つめた。甥のことが気にかかるが、そのことを伝えても動かない妹に不安が募る。


 妹は右手を持ち上げた。見つめるように眺めた手の平で頬を覆い、左手も同様に動かして、自分の両頬を包みこむ。


「スー…?」


「モドキね、リクの子なの」


 妹の顔を覗きこんだヒメウミガメは、その口から語られた言葉で息が止まった。


「……はい?」


「結婚した時にはお(なか)にいたの。リクも『産んでほしい』って言ってくれて。一緒に育ててくつもりだった」


 妹は両手で目元を覆う。


「別れられなかったの」


 肩を震わせて妹はさらに言う。


「どやっても嫌いになれなかった、好きだった。好きなのまだ、大好き…」


 震える声の告白を聞かされる。


「マタさんには酷いことしたってわかってる」


 僅かな良心の呵責に首を竦める。


「駅のためにってお姉ちゃんががんばってたのも知ってる」


―ヘビはヘビ同士で結婚できないんだってさ―


―だからカメ(わたしたち)がヘビと結婚してかないと。それくらいの恩返しはするべきでしょ?―


 見合い前に、説得材料として妹に言い含めたのは自分だ。あの時の妹はまるで自分と目を合わせなくて、

反抗期まっただ中の娘みたいな態度だったから、ヒメウミガメは聞いていないと思っていた。第一妹とは長いこと仲違いしていたし。自分の都合や考えを邪魔されることはあっても、協力してくれることはないだろうと高を括っていた。


「ごめんなさい……」


 顔を手で覆ったまま、妹が背を丸める。誰に向けた謝罪だったのか。


「……アカマタさんは?」


 言うに事欠いて、ヒメウミガメは妹の夫のことを尋ねた。自分が妹に宛がった男。祖父のことも世話になっていたし、ヘビの中では比較的よく妹と話していたし、アカマタ自身が妹のことを憎からず思っているようだと聞いて決めた。リクガメとだらだらと煮え切らない関係を続けているよりも、新しい相手と新しい関係を築きあげていく方が妹のためにも、リクガメのためにもなると考えた。


 とんだ慢心だ。


「怒ってた」


 妹はアカマタの様子を一言で説明し、「当然だよね」と言って苦笑した。くしゃっと緩めたその顔は、そのままぐしゃぐしゃに歪んでいく。


「ごめんなさい……」


 アカマタに対しての懺悔か、ヘビに対するカメとしての釈明か。


「ごめん、お姉ちゃ…」


 自分に対しての謝罪だった。「………え?」とヒメウミガメは困惑する。


 謝られる理由がなかった。謝られるようなことは何一つされていないのだ。むしろ謝るべきは自分の方で、自分の誤信で、余計な手出しで、勝手な思い込みで暴走で、リクガメにした許されない行為だった。


 どこまで(おご)っていたのだろう。なぜ自分と同じように上手くいくなどと信じたのだろう。自分が上手く出来たからといって、その方法がいつでもどこでも誰にでも同じように通用するとは限らないのに。


「……何が」


 ヒメウミガメは辛うじてそう口にする。本当は謝らなければいけないのに、その一言を口にする恐怖に尻ごみする。善意だと自分に言い訳しながら、実際は妹の態度への腹いせに過ぎなかった。良かれと思ってなんて半分嘘だ。分からせてやりたかった、別れの辛さを。分かってほしかった、その後の新しい出会いを。許してほしかった、現夫との関係を。


 ヒメウミガメは下を向く。今さらながらに自分のしてきた妹たちへの仕打ちの愚かさを思い知る。自分のことばっかりだな、あの男の声が左耳の後ろに響いた。言い返せなくて唇を噛む。ほんとだね、あんたの言うとおりだった、私は自分のことしか考えてなかった。


「わたし…、なんもわかってなかった……」


 妹が鼻声で言った。ヒメウミガメは顔を上げる。何を言っているの? と妹を見つめる。それは私の方なのに。謝んないといけないのは私の方…


「リクに会いたい」


 妹が言う。大粒の涙を流しながら肩で息をする。


「お兄さんに会いたい」


 ヒメウミガメは息を呑む。喉から失せた水分が目頭に回って来る。


「おかあさん、おばあちゃん、おとうさぁん…」


 会えなくなった家族を呼ぶ妹はどんどん幼さを増していって、


「会いたいぃいい……」


 膝を付いて泣き崩れた。


「ごめん」


 ヒメウミガメも膝を付いて妹の肩を抱く。


「ごめん、ごめんスー」


 妹を上から覆うように抱きしめて震える頭に頬を寄せる。


「ごめんねスー、ごめん、」


「おねえちゃぁん!」


「ごめんね」


 妹は声をあげて泣きすさぶ。両手でヒメウミガメの上着を握りしめる。ヒメウミガメも妹の頭を力一杯抱き寄せて、互いに同じ言葉を繰り返す。


「おでぇぢゃ…」


「うん」


「おねがい」


「うん?」


「わすれだいで」


 咽びながら妹は、


「いながったこどにしないで…」


 会えなくなった者たちへの思いを吐露した。


「ばか」


 ヒメウミガメは鼻水を啜りあげて妹の頭を撫でる。


「忘れたことなんてないわ」


 妹が涙目で見上げてきた。丸い目が再び揺らいで赤ん坊のような声で泣く。


「待ってでいい? わたし、待っででぼいい?」


「当たり前だべさ」


「ちゃんと会えっかだぁ?」


「うん」


 意味の通らない会話。一方通行同士の言葉の往来。それでも触れた肌から思いは伝わり、姉は妹の言わんとすることを汲み取った。



 * 



 姉に促されてスッポンは部屋に戻った。子どもを連れておいで、一緒に育てよう、そう言ってもらえた。腹を空かしていたと言われたし、胸も張るし、授乳しなければいけないことに違いはなくてスッポンは姉に従う。リクガメが遺してくれた命だ。大切にしないと。泣き疲れた頭はそれくらいのことしか思えない。無責任、冷酷、非情、自覚の欠如。分かっていても心が追い付けなかった。体だけが設定された機械のように子どものいる部屋に向かう。


 扉を開けるとアカマタがいて、スッポンは驚いた。怒って出て行ったと思っていたからだ。アカマタは息子を腕に抱いて、湿らせた布をしゃぶらせていた。腹は満たされなくても口中を潤せたことで安心したのか、息子は穏やかな顔で必死に唇を窄めていた。


「なして……?」


 スッポンは尋ねる。こちらを一切見ないアカマタは無表情で息子を見下ろしながら、


「子どもに罪はなかろう」


 抑揚のない声で言った。


 途端にスッポンの顔に色が差した。自分の無責任さが怖ろしくなった。もしもあのままアカマタもこの部屋を出て行ってしまっていたら、この小さな命はどうなっていただろうか。


「ごめんなさ…」


 謝りかけて違うと気付き、


「ありがとうございます」


 敬語で頭を下げた。


 アカマタが鼻から息を吐く。湿らせた布を赤ん坊の口から取りあげ、赤ん坊を寝床に戻す。温もりを失い口寂しくなった息子は、再びか弱い声で不快を訴え始めた。やがて大泣き。騒音が部屋に響き渡り、スッポンは堪らなくなって息子に駆け寄る。


「ごめんね」


 抱き上げすぐさま授乳を始めた。待ちわびた食事に息子は勢いよく縋りつく。


「ありがとうございました」


 授乳をしながらスッポンは改めてアカマタに礼を述べる。顔は見られない。


「目ぇ離されんな。何あるかわからんぞ」


 無表情で夫が言う。「はい」とスッポンは頷く。


「よう泣く子やわ。手ぇかかるぞ、覚悟しられま」


「はい」


「大事にしてやられ。大事な子やろ」


 「はい」と言ったスッポンの傍らを、のっそりと立ち上がってアカマタがすり抜け、扉に向かう。頭を上げて振り返ったスッポンはしかし、その背中に何と言えばいいかわからず、視線を泳がせ瞬きをした。目が乾いている、そんなことに気付きながら。


「俺は出来ん」


 アカマタが呟いた。スッポンは顔を上げる。


「かわいいと思ってやれん。すまん」


 スッポンは俯く。「はい」も「いいえ」もどちらも不適切な気がして、黙って顎を引く。


 アカマタがため息を吐いた。スッポンはびくりとして恐る恐る顔を上げる。


「お(かしら)には俺から言っとくちゃ」


 何を? と尋ねるまでもなく、


「世話んなったのう」


 言ってアカマタは取っ手を握った。


「申し訳ありませんでした」


 スッポンは心の底から詫びる。夫となってくれた男に向けた、最初で最後の誠意だった。


 アカマタが立ち止まる。振り返りかけて思い止まり、下を向いてから天井を仰ぐ

と、


「オサガメさんの処方、明後日でよかったけ」


 普段の声色に戻って、仕事の話を始めた。


「明後日でも、明々後日でも」


 引き続き祖父の担当薬剤師を務めてくれるという厚意に、スッポンは申し訳なさしかない。


「明々後日じゃあ間に合わんかろう」


 アカマタは乾いた笑いで告げて扉を開ける。


「マタさん!」


 スッポンは半歩踏み出し呼び止めた。


「あの……ま、饅頭! また作ってきます」


 精一杯の贖罪の方法を提案したが、


「いらんちゃあ」


 鼻で笑って夫だった男は出て行った。



 * * * *



 スッポンとスッポンモドキはヒメウミガメの部屋のそばに引っ越した。同居は断った。姉とは和解したものの、新しい義兄はまだ受け入れられない。


 その代わり従弟たちと祖父を呼び寄せた。育児と介護を一手に担うことになったが、忙しい方がいい。考えてしまう時間が減るから。睡眠時間は以前にも増して短くなったが、賑やかな方がいい。隣に誰もいない代わりに。


 例の夜汽車は義眼を使いこなせるようになるのを待って、駅を出て行ったという。スッポンは知らない。あまり関わっていない。ただ、トカゲがあの男に向かって笑っていたとシマヘビが言っていたから、あの時思いとどまってよかったとは思う。


「モドキの目はお父さん似だねえ」


 息子はよく泣く。昼も夜もお構いなしに信じられないくらい泣く。でも、


「きっとお父さんみたいな強いカメの男になるよ」


 そう信じている。


 そうなってくれるまで、スッポンは待とうと思う。


 そしていつか、迎えに来てくれるその日まで、今度は自分が待つ番だと言い聞かせている。

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