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アイノナイバショデ  作者: 笛み
番外編
157/159

10+157 ずるいね

 イシガメは走った。裸足で走っていた。地下水が引いたとは言え濡れた通路は素肌を冷たく突き刺したが、そんな痛みに構っている暇はなかった。視界が揺れる。頭が回る。後頭部を強打しているのだ、多少の歪みはあるものだと瑣末な問題はかなぐり捨てて、一直線に地上を目指した。


 階段で躓く。手を突く、膝を打つ。構うものか。


 両手両足で階段を駆け上る。全身を使って改札を押し開け地上に飛び出ると、満天の星空がイシガメを迎えた。


 立ち止まって周囲を見回す。息が切れている、足の裏も切れている。力み過ぎて傷口を覆っていた頭の包帯からは血が滲み出ている。


「イシ!」


 弟のクサガメが追いついた。その後からカメの仲間たちが続々と改札を出てくる。その中にはヤマカガシとシマヘビも。


「お前そんなに走んなや! 頭打ってんだぞって血!」


 クサガメがまくしたてながらイシガメの頭に手を伸ばしたが、


「……何もねえべや…」


 イシガメは彼方を見つめて呟いた。その顔を覗きこむクサガメさえ見えていない。


「さっきさあ、さっきだってここで、カエルどもとやりあってたのに…」


 狩り合いの目的は瓶詰の中身の獲得だ。それ以外では互いの武器もまた資源となるため、全ての物を持ち帰る、または持ち去られる。だから、


「なんも残ってないべや」


 それは当然のことである。


「リク?」


 イシガメが裸足を踏み出す。クサガメが信じられない顔で兄の横顔を見つめる。


「リク? リク!!」


「イシ……」


 シマヘビが言って下唇を噛む。「やめろ」と手を伸ばしたクサガメも拒絶して、イシガメは班長を探す。


「イシ!!」


 キボシイシガメが怒鳴った。カメたちはびくりとして年長者に振り返る。


「もうやめれ」


 キボシイシガメは真っ赤な目でイシガメの背中を見つめ、


「いないんだよ、もう」


 分かりきった事実を告げた。


 イシガメは砂の上に膝をついた。クサガメが慌てて手を貸そうと駆け寄るが、


「俺のせいだ……」


 兄が掠れた声で何かを呟いたから、その横顔を覗きこんだ。


「俺がやられなければ、俺が下がることがなければ、クサもヤマもきっとリクに加勢できてて……。俺があん時…、俺が、俺が原付ば取られなければ…!」


 血の滲む包帯をむしり取らんばかりに頭皮に爪を立ててイシガメは自分を呪う。


 クサガメは「違う……」と言いながらも兄の言い分を否定しきれず、それどころか自分の落ち度に思い至って口を噤み、兄弟そろって自分自身を責め始める。


「イシ、クサ…、」


 その場では一番の年長者として何か言ってやらねばと思ったセマルハコガメも、年下の兄弟たちの呪詛にやられてその傍らで足を止め、自分自身を省みる始末だ。


「わたしのせいやろ……」


 鼻声で肩を震わせたのはシマヘビだ。


「ジュウゴの面倒見ててねってリクさんに言われたがに、私がジュウゴを行かせんかったら…」


「あいつがいなければトカゲがやられとった」


 しかしシマヘビの後悔をヤマカガシが否定した。


「イシを助けたがもジュウゴや。ジュウゴがおらんだらイシは怪我じゃ済まんかった」


 ヤマカガシから聞かされた事実にシマヘビは固まる。それがジュウゴを庇うための嘘ではないことは、クサガメの頷きが証明した。シマヘビは唇を噛んで俯くしかできない。


 その横をすり抜けて男たちの前に出て行ったのはアオウミガメだった。


 アオウミガメはイシガメの前で屈みこむ。自分を見上げてきた情けない横っ面を大きく振りかぶって平手打ちする。目が覚めるような乾いた音に、その場にいた全員がアオウミガメを見つめた。


「何すんだよ!」


 打たれた頬を手の平で覆ってイシガメは怒鳴りつける。飛ばされた唾に目を細めたアオウミガメは胸一杯に息を吸い込み、しかしそれを使わずにごくごく静かな声で、


「ずるすんなよ」


 凶悪な視線と共に凄んだ。





 すれ違うヘビに聞きながら、スッポンは例の夜汽車がいる部屋を探した。自分以外のカメたちは皆どこかに出払っているのか、誰にも会わなかった。幸いだ。道を尋ねたヘビは皆、自分の顔を見てぎょっとしていたから。きっと酷い顔をしているのだろう、滅茶苦茶泣いたし。年下たちに見せたい顔ではない。心配させてしまうだろうし。


 件の部屋は改札に繋がる通路の途中にあった。広間からも処置室からもだいぶ離れている。あの夜汽車もそれなりの怪我を負ったとヤマカガシは言っていた。おそらく改札に逃げ込んで最寄りの部屋に担ぎこまれて、その場で治療を受けたのだろう。随分な待遇だ、夜汽車のくせに。


 部屋が近づくにつれ、くぐもった怒鳴り声が聞こえてきた。男の声、あの夜汽車の声だ。痛がっているのだろうか、一丁前に。リクガメはもう、苦しむことすら出来ないのに。


 扉の前に至ると、それは怒鳴り声ではなく泣き声だと言うことにスッポンは気付いた。なんであんたが泣くの? 冷めた胸の内がさらに温度を下げる。声すら耳障りだ。一刻も早く止めなければ。


「……の時、自分から……」


 扉の取っ手に手を伸ばしたスッポンだったが、部屋の中から聞こえてきた夜汽車以外の声に眉根を潜めて手を止めた。よくよく耳を澄ますと、トカゲも中にいるようだ。軽く舌打ちする。トカゲの前で搾血(さっけつ)はしたくない。トカゲは男を怖がるから。狩り合いの時は無我夢中で働いているのかもしれないが、搾血場では動かぬ男の体にさえ触れることができなくて、作業もままならなかったから。目に映るのすら不快だろう。出来ればトカゲには席を外してほしい。トカゲの怯える顔はスッポンも見たくない。


 なぜトカゲが男である夜汽車の部屋にいるのかという根本的な問題には考え及ばずに、どうやってこの場からトカゲを追い出そうかとスッポンが考えを巡らせていると、


「…れば、リクガメが死ぬことはなかった」


 リクガメの名前が耳についてスッポンは目を見開いた。


「…僕が、死ぬべきだった……?」


 夜汽車がトカゲに尋ねる。当然だ、スッポンは頷く。しかし、


「リクガメは、お前を生かすことを選んだ」


 トカゲがスッポンの考えを否定した。スッポンは扉を見つめる。その戸板の先にいるトカゲを見つめる。


「リクガメがお前を選んだ」


 トカゲはさらに言う。


「リクガメの意思だった」


 リクガメの思いを代弁する。


 そんなはずない、スッポンは首を横に振った。リクが死ぬ必要なんてあるはずない、その夜汽車こそが死ぬべきだった、その夜汽車さえいなければ! 現場を見ていないスッポンは、その場に居合わせたトカゲの証言を否定しようと扉の取っ手を握りしめたが、


「リクガメと、お前が飲んできたコウという奴に感謝する」


 トカゲの言葉に全身の動きを止めた。顔を上げて扉を見つめる。トカゲの言い分の意味がわからなくって瞬きを繰り返す。トカゲがリクに感謝する?? 何を? なんで? 何に…、


「どういう意味?」


 夜汽車も同様に理解出来なかったらしい。スッポンと同じ疑問を口にした。スッポンは夜汽車と共にトカゲの答えを待つ。


 元からさほど大きくもないトカゲの声はさらに音量を下げて、


「ヤモリが喜ぶから」


 風が砂を転がすように囁いた。


「お前の肩車が好きだから」


―俺も。大好きだよ―


「お前が死ななくて良かった」


 おそらく傍にいる夜汽車さえ聞きとり難かっただろう小声で、トカゲは言った。


 夜汽車が叫ぶ。トカゲに八つ当たりして理不尽に憤って怒号を上げる。


 トカゲが話す。相変わらず小さな声で何かを夜汽車に伝えている。夜汽車の声、衣擦れの音、静寂、吐息、再び号泣。


 スッポンは扉の取っ手から手を離した。壁に凭れかかり、そのままずるずると床に沈む。


―よかった―


 リクガメに言われたことがある。あれはいつだったか。ああ、そうだ。あの赤の中だ。


―……よかった―


 ワシが来て、駅が燃えて、義兄が、母が、祖母が叔母がみんなが燃え盛る炎の中で、


―……よかった―


 リクガメは言ったのだ。自分の肩を抱いて頬を包みこんで、泣きそうな顔で目を覗きこみながら、心底嬉しそうに呟いた。


 あの時はわからなかった。その理由が見当もつかなかった。駅が燃えて皆が倒れ行く中で、いいことなんて一つもないのに何を言っているの? そう憤ったりしたその疑問がたった今、解けた。


 夜汽車が泣いている。くぐもった声で泣き叫んでいる。


 スッポンの頬を再び大粒の滴が流れ落ちる。夜汽車と共に扉一枚を隔てて、声を押し殺して同じように泣き濡れる。


 リクガメはあの時、喜んでくれたのだ、私の無事を。燃え盛る駅の中で倒れ行く仲間もよそに、自分の無事だけを見て、そのことだけを喜んでくれた。数え切れない絶望の中でもたった一つの、自分なんかの命に向かって微笑んでくれていた。自分が思っていた以上に思われていた事実を噛みしめる。そんなことにも気付けなかった自分の幼さに顎を引く。


―待ってるよ―


 今度は私の番なんだね。


―無理すんなよ―


 多少はしなきゃやってけないべさ。


―大好きだよ―


 私も。




 扉を見つめる。その向こうにいるトカゲに苦笑を向ける。


 ずるいね。あんたにそこまで言わす相手ば死なす訳にいかないしょや。


 夜汽車の号泣に目を閉じて、スッポンはその場からそっと離れた。






「何すんだよ!」


 打たれた頬を手の平で覆って怒鳴りつけたイシガメに、


「ずるすんなよ」


 アオウミガメが凶悪な視線と共に凄んだ。


「なにが…!」


「はんかくさいっつってるの」


 イシガメの反論を許さずにアオウミガメは言う。


「狩り合いでしょ? 誰がやられてもおかしくないって知ってたべさ。ヘビなんてどんだけやられてきたと思ってんの? シマの前でよくもそんな態度がとれるもんだね」


 失念していた事実を突きつけられてイシガメは口を噤む。


「リッ君がやられたのはリッ君のせいだよ……違うかもしれないけど。でもそれは事実でしょ。どんだけ後悔したって『たられば』言ってたってもうどうすることも出来ない過去でしょや」


「過去って…!」


 たった数時間前の事件を『過去』と言い捨てたアオウミガメに、イシガメは反論しようとしたが、


「結果論とも言う」


 言い直された正しい言葉遣いに、憤りの行き場を無くして顔を逸らす。


「結果論なの、イシの言ってんのは」


 アオウミガメは繰り返す。


「後から『ああすれば良かった』なんて誰でも言えるけど、その時はそう出来なかったんだもん。仕方ないべさ」


 諭しながら鼻声になっていく。


 「アオ…」とアオウミガメを心配したタイマイに後ろ手で待つように告げて、アオウミガメは鼻水を啜りあげた。


「……仕方ないって、そったらこと言ったって、どんだけ考えても俺が悪いのは…」


「イシ、」


 尚も自分を呪おうとするイシガメに涙目を近付け、アオウミガメは鼻水を啜りあげて、


「逃げちゃ駄目だってばぁ」


 言って顎を引いた。既に目尻からは涙があふれ、呼吸は不規則にしゃくりあげている。


「しっかりしてよ、あんたリッ君の右腕でなかったの? あんたがそんなんでどうすんのさ……」


 両手の付け根で両目を押さえつけて肩を上下させるアオウミガメを前に、イシガメは何も言えない。


「恨む相手ば探してたって見つからないってば」


 イシガメがアオウミガメを見つめる。


「あんたがしてんのは逃げだよ。だってないべさ、そったらもん。見つかったとしたら冤罪だわ。だってそいつば責めて攻めて排除したって何一つ解決しないしょや。

 カエルのせいだって言ったってあっちだってうちらに仲間ば獲られてるべさ。でも狩り合いやめる訳にいかないし狩り合わなきゃ生きてけないし瓶詰無しでやってける方法でも見つかんない限りこの関係は続けなきゃいけないっしょや、お互いに」


 施したら施し返す。持ちつ持たれつ助け合う。それは狩り合う間柄の中にさえ横たわる普遍的な原理だ。


 クサガメは押し黙る。シマヘビが叱られた子どもみたいに肩を竦めている。肩を震わせるアオウミガメの啜り泣き以外に誰も何も言えない中で、セマルハコガメが短く唸った後で泣き出した。


 右手で両目を押さえている。押し隠そうとする声は食いしばった歯の隙間から漏れ出ている。手首を伝って滴る涙も隠さずに、セマルハコガメは咽び泣いた。


「マルちゃ…?」


 アカミミガメが戸惑いがちに呼びかける。セマルハコガメは水浸しの小汚い顔を向けると「お前らぁ、」と年下たちを見回し、


「泣げよぉ」


 大声で囁きかけた。


「こっ、こういうどきはぁ、ちゃんと悲しぶべ?」


 誘い文句を垂れた後で、本格的に号泣した。


 セマルハコガメが泣く。一番の年長者が幼子のように涙を流す。その泣き姿があまりに情けなくて、呆気に取られていたカメたちは堪らなくなって噴き出した。


「マル、汚い」


 アオウミガメが泣きながら鼻で笑う。


「わざとだよお!」


 大号泣のセマルハコガメが強がる。その姿にカメたちは遠慮なく笑い、歯を見せて笑い、下顎を食いしばって笑ってわらって泣き始めた。


「リッくぅん…」


 タイマイが失った大き過ぎる存在の名前を唱えながら蹲る。


「リクさあああん!」


 シマヘビも顔を覆う。


 女たちは皆素直だった。両目を擦ったり励ましあったりしながら悲しみに暮れ、啜り泣きの重奏が辺りを包んだ時、女たちの涙を引っ込ませるほどの泣き声が響き渡った。


 泣き声の主はイシガメだ。目も鼻も口も全開にして、穴という穴から水分を放出して、立ち膝の姿勢で正面を向いたまま、気が触れたかのように泣き続ける。あまりに豪快な泣き姿に呆気に取られた面々も、やがて失笑しながら再び泣き出し、徐々にイシガメにつられていった。


 見事な泣きっぷりだった。駅の構内にいるヘビたちが思わず天井を見上げるほどに、カメたちの泣き声の大合唱は空に地面に響き渡った。


 アオウミガメが泣き崩れる。セマルハコガメが泣きながら膝をついて労う。アオウミガメは何か憎まれ口を叩いていたようだが誰の耳にも何を言っているのか判別不能で、やがてセマルハコガメに頭を撫でられるのも受け入れて泣いた。


 クサガメがイシガメの横に行く。ワシの襲撃直後の日々のように兄にしがみつく。それを待っていたかのようにイシガメは弟の肩を握る。あの頃、唯一の家族と離れるのが恐ろしくてたまらなかったのは、もしかしたらイシガメの方だったのかもしれない。


 タイマイがシマヘビに礼を言う。カメのために泣いてくれてありがとう、と感謝する。シマヘビは首を横に振りながらわあわあ叫んで、タイマイと抱きしめ合う。


「おい!」


 場違いな声が響いてカメたちは振り返った。改札口に立っていたのはオサガメだ。孫と同様に裸足で砂を踏んでいる。


 「おっぢゃん?」とトゲヤマガメが涙声で呼びかけると、オサガメは「イシガメはどこだ」と尋ねた。イシガメは弟の肩を台にして立ち上がり返事をする。


「なしだ、じいちゃん」


「お前、イシガメか?」


 まるで見えていないかのにような顔で孫を訝ったオサガメは次の瞬間、


「あいつ、あー…、あの、あれ、リクガメ!」


 その場にいた全員が息を飲んだ。空気が変わったことにも気付かないでオサガメは尚も「リクガメはどこだ」と繰り返す。何と答えるべきかどう説明すべきか、そもそもオサガメは散々良くしてもらったリクガメのことも忘れていたはずなのに。


「「じいぢゃん!!」」


 イシガメとクサガメが真っ赤な顔を並べて怒鳴った。


「そで、リグいるどきに言っぢゃれよおっ!!」


 イシガメが地団太を踏んで泣き出した。兄弟の泣き声に再びカメたちも呼応する。


「な、なんだ? お前ら……」


 困り果てるオサガメにヤマカガシが歩み寄った。「お前誰だ」と不審がられるも曖昧に誤魔化す。


 雨が止んだ空の下、カメたちの泣き様を、欠けた月と戸惑うオサガメと唯一泣けないヤマカガシが黙って静かに見つめていた。

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