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アイノナイバショデ  作者: 笛み
番外編
155/159

10+155 何言ってるの?

「いつからけ」


 頭の中に渦巻く轟音と熱波などおくびにも出さずに、アカマタは努めて静かな声で尋ねた。

 自分には知る権利があると思う。尋問くらいさせろと思う。妻には答える義務がある。


 妻は泣き続ける赤ん坊をぼんやりと見下ろし、その口に自分の指をしゃぶらせた。その姿だけ切り取ればまるで美しい母子像だ。


「……あの地震の時、」


 赤ん坊を静まらせた静寂の中で、妻はぼそりと口を開いた。


「潰れそうな駅の中で、みんな自分のことでいっぱいいっぱいになってたのに、リクだけは駅の改札を体張って守ってた。ほんとは違ったみたいだけど、その姿を見てお父さんがリクを褒めてて、わたしもすごいなって思って」


 妻は虚ろな顔のまま思い出話を語り始めた。


 先の地震と言えば二十年前の話だ。いや、まだ十七、八年目だったかもしれない。ヘビの駅は大して被害が無かったしアカマタ自身、記憶というよりも記録を手繰るような感覚だったが、被害に遭った当事者にとってはいつまで経ってもそうはならないものなのだろう。


「そのすぐ後で、お父さんがネズミに遭って、おじいちゃん部屋()でみんなで住むことになって。おじいちゃんちにはおじいちゃんもおばあちゃんもおじさんもおばさんもお兄さんもイシクサもいて、賑やかになったけどでもやっぱり寂しくて。けどお母さんには言えないし、お姉ちゃんもあの頃はお兄さんと喧嘩っていうか険悪な雰囲気だったし、お兄さんも雰囲気違くて近寄れなくて。賑やかだったけどどっかぎすぎすしてて居心地悪くて、でも私には同年組なんていなかったからお姉ちゃんがミナミさんとこ行くみたいなことも出来なくて……、」


 妻は鼻声になって詰まりながら過去を語る。その中には覚えのない『お兄さん』や『おじさん、おばさん』など、おそらくワシに殺されたであろう者たちがちらほら挙がってきたが、アカマタは黙って聞き流していた。


「でも、リクは優しくて、」


―なしたの、おまえ―


―え? 地上(うえ)?―


「ネズミに遭ってから絶対行っちゃ駄目ってお母さんに止められてたけど、リクが連れてってくれて。後でリク、お母さんからなんま怒られてたのに、」


―ごめんおばさん、おれがわるいんだよ―


―おれがこわくてスーについてきてもらった―


「わたしのわがままば、かばってくれた」


 そこで妻は微笑んだ。


「それから、リクなら遊んでくれるって思って付いて回って、遊んでもらえたり無視されたりその時によって違ったけどでも、最後は絶対手ぇ繋いでくれて嬉しくて。好きだなって思ったのが七歳」


 アカマタは妻を二度見する。突如始まった昔話は()の男との慣れ染めについてだったらしい。


 しかしそれよりもその始まりの年齢が、自分の予想を遥かに超えたものだったことに驚きを隠せなかった。


「でもリクはずっとお姉ちゃんのことが好きで、私がなんぼ好きすき言っても全然かまってくれなくて。十年? くらいは完全に私の片思いで」


 アカマタは妻を凝視する。思い出に浸る妻は微笑みまで浮かべて、嬉しそうに赤ん坊を見つめている。


「けど私が十六の時、初めて答えてもらえて、」


「何を」


 思わず口を挟んだアカマタをちらりと見てから目を伏せ、赤ん坊を見下ろしたスッポンは「気持ち」と答えた。


「私から告白して押し切る形で付き合い始めた」


 初めての交際は妻が十六の時だった。


「それからすぐに、リクは『結婚しよう』って言ってくれたけど、まだ十代だったし付き合い始めたばっかなのに結婚は早いべさって思って本気にしてなかった。でもいつかは、とか思ったりして、でもやっぱりお姉ちゃんの先超す訳にはいかないっしょとか言って。

 ……あの頃が一番楽しかった」


 うっとりと微笑んでいた妻はそこでさっと顔色を変え、


「でもワシが来た」


 唇を固く結んだ。言葉にするのも耐えがたい経験は昔話から端折られる。


「……ヘビの駅は、女は結婚相手以外と付き合わないってサワさんから聞いて、カメの駅とは違うんだなって思って、リクにも他の、リュウちゃんとかイシクサとか他のカメのみんなにも、私たちの関係はヘビには内緒にしといてってお願いした」


 アカマタは口を開けたまま眉根を寄せる。自分が出会った頃には、妻は既にあの男と交際関係だったという事実に唖然とする。


ヘビの駅(こっち)に来てからもリクは何回も『結婚しよう』って言ってくれてて、そうすれば私たちの関係も内緒にする必要もないしって、早く一緒になろうって言ってくれてたのに、」


 妻は下顎に力をいれる。上唇を噛みしめて何かを飲み込む。


「……お姉ちゃんの再婚とか色々あって、私が気持ちの整理つかなくて、」


 義姉の容態は酷い物だった。今でこそ駅の頭首(その夫)を尻に敷き、影の実力者然として駅に君臨しているが、当時の義姉はアカマタの目にさえ、命が尽きかけているようにも見えた。


「やっと目ぇ覚ましたと思ったらおじいちゃんはあんな状態になっちゃってたし、介護のやり方とかも何となく手が抜けるようになったと思ったらウミヘビさんが亡くなっちゃって駅の中ぐちゃぐちゃになるし、したら今度はスジば預かることになってってなんかもう、ずっとばたばたしてて私、いっぱいいっぱいで、」


 それはアカマタも知っている。ヘビの駅に来て以来、妻は常に何かに晒されていた。


 だからこそ自分が何かしてやりたいと思った。


「リクは何回も何回も結婚の話してくれてたのに私は自分のことしか考えてなくて、待たせるのが当たり前みたいに思ったりしててそのうちリクも何にも言わなくなって、」


 別れたのか。その隙に自分との結婚が決まったのか? アカマタはそう思ったがしかし、


―わかったよもういいわ! 好きにしろよ―


―なんぼでも待つから―


 あの男は凄まじい忍耐力の塊だったらしい。


 思い出に目を細めていたはずの妻は、いつの間にか泣いていた。ワシの乱心の下りからだったかもしれない。義姉が塞ぎこんでいた辺りだったかもしれない。きちんと見ていなかったアカマタにはわからない。


「待っててくれてた、ずっと」


 涙を流しながら妻は言う。


「ずっとずっとそばにいてくれて、いっつも支えてくれて、おじいちゃんのことも私たち以上にお世話してくれてでも嫌な顔しないで、」


―おっちゃん、これ見てくれっかい?―


―さあ、誰だべね―


「私はいっそ……、お、おじいちゃんあの時、死んでくれてたら…とか、ぃ、酷いこと思ったりしたこともあったのに…」


―いかったよなあ、おっちゃんがいてくれて―


「リクはほんとに本気で、心底おじいちゃんのこと思っててくれて、あ…あんな、昔の面影ほとんどないのに、ご飯もお風呂も……も、全部私たちが手ぇ貸さなきゃなんもできなくなっちゃったのに、…のに!」


―おっちゃんはおっちゃんだべや―


 妻が目元を手の平で覆う。おしゃぶりを奪われた赤ん坊がか細い声を出し始める。


「感謝なんて言葉じゃ足りないくらい、…ッ!」


 義祖父の世話に関して、暗に責められている気がしたアカマタは顔を背けた。


 目元を覆い、しゃくりあげながら妻はなおも続ける。


「感謝してたし、腹も立ったし、三日に一回は死ねって思うくらい嫌になることもあったけど一日に三回は笑わせてもらってて、その度に大好きって感じて。

 好きで好きで好きで好きで、当たり前過ぎて、いなくなることなんて考えたことなくて……」


 妻の引きつけが激しさを増す。赤ん坊が泣き始める。


「これからも一生、ずっと一緒にいるもんだって思ってた」


 二十年に渡る男との関係を語り終えて、妻は突っ伏した。


 アカマタは呆然と座り尽くす。何を聞かされていたのかわからなくなるほど、自分の影など微塵も出てこなかった妻の半生に愕然とする。


 責め立てるつもりだった。俺という物がありながらと、間男の入りこんだ瞬間を付きとめて咎めて追い出して、あの男が二度と侵入してこない様に隙間を塞ぐはずだと思っていたのだが、


 あの男は間男だったのか?


 むしろ自分の方こそが………。


「……なんでけ」


 赤ん坊の泣き声と合唱するように号泣する妻にアカマタは尋ねる。


「そんな相手がおったがに、なんで俺と結婚したがけ」


 夫という立場のはずなのに妻の半生の中に自分は全く入っていない。むしろこの今の状況こそが取って付けたような、何かの間違いのような錯覚にすら思えてくる。


「なんで自分、」


 そんな相手がいたのならば、


「なんでぇ!」


 間男にすらなれていない。


「なんで俺と結婚した!!」


 悲鳴に近い絶叫でアカマタは問い質した。


「断わればよかったろう! 『自分には心に決めた(もん)がおります』言うて! 『この縁談は受け入れられません』言うて!」


 アカマタは本気だった。本気でこの女と夫婦になれたらいいと思っていた。


「そんな話、一ッ言も言っとらんかったろう!」


 二つ返事だった。見合いの席は呆気ないほどに簡単にまとまった。


「言えば良かったにか! 断われば済む話やろ! それをなんでこんな…」


 子どもまで生まれてしまって、もうすぐ結婚一周年を迎えようという段において、


「一言『ごめん』で済んだがに、そしたらここまでッ!」


 自分だって本気にならずに済んだのに。


 それ以上言葉が続かなくてアカマタはちゃぶ台を叩いた。握った拳に違和感を覚えたが、それを痛みと知る感覚を失っていた。


 赤ん坊が泣く。ぐわんぐわんと頭を揺さぶられているような騒音が部屋に響きわたる。


 妻が笑った。赤ん坊の泣き声の中で、小ばかにしたような鼻先に抜ける音を、アカマタは確かに聞いた。


 何故笑う。何が可笑しい。笑う要素などどこにもないしお前が笑う資格など…!


「何言ってんの、マタさん」


 笑いながら妻が言う。頭が可笑しくなったかとアカマタは訝る。自分か、妻か、あるいはその両方が狂ってしまったのか、と。しかし、


「私たちが、ヘビに逆らえるわけないべさ」


 可笑しくてたまらないとでも言いたげなびしょびじょの顔で、妻は言った。


 狂った訳ではない。妻は極めて正常だ。そして自分の見間違いでもない。


 冷や水のような言葉を浴びせられて冷静さを取り戻したアカマタは、気づいてしまった。この女は一度たりとも自分を見たことなどなかったことを。妻は、このカメの女は、カメとしてヘビに嫁いできたに過ぎなかったことを。

 夫婦だと思っていたのは自分だけで、女はそうではなかった。『妻』という枠に入れというヘビからの圧力に従っただけの、別の男の物だった。


 女が目元を拭う。赤ん坊を寝床に置いて、黙って部屋を出て行く。


 後に残されたのは、自分の代わりに泣き続ける赤ん坊の声だけだった。

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